64.暗い屋根の上で
「……」
背の高い民家の屋根に上って、アルフェは街並みを見渡していた。
星も月も出ていないこの夜更けだ。街灯があるとは言え、さすがに屋根の上は暗い。しかし、敵がどの道を使って逃げたのかは分からないにせよ、地上よりはここからの方が遠くまで見通せる。
それに、暗殺に失敗した刺客が、街灯に照らされた通りをのこのこ通って逃げるとも思えない。ならば、屋根の上だろうか。その可能性を考え、アルフェは壁を蹴り、ここまで登ってきたのだ。
――いた。
わずかな光に照らされて、遠くを逃げる何者の姿が目に映った。黒い輪郭が動くのをぼんやりと確認できる程度だが、おそらくは賊に違いあるまい。こんな時間に屋根の上を走る者が他にいるなら、逆に見てみたいというものだ。
都市の外に逃げるつもりだろうか。その影はまっすぐ市壁の方へと向かっている。
――逃がさない……。
アルフェはそれを追って、全力で駆けた。白いドレスを着た裸足の少女。見ようによっては亡霊のように見えるそれが、ぐんぐんと獲物との距離を詰めて行く。
追われている方は振り向きもしない。だが、彼は既に、自分が追われていることに気付いているはずだ。さっきよりもその動きが速くなったのがその証左だ。
音も立てず、屋根の上を跳び伝う賊の身軽さは、間違いなくその道の熟練を示すものである。だが、夜の空気を裂いて、後ろから賊に迫る追跡者の速度は、もはや獣じみていた。確実に、二つの影は近づいていく。
「――!」
このまま行けば、都市を出る前に間違いなく捕捉できる。アルフェが確信した瞬間、賊は何かを投擲した。二本の棒状の物体が、闇の中を飛ぶ。百歩近い距離から、後ろも見ずに投げられたそれは、正確に少女の眉間と喉下に迫った。
アルフェは走る速度を落とさずにそれを避ける。髪を結い上げ、顕わになったうなじの横を、先の尖った鉄の棒が通り過ぎて行った。
追っ手を迎え撃つべきか、振り切るべきか。判断に迷ったのだろう。初めて賊の動きに逡巡が生じた。男は後ろを振り向いて、追跡者の姿を確認しようとした。
「いた! あれだ!」
「おう!」
その時、町の夜空に火花が上がった。別の道から追ってきていたらしい。地上にいたリグスの配下が、短弓から何かを打ち出したのだ。そしてそれは強烈な閃光を発し、立ち並ぶ屋根を茜色に染めた。
黒いフードを被った暗殺者の姿が、アルフェの目にはっきりと映る。敵は突然の光に左手をかざし、目を守っている。
相手との距離は三十歩。アルフェは走る速度を殺し、足を踏み込んで遠当てを放った。
「――っ!」
しかし、勢い余った彼女は、足元の瓦屋根をぶち抜いてしまった。結果的に技は不完全となり、見えない拳に殴られた賊は僅かによろめいただけだ。
「――くそッ! 魔術士か!」
賊はマスクの下から、くぐもった声を漏らした。遠目からの輪郭だけでは、性別までは判別できなかったが、やはり男のようだ。
「うぐッ!」
突然男が悲鳴を上げた。その左肩には、リグス配下の傭兵が放った矢が、深く突き刺さっている。
アルフェの体が、男に近づく。爛々と光る碧い目が、彼の命を捉えていた。
しかし男は体勢を立て直すと、懐から何かを取り出して、無言で足元の屋根に投げつけた。破裂音と共に、もうもうと白く濃い煙が立ち込める。アルフェは構わず追おうとしたが、煙の中から再び棒状の投擲武器が飛び出した。
「つッ!」
アルフェは意表を突かれ、左腕を掠られてしまった。
「……」
数十秒後、辺りに漂う煙が晴れたが、既に男の姿は無い。まんまと逃げおおせられてしまったようだ。
無念に思うが、このままここにいても仕方が無い。とりあえず、下にいる傭兵たちと合流しよう。そう考えて、アルフェは屋根を飛び降りた。
「ようアルフェ。無事か」
「……ウェッジさんですか?」
「ああ」
通りに降りてきたアルフェに、坊主頭にバンダナを巻いた男が近寄ってきて話しかけた。アルフェはリグスの部下全員の顔を覚えているわけではないが、確かこの男が、グレンの言ったウェッジという男のはずだ。彼はリグスの傭兵団で、主に斥候を担当している。
ウェッジの背後にはもう一人、あごに傷を持った傭兵が立って、周囲を警戒している。この二人が、今ほどの戦いでアルフェを援護したのだろう。
「負傷したか」
アルフェの左腕に目を止めたウェッジが言う。彼女の二の腕には、わずかに血がにじんでいた。
「問題ありません。かすり傷です。……それよりも、敵に逃げられてしまいました」
「いや、まだ追える」
もう一人の傭兵が口を出した。ウェッジもその言葉に同意する。
「ああ、あいつに刺さったボルトに仕掛けがしてある。匂いをたどって、俺なら追うことができる」
「……なるほど」
ウェッジが中空に鼻を向け、何かを嗅ぎまわるしぐさをする。アルフェともう一人の男は道の端に引き下がって、一言も発さずその様子を見ていた。
「こっちだ」
しばらくそうした後、ウェッジが片手で手招きをする。それに従って、アルフェは足を踏み出した。
「……?」
しかしその足が、ほんの少しだけもつれた。
男たちは、そんな彼女を怪訝な顔で見やる。
「……どうした?」
「……いえ、何でも」
アルフェは首を振ってそう言った。少しだけ、視界が揺れたように感じたが、今は何ともない。ただの気のせいだろう。
「敵が市壁を乗り越える前に、追いつきましょう」
「ああ」
人気の無い夜の街を、三人は走った。
◇
先刻まで、薄い雲に隠されていた月が出てきた。都市の人間は、もうすべて眠りについている時間、路地裏で荒い息を吐く音だけが聞こえている。
――畜生ッ! 畜生ッ! 畜生ッ! 何だってんだ!
