52.エアハルト伯領 首都ウルム
「何だ隊長、まさかどこからか、かどわかしてきたというのではないだろうな」
「またご挨拶ですねぇ……。もちろん、そんなことはありませんよ。この二人が、たまたまこの道を通りかかったってんで、護衛を買って出たんですよ」
「ほう……、隊長は女性に対する振る舞いというものを心得ていたのか。意外だ」
「そいつはどうも、お褒めに預かり光栄です」
肩をすくめるリグスをよそに、クルツは改めて二人の女性をじろじろと観察する。一人は、亜麻色の髪の娘だ。杖を持っていて、軽装の旅支度の上から、治癒院で見かけそうな灰色のローブを纏っている。
「ふむ」
クルツは満足そうに目を細めた。なるほど、この男臭い集団の中にあって、見目麗しい女性というのは、見るだけで心を和ませる存在である。
そしてもう一人は……と、最初の娘の影に隠れるように歩いていた少女に目を落としたとき、クルツの心臓が大きく跳ねた。
――な……なんだ!?
少女は美しかった。まだあどけなさが残るが、整った顔立ちは月の精のように儚げな印象を与える。背中に掛かる銀の髪は神秘的な輝きを放っており、大きな瞳は最上の宝石のように輝いている。
しかしエアハルト伯の次男として、クルツは星の数ほどの美しい女性を目にしてきた。いかに目の前の少女が美しかろうと、その程度でうろたえるものではないはずだ。しかし何故だか、クルツの胸の鼓動は高まるばかりだ。
――どうしたというのだ……。この胸の高鳴りは?
背中に汗が滲んできた。心なしか、足まで震えているような気がする。胸の内に湧き上がる思いを説明する言葉が、クルツには浮かばない。彼はただ、こう口にするだけで精一杯だった。
「お、お嬢さん、お名前は?」
◇
「は、はい? 私ですか? 私はステラと申します。お、お目にかかれて光栄です」
「あ? ああ、私はクルツ・エアハルトだ。よろしく。……そちらのお嬢さんは?」
リグスの雇い主であるクルツは、正気を取り戻すなり、アルフェたちの名前を尋ねてきた。
クルツの年齢は、二十前後といったところだろうか。金髪で、苦労という単語とは無縁そうな能天気な顔をしている。若さのせいばかりではない、軽薄な雰囲気が漂う青年だ。
ステラが彼に対して、かしこまった物言いになるのは無理もない。エアハルトというのはそれほどの大貴族だ。この帝国で、その名前を知らぬ者は無いだろう。
「……アルフェです。初めまして」
しかしアルフェは、その名前に対して、ステラほどの感慨を抱いてはいなかった。エアハルトは確かに名家だが、アルフェの素性もそれに劣らない。彼女の故郷のラトリアは、エアハルトと同格の八大諸侯の一つである。
それより彼女にとって重要なのは、この青年が、どうやら自分に気絶させられたことを忘れているらしいということだ。アルフェが踏みつけてから、かなり長時間にわたって気を失っていたので、大丈夫かと思ったが、これは好都合である。
「アルフェさん……。いい名前だ」
奇妙にねっとりした声色でそう言われたので、アルフェの背筋に鳥肌が立つ。目を向けると、クルツがびくりと身体を震わせた。それから彼は、荷車の荷台から身を乗り出してこう言った。
「美しいお嬢さん。町に着いたら私とお茶でも――、御一緒にいかがですか?」
「――は?」
やはり強く踏みすぎたか。いや、むしろ、もう少し強く踏んでおいた方が良かったのかも知れない。アルフェは心の中で、そんなことを思った。
それから一行は、新たな魔物に遭遇することもなく、無事に結界の中に入り、ウルムの街までたどり着いていた。クルツは道中何くれとアルフェに話しかけてきたが、彼女はほとんど相手にしなかった。
