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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第一章 第七節
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41.多頭の竜

 この地の果て、あらゆる魔物の巣窟である大山脈の上を、一人の男が歩いている。おそらく今まで、人間が生きてこの地を踏んだことなど無いであろう。

 男の衣服は所々が黒く焼け焦げ、背中のマントの裾はボロボロに裂かれている。その巌の様な肉体には、打たれ、斬られ、突かれ、焼かれた傷が、あちらこちらに見えていた。

 しかしそれでも、男の足取りは確かだ。風にマントをはためかせながら、一歩一歩大地を踏みしめて、着実に前へと進んでいる。


 ――こっちだ。


 自然と足が導かれるように、ある方向に向かう。

 コンラッドの野生は、ここに来て最大限に研ぎ澄まされていた。長い町暮らしで鈍っていた闘争心が、ふつふつと沸き起こってくるのを感じる。

 彼にとって、この凶暴な感覚は久しぶりだった。まるで、無力感に苛まれ、己の身体を苛め抜いた修行時代に戻ったかのようだ。


 辺りの岩場の色が変わった。ここには一面に、黄味がかった苔のようなものが付着している。

 腐った卵の様な臭気がする。先ほどコンラッドは、岩間を流れる清水を見つけ喉を潤そうとしたが、近寄ってみるとそれは水ではなく、熱湯だった。


 ――黄色い岩に、泡を吹く水……。――近い。


 コンラッドはここまで、ただ闇雲に山を突き進んできたわけではない。商会長が金に飽かせて探してきた情報と、この町の冒険者組合に残されていたヒュドラの記録。どちらも百年以上前の、ただの目撃例に過ぎなかったが、その情報と符合する場所を探してきた。


 そしてもう一つ、コンラッドの勘を刺激することがある。この付近に入ってから、あれだけコンラッドを悩ませていた魔物の出現が、ぱったりと途絶えたのだ。一応は、遠くに何匹かのルフ鳥が旋回しているのが見えるが、寄ってくる気配すらない。

 安全な場所に来たのだろうか。――いや、逆だ。この近くに、何か大きな、強力な魔物がいる。この山の怪物たち、それを全く寄せ付けぬ力を有した、桁違いの魔物が。ここはそいつの縄張りだ。


 ――目当ての奴ならいいが……。


「――ふっ」


 一瞬そんな風に考えた自分を、コンラッドは嘲笑う。それは弱気な考えだ。

 もちろん、その魔物の正体が、ヒュドラではないということは十分あり得た。だが、今それを言ってどうなる。ここが外れなら、ぶちのめして次に行けばいいだけの事。


 ――さあ、来い。


 お前も気付いているだろう。ここにお前の敵がいる。


 戦いやすそうな開けた岩場に出ると、縄張りの主を刺激するように、コンラッドは練り上げた闘気を発散する。

 ぴんと張り詰めた空気が漂う。徐々に強くなる憤怒の気配と、地面を揺らす振動。


「……来たな!」


 複数の首から発せられる咆哮が、耳をつんざく。周囲の岩を蹴散らして、その魔物が姿を現した。多頭の怪物――ヒュドラ。さながら森の様に、細長い首が生い茂る、異形の竜。その牙は鎧を木っ端の様に噛み砕き、その尾の一撃は、あらゆる獲物を肉塊に変える。

 ヒュドラは縄張りに侵入してきた外敵に対して、明白な不快感を示している。一斉にコンラッドをにらんだ琥珀色の瞳が、怒りの色に燃えている。


 ――ぬぅ……!


 コンラッドの総身に汗が噴き出す。身体を走る震えは、武者震いとは限らなかった。伝説の魔獣の威圧感は、彼を以てしても、気圧されるに十分なものがある。

 だが、コンラッドは背中のマントを投げ捨てると、拳を構え、牙をむき出し、その声の限りに吠えた。


「我が名はコンラッド! コンラッド・ヴァイスハイト! 武神流の創始者にして、総師範だ!」


 名乗りなど、魔物相手には不必要だ。しかしそれでも、コンラッドは名乗った。遥か昔に捨てたはずの家名と共に、己の名を、己の流派を、精一杯の誇りと意地を込めて。

 そう、まるで英雄譚の主人公の様に。彼が少年の日に憧れた、おとぎ話の勇者の様に。


 ――囚われの姫の役が大家では、いささか不満があるが――!


