60.パーティー
――何も感じなければいい。
誰かが私にそう言った。その人の言葉は、とても優しく暖かいものに聞こえて、私は、その通りだと思った。
何も感じなければいい。……でも、どうして何も感じてはいけないのか。
――考えてはいけない。
そうだった。何も考えてはいけない。
この城の外には何も無い。
――それでいい。
褒められた。私は嬉しいと思った。
だから、これでいい。外に出たいなどと、願う必要は無い。
――……それでいい。
魔術士の格好をした人その人は、もう一度私を褒めて帰って行った。
そう、あれが魔術士の格好なのだと、本に書いてあった。
本……?
私はベッドの下に隠しておいた本を取り出した。それは、様々な動物の絵姿が載った図鑑だ。
世界には、色々な人や、色々な生き物がいて、色々な街がある。
本にはそう書かれている。
私は窓の外を見た。そこには、私が行ったことのない風景が広がっている。
それでも、外には何も無いのだ。
だから、私はこの部屋の中にいる。
◆
「…………朝」
ここは宿の一室だ。隙間だらけの木の窓からは、締め切っていても光が漏れる。その光が、室内に浮いた埃を照らしていた。何か夢を見た気がする。しかし、その内容は思い出せない。覚醒したアルフェは、寝台の上で身体を起こすと、手で額を押さえた。
ほのかに頭痛がする。
「……? なに、これ……」
寝台の際に腰掛けるような形で、木の床にペタリと足をつける。
今日、自分はどんな夢を見たのだろうか。それが妙に引っかかる。不安で心がざわいている。
「…………ふぅ」
だが、思い出せない夢にいつまでも拘っている暇はない。今日は、傭兵隊長のリグスと会う約束をしている。約束の時間は昼だが、それまでは鍛冶屋で防具の調整をしてもらったり、冒険者組合で情報収集をしなければならない。気持ちを切り替えるために頭を振ると、アルフェは既に、いつもの無表情に戻っていた。
上着に手早く袖を通し、スカートをはくと、無言のままドアを開ける。そしてドアを閉じようと振り返った瞬間、アルフェの動きが止まった。
「…………」
がらんどうの部屋の中には、「行ってきます」を言う相手はいない。
「…………」
彼女が扉を閉めるまで、数秒の間が有った。
「というわけでな、何とか引き受けて欲しい」
「というわけと言われても……。……とりあえず、頭を上げてくれませんか」
テーブルに両手をついて、山賊のような大男が少女に懇願している。はたから見れば異様な光景だ。
リーフと共に、廃鉱から帰って数日後、以前に傭兵隊長のリグスと会った食堂で、アルフェは彼に頭を下げられていた。
ここは酒も出す店だが、今はまだ明るいので、若い女性の客などもいる。彼女たちは、この非対称な二人連れを横目で見ながら、声を潜めて囁き合っている。
「クルツ坊ちゃん直々のご指名なんだ。何とか頼む」
「……だから、嫌なのですが」
アルフェは小声でつぶやきながら、露骨に嫌な顔をした。
クルツとはリグスの雇い主で、この領邦を統治するエアハルト伯の次男だ。その男がリグスを通して、アルフェに冒険者としての仕事を依頼してきた。護衛の依頼だ。
「それに、護衛ならリグスさんたちがいます」
「そんな冷たい事を言うなよ……。な?」
初めて会った時、クルツはアルフェのことを、偶然同行した旅人としか認識していなかったはずだ。だがどうやら、クルツに問い詰められて、リグスはアルフェが冒険者だという事を喋ってしまったらしい。
もともとクルツは、違う意味でアルフェに興味を持っていたようだが、それでなおの事、彼の関心に火が付いたそうだ。アルフェにとっては迷惑千万な話である。
「護衛する場所が場所でな。俺たちじゃあ、役に立たんと仰るんだ。実際、今度ばかりは坊ちゃんの言う通りだ。俺たちだけじゃ、護衛を全うできんかもしれん」
「場所……? まさか、それほどの魔物が?」
アルフェの声に若干の緊張が混じる。
リグスはアルフェの様な小娘とも気さくに話す、傭兵らしからぬ砕けた性格の人物だが、同時に相当な戦闘力の持ち主でもある。巨大な戦槌を棒きれのように振るう膂力は、傭兵界でも一目置かれていた。例えば今のアルフェが一対一で闘っても、勝てる相手かどうか、というところだ。
彼の兵団は少人数だが、面子はどれも腕利きだ。それを役に立たないと評するとは、クルツという男は一体、どれほど危険な場所に行こうとしているのか。
「いや、違う。と言うか、今回は魔物が相手じゃあない」
「……? と言うと?」
では、人間を相手にするということか。アルフェの眼光が更に鋭くなった。
真剣な面持ちで、リグスは次の言葉を紡ぐ。
「――実はな、明後日の晩餐会の付き添いが欲しいんだと」
「は?」
「坊ちゃんが、晩餐会のパートナーが必要だって――」
「お断りします」
アルフェは間髪入れずに言った。同時に、彼女の中にうんざりした気持ちが沸き起こる。
