45.死体を運ぶ娘
村に来るはずの荷馬隊が襲われた。
こんな辺境でも、外部とのやり取りはある。定期的に村が掘り出した岩塩を運ぶ荷馬車が訪れており、それはまた、食糧や鉄など諸々の、村では自給できない品を供給していた。
その一隊が襲われた。襲ったのはもちろんオークだ。それが分かったのは、生き残りが一人、半死半生の状態で村に逃げ込んできたからだ。
「まだ生きてる奴がいるかもしれない! 助けてくれ! 頼む!」
ここは、生き残りの男が運び込まれた宿の一室だ。ステラによる治療もそこそこに、男は床に手をついてオズワルドに懇願している。
「助けに行きましょう! まだ間に合うかもしれません!」
ステラが声を上げる。放浪の治癒術士として、慈悲の心をもって村々を巡っている彼女としては、見過ごすことはできないのだろう。
「……助けたいのは俺たちも同じだ。だが……」
「そうだな。村には、その余裕は無い」
言いよどむオズワルドの思いを、トランジックが代弁する。荷馬車隊の顔見知りである分、オズワルドの方は苦しそうな表情をしているが、トランジックは冷徹に、ばっさりと切り捨てた。
「でも――!」
「だめだ。これは奴らの挑発だ。オークもそれほどアホじゃない。減らせる敵は減らしてから、ここに攻め込もうと思ってる。どのみち、今から出て行っても間に合わない」
なおも主張しようとするステラに、トランジックが無慈悲な事実を突きつけていく。オズワルドは何も言わないが、同じ意見なのだろう。見捨てられた格好になる生き残りの男は、いかにも哀れな表情で彼らを見ていた。
「――た、頼む。頼む! あそこにはまだ弟が……。あいつはまだ、死んでない! お願いだ!」
例え今から助けに行ったところで、オークが残った人間をそのまま生かしておくわけはない。頼んでいる男だって、そんなことは重々承知だ。それでも彼は頭を床にこすりつけ、血を吐くような声を出して、必死にすがっている。
「……なら、皆さんが行かないなら、私だけでも――!」
「馬鹿を言うな!」
「ッ!」
私だけでも助けに行くと叫びかけたステラを、トランジックが一喝した。
ステラは貴重な治癒術士だ。村の誰よりも戦力的に価値がある。こんなことで犬死させるなど、あってはならない。トランジックの剣幕に、ステラはすっかり気圧されてしまった。しかし気丈にも、なお言いつのろうとステラが口を開きかけたその時、思わぬ方向から声がした。
「私が行きます」
この部屋の中に、他に誰かがいるとは思っていなかった。一同は驚いて、一斉に声の方を振り向いた。
「場所を教えてください」
細いがよく通る声。トランジックとステラは、初めて彼女の声を聴いた。
「――あ、あんた……」
いつからいたのかと、オズワルドがうろたえた声を出す。
トランジックは平静を装っていたが、内心はオズワルドと同じく動揺していた。
今の今まで、この部屋には確かに、三人以外には誰もいなかった。大部屋だが調度も少なく、見通しのいい質素な室内。間違いなく誰もいなかった。いかに話に集中していたとはいえ、それなりに修羅場をくぐってきた冒険者のトランジックが、気付かないはずがない。
「ア、アルフェちゃん。こ、こんにちは……」
そういったことは、ステラには分からなかっただろう。ステラは的外れな挨拶を少女に返した。しかし少女はそれに答えず、じっと彼らを見ている。
そう、少女だ。トランジックと同じ日にここを訪れ、以来ずっと口も開かなかったアルフェと名乗る旅の少女が、まるで影のように部屋の隅に立っていた。
「私が行きます」
場を支配していた沈黙を破り、アルフェがもう一度繰り返した。
――行く?