 この山の中だ、聞く者もあるまい。ならばせめて、男の本懐だ。精々、格好つけさせてもおうではないか。


「お前に恨みは無い――! だが、救うべき人のため。そして我が弟子のためだ! その命、もらい受ける!」


 言い終わるか終わらぬかの内に、コンラッドの身体がかき消える。そして次の瞬間には、ヒュドラの首元に出現した。

 長引かせるつもりは無い。温存してきた魔力を使い、渾身の力で双掌打を放つ。


「ちぃッ!」


 しかし完全には通らなかった。まるで金属の塊を叩いたかのような硬質な手ごたえ。竜鱗は金剛石に勝る――。まさに伝説の通りだ。

 伝説の聖剣を携えている訳でもない、ただの素手の人間が、それと戦おうとしたことなど、人類の歴史の中にあっただろうか。


「――!」


 頭上に落ちた影に気付き、後方に飛び退る。コンラッドが元いた場所に、竜の首の二本が突き刺さった。

 距離を開けたコンラッドに対しても、ヒュドラの首が次々と襲い掛かる。それぞれが、独立した意思を持っているかのような縦横無尽の攻撃。さすがにあの頭は伊達ではない。


 そしてヒュドラの攻撃一つ一つが、恐るべき強靭さを持っている。避けまわるコンラッドを追って、まるで岩場を平らにならすように、辺りの岩が砕かれていく。


「おらぁッ!」


 攻撃をかわしながらも、コンラッドは着実に反撃を繰り出している。噛みついてくる頭のこめかみ、あご、眉間に、完全なタイミングでカウンターの突きを放つ。

 それで昏倒させられれば楽なのだが、一つ一つの頭を怯ませることはできても、全体の動きには影響がない。実に面倒な相手だ。


 ――ならばッ!


 動き回るのを止め、腰を落として待ち構える。襲い来る首の一つを、コンラッドは両の手で抱え込んだ。


「――墳ッ!」


 ぶちりと、あり得ぬ音を立てて、ヒュドラの首が引きちぎれる。根元から流れ出た赤い血が、周囲の岩を染める。しかしそれでも魔物の動きは止まらない。たかが首一つと言わんばかりに、他の頭が三本、立て続けにコンラッドの腹に激突した。


「ごぉッッ!?」


 コンラッドの体が、ヒュドラの頭に押されて岩肌にめり込む。残った頭も、それに続いて突撃していった。

 砂塵が収まったころ、ヒュドラが岩肌から首を引き抜く。めり込んだ男の体は、その両足だけが見えている。間違いなく死んだ。魔物もそう思ったのだろう。だが――


 ヒュドラの頭の一つ、いや、二つが、突如ぶるぶると震えだす。他の頭は訝しげにそれを見る。やがて、二つの頭は鱗の隙間から鮮血を噴き出し、力なくだらりと垂れ下がった。


「……トカゲ風情が、調子に、乗るなよ……!」


 声がする方を見れば、ヒュドラが死んだと確信した敵が立ち上がっている。しかも、五体満足の状態で。


「――ゲフッ」


 それでも人間があの攻撃を食らって、無傷でいられるはずがない。コンラッドの口の端から赤い線が流れる。

 しかしその眼は、いささかも闘志を失っていない。彼を支えているのは、何の想いだったのだろうか。


 ――次の一撃で、決める。


 コンラッドは腹をくくる。相手の怪物の方が、自分よりも図体で遥かにまさっている。戦いが長期化すれば、どちらに利があるのかは明白だ。

 このままあの首と戯れていては、己の体力と魔力が先に尽きる。そうなる前に、もう一度本体への突撃を敢行する。


「はあああああ!」


 硬体術を解除し、全身の魔力を掌の一点に集束させる。大気中の魔力すらも取り込んで、コンラッドの闘気が際限なく膨れ上がっていく。


 コンラッドの手に集まった魔力に干渉されて、周囲の大地が鳴動している。

 ヒュドラもまた、敵が決戦の態勢に入ったことを悟った。しかし、魔力を高めることに集中力を割いている相手は、先ほどよりも隙がある。そこを狙って、残った頭の全てがコンラッドに向かって殺到した。