あの若者は、以前も自分やステラにちょっかいを掛けて来たが、このようにあからさまな手段に出るとは。まさか仕事にかこつけて、自分を誘い出そうとするとは思わなかった、と。
「失礼します」
「ちょっと待った! 待ってくれ、俺の話を聞いてくれ! 頼むから行かないでくれ!」
腰を浮かそうとしたアルフェの袖を、慌ててリグスが捕まえる。彼らの隣に座っていた三人連れの女性客が、それを見て妙な歓声を上げた。
一体何だというのか。アルフェは渋々席に戻った。
「護衛が必要なのは本当なんだ。……実は最近、あの坊ちゃんは、どこに行くにも狙われている」
「狙われて? ……暗殺者ですか?」
このエアハルト伯領では、クルツと彼の兄との後継問題が持ち上がっていると聞いた。ならば、考えられるのはその類のことだ。
「殺そうとまで考えているのかは分からん。ただの脅しかもしれんし、身柄をさらって、監禁しようとしてるのかもしれん。だが、とにかく何度かそれらしい奴らを追い払った。最近は姿を見せなくなったが、気配は感じる。お陰で俺たちも、坊ちゃんから全く目が離せんのさ」
実際に今日も、クルツの側にはリグスの隊の若い者たちが張り付いているという。
ならば、外に出ずに引きこもっていれば良いとアルフェは思った。ましてや晩餐会など、自分の命が危機にさらされているのに、ずいぶんとのんきな話に聞こえる。婉曲にアルフェがそう言うと、リグスは唸った。
「それはならんと仰るんだ。どうしても欠席できない会らしい」
「……」
「あの坊ちゃんは、兄貴を出し抜いて伯の後を継ぐのを諦めていない。大事な社交の場から、逃げることは出来ないんだと」
雇い主について語るリグスの顔は、いつかと同じく苦々しい。
「しかも、その社交の場に、俺たちみたいなむさい奴らを、大勢連れて行く訳には行かないとさ。へっ、御挨拶だぜ。まあどっち道だ、正直手が足りてない。……それにお前なら、武器が無くても戦えるだろ? ああいう場所の護衛には丁度いい」
アルフェは口を挟まず聞いている。
「真面目な話、お前が付いてくれると助かるんだ。今あいつに死なれたら、俺たちも食い詰めだ……。すまんが、助けると思って引き受けてくれんか」
「……やめて下さい。頭を上げて下さい、リグスさん」
情けない表情をして再び深く頭を下げたリグスに、アルフェが言った。ここまでされて引き受けないのも薄情だろう。それに、リグスは知らない仲ではない。多少だが借りもある。
「……わかりました。お引き受けします」
「本当か! 恩に着る!」
「ただし、それなりの報酬は頂きます」
「もちろんだ。あんなんでも高位貴族だからな。金ならいくらでも用意させるぜ」
アルフェが依頼を引き受ける気になったのを見て、リグスは破顔した。
早速祝いの一杯を注文しようと立ち上がったリグスを押しとどめて、アルフェは疑問を投げかける。
「でも、以前のお話だと、クルツさんは伯の跡継ぎにはなれないのでしょう? そんな方を、何故狙う必要があるのですか」
後継者争いに敗北しようとしている、無能な弟。クルツに対するリグスの評価は、そのようなものだったはずだ。率直に言って、そんな立場の人間を、あえて危険を冒して狙う理由があるだろうか。
「……そうだな。それは俺たちにもわからん。あの兄貴にも、坊ちゃんを暗殺する必要は無い。そんなことをしなくても、今のままいけば間違いなく、伯の跡継ぎは兄貴で決まりだ。……もしかしたら、それとは関係ないところで、あの坊ちゃんが恨まれているって話なのかもしれないが――」
腕を組んだリグスは、難しい顔になって首をひねる。かと思うと、ぐいとアルフェの方に身を乗り出して、言った。
「しかし、だ、それを考えるのは、俺たちの仕事じゃない。だろ?」
「はい」
重要なのは、荒事があって、報酬を払う雇い主がいるということだ。アルフェもリグスのその主張を、否定するつもりは無い。
それに最初は渋っていたが、アルフェ自身も、この依頼を受ける意味について考え直していた。
アルフェは今、情報を欲していた。師の仇の魔術士に関する手がかりを。だが、一介の冒険者として、アルフェが得られる情報などたかが知れていた。
すなわち、この依頼を機に貴族社会に顔を繋げば、これまで冒険者の立場からは知り得なかった情報を知る機会があるかもしれない。――だから、この仕事を引き受ける。
「よし、そうと決まったら、さっそく準備だ!」
そう思ったのだが、張り切るリグスがテーブルの下から取り出した物を見て、アルフェの眉間にしわが寄った。
「……なんですか、それは」
「あん? 必要だろ?」
リグスの手に握られているのは、華やかなドレス。
それを見て、隣の女性客が再び歓声を上げる。彼女たちの中では、どのような物語が展開されているのだろう。それを思うと、アルフェは頭を抱えたくなる。
得意げに鼻をうごめかすリグスを前に、少女は怫然とした表情で座っていた。