「じゃあ、一旦ここでお別れだな」
市壁の入口で、リグスが軽く手を上げてそう言った。アルフェやステラと違い、リグスたち傭兵隊には、都市に入る前に色々と取るべき手続きがあるようだ。
「ええ、機会があれば、またよろしくお願いします。では」
この傭兵隊長とは、また仕事で世話になることもあるかもしれない。アルフェは丁寧に挨拶すると、傭兵隊から離れて市門の中に入った。
「賑やかな町だね。町の人の格好も……変わった人が多いし」
市壁の入り口でリグスたちと別れ、アルフェは町の大通りを歩いていた。
町に入ってからも、ステラはアルフェについてくる。彼女はきょろきょろと町の風景を眺め、すれ違う人を振り返っている。
「海が近いですから」
エアハルトは他領や他国との交易が盛んだが、その中でも都市ウルムは北の内海に近い。都市域内に抱える人口も、帝国内では帝都に次ぐと言われており、様々な文物・人間が集まっている。
「アルフェちゃんは、これからどうするの?」
「私は冒険者ですから。仕事を探します。……ステラさんは?」
「とりあえず、この町の治癒院に挨拶して……、そこに泊めてもらうことになるかな。アルフェちゃんも、一緒にどう?」
アルフェは首を横に振る。これ以上、アルフェに彼女と一緒にいる理由は無かった。
「お構いなく。私はどこかの宿を取りますから。色々とお世話になりました。では、さようなら」
小さく頭を下げ、別れを告げる。アルフェは立ち止まったステラを置いて、足早に歩き去る。ステラはしばらくアルフェを見ていたようだが、小柄な少女の身体は、すぐに人ごみにまぎれた。
アルフェは露店で道を聞き、冒険者組合の近くの安宿に部屋を取った。ここ最近、彼女のこの辺りの手際は大分良くなった。
交易都市の冒険者組合が近いだけあって、宿に出入りしている人間は多様だ。ここならすぐに発見されることは無いだろうし、公衆の面前で刺客が襲ってくる可能性も低いだろう。
しかし念のためにと、アルフェは脱出の経路を確認してから、鍵の無い部屋の扉を荷物でふさいだ。
「――ふぅ」
乱暴に装備を脱ぎ捨て、粗末な寝台の上に身体を投げ出す。ベルダンの町を出てから一年、これだけゆっくりした気持ちになれたのは、久しぶりだ。
くすんだ色のシーツの上に、うつ伏せになって目を閉じていると、色々な想いが浮かんでくる。
一年前、アルフェが暮らしていたベルダンに謎の魔術士が現れ、師であるコンラッドの命を奪った。
あの魔術士は、アルフェが何者であるかを知っていた。ラトリア大公の息女、アルフィミア・ラトリア。城を出てから誰にも口にしたことの無かったその名前を、あの男は呼んだのだから。
隣国ドニエステの手によってアルフェが住んでいたラトリアの城が陥落し、ベルダンの町に落ち延びたのが二年前。そもそも自分自身がどうして城を出ることになったのか。その理由を今もってアルフェは知らない。本当は知りたいとも、あまり思わない。
アルフェにとって重要なのは、あの魔術士のせいで、ベルダンの町で彼女が築き上げたささやかな幸せが、全て失われてしまったということだけだ。
アルフェは考える。ベルダンに残してきた、リアナとリオンの幼い姉弟。彼女たちは無事に生活しているだろうか。あの町で稼いだ資金は、全てあの家に残してきた。タルボットもいるから、滅多な事にはなっていないと思う。だが、勝手に引き取っておいて、勝手に姿を消した自分の無責任さには、我ながら腹が立つ。
しかし、自分があそこに留まって、彼女たちにまで危険が及ぶことは、もっと避けねばならなかった。
「……」
一年間は長いようで短く、短いようで長かった。
帰る家もなく、放浪しながら生きていけるだけの金を稼ぐのは、思ったよりも過酷だったが、それすらもやがて慣れた。