 魔物がコンラッドに喰らい付こうとしたまさにその刹那、彼の姿が掻き消え、ヒュドラの牙が空を切る。

 またしても懐に入られたか。そう思った魔物は、自分の胸元をのぞき込む。――しかし、誰も居ない。


 ヒュドラが敵の位置を悟った時には、もう既に手遅れだった。ヒュドラの上、中空に出現したコンラッドは、凄まじい速度で降下すると、その勢いのままに拳をヒュドラの背中に突き立てた。


 空から星が降ってきたかのような、轟音と衝撃。ヒュドラの背中の竜鱗に、亀裂が入る。


「ぬん!」


 コンラッドは気合を発して、さらにその拳をひねりこむ。わずかに空いた隙間から、敵の体内に、集束したありったけの魔力を送りこんだ。



 その日の朝、アルフェはいつものように、コンラッドと落ち合う予定の大木の下まで行った。冷え切った森の中には、かすかに朝もやがかかっている。アルフェは木の根元に立ちつくしたまま、ただじっと待った。


「……」


 そうやってしばらく待ったが、誰も来ない。

 今日もコンラッドは戻って来ないようだ。


「……寒い」


 アルフェは少しうつむいて、野営地に戻ろうと考えたが、耳がかすかな物音を聞いた気がした。


 ――……魔物かもしれない。


 筋肉が緊張する。しかし振り返った彼女の目は、もしかしたらという期待に輝いてもいた。

 森のさざめきに耳を澄ましながら、時間が流れる。


「……ふぅ」


 その体勢で数十分は固まっていただろうか。物音は気のせいだったらしい。さっきよりも失望を大きくして、少女はため息をついた。こんなことを、もう何日か繰り返している。

 だが、何となくそのまま去る気になれなくなって、アルフェは木の根元に腰を下ろすと、膝を抱えて座った。


 太陽が高くなり、また沈み始める。森の中に日が差さなくなっても、彼女は待ち続けた。


「……早く、帰ってきてくださいよ」


 巨大な木の根元で膝に顔をうずめた少女の姿は、ひどく頼りなげに見えた。

 しかしその時、アルフェは再び物音を聞いた。今度は勘違いではない。暗くなった森の奥から、確かに音が――足音がする。魔獣でもない。人間の、あの人の足音だ。


「師匠……!」


 居てもたってもいられず、アルフェは走り出した。

 森の奥から現れ、闇の中に浮かび上がったのは、待ちわびた人の影だった。


「お疲れ様です!」


 ここに戻って来るまでにも、走ってきたのだろう。行きの時の猛然とした速度ではなく、ふらふらとした足取りで彼は帰ってきた。


「――はッ! はッ! ぜはッ!」


 さすがのコンラッドも、息も絶え絶えになっている。まさに満身創痍といった体で、着ている服もボロボロだ。


「本当に、お疲れ様でした……!」


 アルフェは今にも倒れそうなコンラッドの胸に飛びつくと、心の底からそう言った。コンラッドの背には、マントで包んだ血塗れの荷物がある。やはり彼は目的を達成してきたのだ。


「別にっ、大してっ、お疲れではっ、ないがなっ!」


 この寒さにも関わらず、彼の大きな体は湯気を上げ、額から流れた汗はあごを伝い、地面に滴り落ちている。

 ぜえぜえと息を切らしながらも、コンラッドは憎まれ口を叩いたが、その言葉が強がりだということは、彼の体重を支えているアルフェにはよく分かった。


「良かったです……! ご無事で……」

「はぁ、はぁ、はぁ――。は、離れろ。血が付くぞ。汚い」


 コンラッドはアルフェの肩をつかみ、己から引きはがそうとする。返事をする代わりに、アルフェはさらにぎゅっと、彼の背中に回した腕に力を込めた。


「はぁ、は、――ふぅ。……仕方のない弟子だ」


 ようやく息を整えたコンラッドは観念したように、自身の胸の辺りにあるアルフェの頭に手を置いた。


「……ありがとうございます」

「――ん?」

「私が、馬鹿な事を言ったから」

「……」

「師匠まで、危険な目に」


 自分の胸が何か熱いもので濡れていくのを感じると、コンラッドは苦笑を浮かべて、子ども帰りしている弟子の頭をぽんぽんとあやすように叩いた。


「お前の方は、ちゃんとやったのか?」

「はい、滞りなく」


 しばらく間を置いて、彼らは自分たちの成果を確認しあった。その時にはもう、アルフェの表情はいつも通りに戻っている。ただ、目じりが少し赤くなり、頬に血の跡がついていたが。