いったいどこへ行くというのだ。他の人間たちには、最初、少女の言葉の意味が分からなかった。
「オークが現れたのは、どこですか」
「なっ――」
オズワルドとステラが息をのんだ。
思っていたよりも、ずっと大人びた、丁寧な言葉遣い。その声色から狂気を感じることはできないが、言っている内容はまさに狂気だった。たぶんステラよりも幼いこの娘は、自分が襲われた荷馬隊を助けに行くと言っているのだ。
それを理解しても、ステラからは言葉が出なかった。このアルフェという少女は、やはり正気を失っているのだろうか。そう思うのは、相手に対して失礼なのかもしれない。だが――
ステラ以外の二人も、何も言わない。オズワルドはただ、やはりという目をしている。――やはりこの娘は気狂いだったかと。トランジックは……、怯えている? 何に? いつもと変わらない表情の彼が、震えているように見えるのは、ステラの気のせいだろうか。
「――こ、ここから三里も無い! 南の街道の林のそばだ!」
しかし、荷馬隊の生き残りの男にとっては、そんな彼女たちの動揺も関係なかったようだ。藁にもすがる思いからか、あるいはオークに襲われたショックと失血で、正常な判断力を失っているのか、男は襲撃の地点を口走る。
「分かりました」
そして少女が、何のためらいも見せずに言葉を返す。部屋の中の誰も、彼女が踵を返して去って行くのを、止めようともしなかった。
◇
日が暮れようとしていた。
オークは特に火を恐れるわけでは無いが、村人たちも、何もしないよりはましだと考えているのだろう。あちこちにありったけのかがり火が灯されだした。防壁の外に見える森を赤く染めていた太陽が、地平線に隠れようとしている。
「――今日も奴らは……来なかったな」
トランジックがつぶやく。
「はい。ひょっとしたらもう――」
「いや、襲撃はある。必ずだ。奴らは、一度狙った獲物を諦めない」
「……はい」
楽観的な言葉を口にしかけたステラ自身にも、それは分かっている。しかし彼女が言いたいのは、本当は別の事だ。
――あの子は、どうなってしまったんだろう。
あれからすぐ、ステラたちが止める間も無く、旅の少女は村から消えた。いや、止める間も無かったというより、本当にあの娘が外に出ていくとは、誰も思っていなかったと言った方が正しい。アルフェがいなくなってからその事に気づいて、慌てて探しに出ようとしたステラを、オズワルドをはじめとする村の人間たちは、必死で抑えた。
それが今日の昼前の話。もう、日が暮れようとしている。
村人たちに、少女の安否を気にしている様子の者はいない。それはそうだろう。正気を疑われていた少女が一人、それが村から消えたところで、はじめから何も無かったことと同じだ。
「戻るぞ。見張りは他の奴に任せればいい」
それでも諦めきれない表情で、村の外を眺めるステラに、トランジックが声をかけた。
「はい……。……でも」
「夜風は冷える。万が一あんたが倒れたら、全員の士気がくじける」
「……分かりました」
冷淡に聞こえる台詞だが、声音にはトランジックなりの優しさが見えた。
明日も早い。防壁に続く階段を下り、村中央の広場から宿屋に入ろうとする彼らの耳に、ざわめきが聞こえてきた。――門の方からだ。
「……? 何でしょうか」
「……また何かあったのか」
また、何事か不幸が起こったのか。
顔を見合わせ、うなずき合ってから駆け出す二人。門の前に人だかりができている。人垣をかき分けると、そこには、
「生きている人は、いませんでした」
あの少女がいた。
「お、お嬢ちゃん……、戻ってきたのか? 襲われなかったのか……? 何にも?」
「……」
戻ってきたアルフェの前にいるのは、オズワルドだ。彼はこれまでで一番取り乱している。
――戻ってきた? ――どうやって? この村は魔物に包囲されているはずなのに。
少女が無事に帰ってきたことに、喜びを感じている者はいないようだ。それよりもただ、村人たちは困惑した様子で彼女を取り囲んでいる。