魔物を殺し、盗賊や賞金首を狩って、手掛かりになりそうな情報を集めながらここまで来た。もっとも、大した情報などまるで無かったが。
あの魔術士の襲撃は、ラトリアの陥落と関係があるのは明白だ。しかし、ラトリアを征服したドニエステは奇妙に沈黙し、領土を奪われたはずの帝国も、大きな動きを見せずに静観している。ラトリアに至る道は厳重に封鎖されており、一介の冒険者に過ぎないアルフェが得られる情報は、あまりに断片的だった。
一年間――。あれからあの魔術士は、陰も見せない。
ならば、あの魔術士は幻だったのだろうか。
「……お師匠様」
いや、違う。あの男のせいで、コンラッドは死んだ。それは事実だ。
あの人はもう、帰ってこない。シーツを握る手に、力が籠る。
自分は、強くならなければならない。
歯を食いしばりながら、いつも通り、アルフェはそう心の中で唱える。唱えるうち、彼女はいつの間にか、眠りの中に落ちていった。
次の日、アルフェはウルムの冒険者組合に顔を出し、依頼の掲示板を見ていた。新しい町に着いたら、まずはそうする。彼女でなくとも、冒険者は皆そうだった。
「お嬢ちゃん、そんなもん見てないで、俺らの相手でもしてくれよ」
特に大きな特徴の無い依頼たちを眺めていると、アルフェは頭に剃りこみを入れた男に絡まれた。
「……結構です」
旅の中で、何度かこういう手合いには会った。ベルダンにはあまり居なかった人種だ。では、この町の治安が悪いのかと言えば、そうでもない。ベルダンに居た冒険者たちが、例外的に優しかったのだ。
「そんな事言わないでさぁ」
「結構です」
彼女も今では、こういう人間への対処を覚えた。言葉では聞かないようなので、もう一度断りの文句を入れながら、アルフェは男の目を見上げて、魔力と殺気を同時に叩きつけてやった。格下の魔物ならば、大抵これで大人しくさせることができる。非常に便利な技だ。
「ひぃっ! ――え? な、何で俺!?」
「――お、おい! お前、さすがにそれはやべぇぞ」
しかし、人間は不便だ。魔物のように賢く無いので、たまに思わぬ行動を取ることがある。
殺気に驚いた男は、理由も分からないまま反射的に剣の柄に手を掛け、今にも抜こうとしている。突如発生した剣呑な雰囲気に、にやにや笑っていた男の仲間たちが、慌てて腰を浮かした。
アルフェは男の剣の柄をそっと手で押さえ、その胸倉を掴むと、力任せに顔の近くに引き寄せた。両目を見開いて、先刻よりも強い殺気を至近距離から流し込む。
「――黙れ」
「あ……」
それでようやく、男の身体が理解したようだ。男はその場で動かなくなってしまった。
「何やってんだお前!」
「飲み過ぎだって」
放心して硬直している男を、仲間が引きずっていった。それを見送った後、アルフェはうんざりしたため息を吐く。
「……ふん」
すぐに頭を切り替えて、再び依頼の掲示に目を落とす。
懐にそれほど余裕は無い。オークの討伐で、思わぬ高額報酬が出たのはありがたかったが、それだっていつまでもつか分からない。あの賞金首を逃がしてしまったのは痛かった。
さしあたって、手っ取り早く稼げる仕事を見つけなければ。しかしさすがに、帝国でも一、二を争う大都市だ。依頼の数には困らない。アルフェは山ほどある依頼の中から、手ごろなものを探す。その中に一つ、興味を引かれるものがあった。
「ゴーレムの、耐久実験?」
ゴーレムとは、聞きなれない言葉である。場所は街中だが、報酬は悪くない。遠出をする必要がない上に、血の臭いを嗅がずに済むのなら、まずはこの依頼を受けて見るとしよう。アルフェは掲示板から、無造作に依頼の紙をはぎ取った。