心の中で悪態をつき、血のにじむ左肩を押さえながら、黒装束の男が歩いている。男はたった今、追跡者の手から命からがら逃げ延びてきた所だ。
――話が、違うじゃないか!
その罵りが、誰に向けられたものなのかは分からない。彼を雇った人間か、あるいは、自分自身の迂闊さに対してか。
――あんな奴がいるなんて、聞いてないぞ!
今夜の彼に与えられたのは、それほど難しくない仕事のはずだった。少なくとも、雇い主の話ではそうだった。なのにこんなしくじりを犯すとは。
その原因は、標的の護衛をしていた少女である。事前情報では、標的が雇った傭兵団の中に、あんな娘がいるとは聞かされていなかった。
間違い無く命中するはずだった矢を、倒れたテーブルで防がれた。どうしてそうなったのかは分からないが、あの娘がやったのだ。矢を射る直前、向こうから視界が効くはずのない、暗闇の中にいた自分と、娘の眼が確かに合った。
「畜生……!」
止血を試みたが、肩から流れる血は止まらない。刺さった矢は、太い血管を貫いている。抜けば恐らく、更に大量の血が溢れるだろう。
男は走っているつもりだが、外から彼を見れば、のろのろと歩いているようにしか見えない。男はようやく足を引きずって、何とか前に進んでいる状態だった。
――駄目だ……。こんな所で……、俺は、死ぬのか……?
もう諦めろと、死神が囁く声がする。
――いや! 違う!
それはできない。自分はまだ死ぬわけにはいかない。
男は朦朧とする両の目を、気力でこじ開けた。自分が死ねば、郷里に暮らす老いた母に、誰が金を送ってやれる。死んでたまるか。
――もう少し! もう少しで合流地点だ……!
そこに行けば仲間がいる。そうすれば助かる。己にそう言い聞かせて、男は都市のはずれ、市壁の際までやってきた。五体満足な状態の彼ならば、乗り越えることも容易なはずの壁が、まるで絶望そのもののように、闇の中に黒く立ちはだかっている。
――あいつは、どこだ……?
ここが合流地点のはずだ。しかし仲間の姿は見えない。場所を間違ったのか。それとも、見捨てられたのか。考えたくないが、その思いが段々と強くなる。
――いたッ!
だが、その心配は杞憂だった。
石壁にもたれかかり、彼の仲間が立っていた。生き延びた。彼の心に安堵感が広がった。
「――すまない。助かった。……恩に着る」
それは、心の底からの感謝の言葉だった。彼が裏家業に堕ちてから今まで、こんなにありがたいと思うことは無かった。
「……悪いがしくじった。任務は失敗だ」
「……そうか」
「引き上げる前に、俺の手当を――」
「じゃあ、お前はもう、お役御免だな」
「え?」
と言って顔を上げた彼の前に、蔑むような、哀れむような視線がある。
「――お疲れさん」
次の瞬間、仲間の腰から目にも止まらぬ速さで抜き打たれた剣によって、彼の首は刎ね飛ばされた。
「……全く、面倒をかけさせてくれるなよ」
仲間の首を軽々と刎ねた男は、死体を見下ろしながら、忌々しそうにつぶやいた。
仕事をしくじった者を、生かしておくわけにはいかない。それだけの裏が有る仕事だ。死体になった男も、十分に分かっていたはずである。それなのに、なぜのこのこと戻って来たのかと。
それに、どっちみちあの出血だ。自分が手を下さなくとも、こいつは死んだはずだ。ならば、せめて一太刀で終わらせてやるのが、仲間の慈悲というものだ。
「悪く思うなよ」
男は刀身に付いた血を振り払い、剣を納める。死体は首と一緒に用水路に蹴り込んだ。これが市壁の外まで流れていけば、間抜けな仲間の尻拭いは完了というわけだ。
彼は踵を返し、その場を立ち去ろうとした。だが――
「……チッ。本当に面倒だぜ。全く」
その時には、行く手は既に塞がれていた。