「――お、お帰りなさい! 無事だったんですね!」
「……! ……」
ステラが飛び出て、アルフェに駆け寄った。詰め寄るステラに、初めて彼女の表情が動いたような気がしたが、その気配はすぐに消えた。
「血が……! 怪我をしたんですか?」
ステラの言うとおり、アルフェの衣服は血にまみれていた。彼女がいつも身につけているフードもマントも、赤黒く染まっている。
「……私のものではありません」
そう言いつつ、アルフェが目をやった先を見れば、地面に一つの塊が転がっている。
死体だ。見るも無残な人間の死体。ちぎれた足に、容貌が分からない程につぶれた顔面。損壊が激しく、かろうじて人の形を保っているだけだ。
職業柄、死人や生傷は見慣れているが、それでもまだ年若い娘である。ステラがひっと息をのむ。しかしそれは一瞬の事で、すぐに毅然とした表情に切り替わったステラが、寝かされた死体のそばにひざまずく。
何か施せる手はないか――それを確かめているようだったが、しばらくして、彼女はがっくりとうなだれた。
当然だ。治癒術士の出る幕など無い。これをどうにかできるとしたら、そいつは神か悪魔だけだ。そんな顔をしている村人たちの輪の中に、荷馬隊の生き残りが連れられてきた。
「――ハンス! ハンス! うあぁぁぁぁ! 畜生!」
ぐちゃぐちゃになった顔でも、兄にはそれが弟だと判別できたようだ。彼は振り絞るように弟の名を呼びながらくずおれ、地面に両拳を打ちつけている。
「――っ」
ステラは呪文を唱え、死体の顔に手をかざす。死人に残されていたわずかな生命力の残滓が、治癒術の光に反応した。復元した表情は、安らかな寝顔とは言いがたかったが、それでもステラは哀れな犠牲者の目を閉じてやり、冥福の祈りを捧げた。
村人が死体を運び、すすり泣いている兄をなだめ連れて行く。わずかな人数だけがそこに残った。見張りの人間とオズワルド。ステラとトランジック。――そして、血まみれの少女。
「死体を運んできてくれたのか。礼を言うよ」
「……いえ」
落ち着きを取り戻したオズワルドの礼に対して、少女はにべもない反応を帰した。
しかし、この小柄な少女が、本当に死体を背負って帰ってきたというのか。おそらく襲撃してきたオークたちは、既にその場にはいなかったのだろう。たとえそうだとしても、この娘が無事に帰ってきたのは、奇跡に近い。
「まあともかく、着替えなきゃな……。ひどい血だ」
まったくもってその通りだ。彼女のかぶっているフードとマントは、べったりと血に塗れ、ひどく重そうに見える。これほどになるまでして、死体を背負って帰ってきた少女の苦闘を思い、オズワルドの目頭は熱くなった。目の前の少女は間違いなく気狂いだが、こんな優しさもあるのだと。
――しかし、その血の量は、一人分にしてはいささか、多すぎはしないだろうか。
彼の頭には、ふとそんな考えがよぎったが、すぐ気を取り直して、娘を宿の方に促す。拒むわけでもなく、少女はそれについて行く。
それを見送ったステラが、トランジックに話しかけた。
「亡くなられた方の血で、あんなに汚れて……。ここまで戻ってこられたのは、神のご加護ですね」
ステラは胸の前で両手を組んだ。
「……違う」
「え?」
トランジックがぼそりと漏らした否定の言葉に、ステラは彼の顔を見上げた。
何だか、苦い顔をしている。
「神のご加護」とステラが言ったのが、この男には気に入らなかったのだろうか。だがそれも仕方ない。とにかく冒険者の男というものは、不信心で斜に構えた現実主義者が多い。だから、ステラはその言葉を深く追求しなかった。
「……」
「……? どうしたんですか? トランジックさん、行きましょう」
反応しないトランジックに怪訝な顔を向けながら、ステラはオズワルドの後について、宿の方に戻っていった。
その後、トランジックは暗くなった広場で、一人立ち尽くしていた。
「……魔物の、血だ。あれは」
呻くようにつぶやいた彼の言葉を、聞いた者は誰もいなかった。