「……ふん、まだもたついているようなら、俺が手を貸してやってもよかったのだが……、まあ、良くやった」


 彼のぶっきらぼうな物言いにはもう慣れた。アルフェはただ、微笑みで返した。


「すぐに出発するぞ」

「だめです」


 間髪をいれずに、アルフェが言った。有無を言わせない真剣さが、その瞳にある。


「その状態で進むのは危険です。……まだ時間に猶予はあります。せめて一日、身体を休めてください」

「……わかった。そうだな。そうしよう」


 コンラッドの性格ならば、それでも休息は必要ないと言い出すかと思ったが、意外にも素直に折れた。やはり相応に消耗しているのだろう。アルフェは彼を引き連れて、森の野営地へと向かった。


「なかなか快適そうな生活をしてるじゃないか」


 野営地に着くなり、コンラッドがそう言った。


「褒められていると思っていいのですか?」

「褒めてるさ……。お前の生命力は大したもんだ」

「やっぱり、からかっていますね」

「はっはっは――、本当に褒めてるんだ。怒らないでくれ」


 珍しく歯を見せてコンラッドが笑った。いや、彼のこんな屈託の無い笑顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。そう思うアルフェ自身も、これまで浮かべたことのないような自然な顔で笑っていたが、そういうことは自分では気づかないものらしい。


「それで、お前のほうの獲物はどこにあるんだ?」

「あれです」


 アルフェは壁際のマンドレイクを指す。自身の触手でがんじがらめに縛られた伝説の薬草は、まだじたじたと身動きしていた。


「あれが? ……でかいな。マンドレイクというのは、こういうものなのか?」

「薬草辞典に書かれた特徴とは、完全に一致していますから……。それに、すさまじい魔力を秘めています。強力な薬草というのは間違いないと思います」

「そうか……。しかしそれにしても珍妙だな」


 コンラッドは首をかしげながらも納得したようだ。


 その夜アルフェは湯を沸かし、残っていた食材を存分に活用して、師のために腕によりをかけた料理を作った。森で見つけた貴重な薬草などもふんだんに入れた。そのせいで味の方は微妙な感じになってしまったが、コンラッドは文句を言いながらも、鍋ごと全て平らげた。


「もう休むか……。本当のことを言えば、かなり疲れた」


 食事が済むと、コンラッドがそう言った。破れた服を着替えた彼の身体には、アルフェの手によって包帯がぐるぐる巻きに巻かれており、そこにも森の薬草がすり込んである。


「はい。とにかく明日、万全の状態で出発しましょう。絶対、間に合います。きっとローラさんは助かります」

「ああ、助かるさ。――俺も疲れてるかもしれないが、お前だって酷い面をしているぞ。……今夜はちゃんと休めよ」

「はい」


 コンラッドの指摘通り、独りでずっと気を張り詰めていたアルフェの方も、隠しきれない疲労が顔に浮き出ていた。だが、その夜はようやく熟睡できそうだった。



「んん……」


 深夜、アルフェはコンラッドのいびきで目を覚ました。彼女はむくりと起き上がると、寝ぼけ眼で師の寝顔をじっと見た。

 見張りを立てていないのは、魔物が来たら俺が絶対に気付くと、彼が主張したからである。アルフェもそれは疑っていない。


「……ふぁ」


 アルフェは一つあくびをすると、毛布で体を包んだまま、コンラッドの傍らににじり寄った。そして大の字になっている彼の隣に横たわると、再び目を閉じた。

 熊のように眠る師の横で、子猫のように丸まった弟子。

 そうして、彼らにとっては久方ぶりの、平和な夜は過ぎていった。



 明朝、荷物をまとめたアルフェたちは、およそ半月ぶりに町への帰途についた。


 驚くべきことに、コンラッドの怪我は一晩でほぼ回復した。


「武神流を極めると、怪我の回復速度すら早めることができるのだ。何と肉体を若々しく保つ効果もある! ……む。もしかしたら、これで若い娘に売り出すことができるのでは……?」


 後半のたわごとは置いておいても、アルフェは師の相変わらずの超人ぶりに目を見張っていた。そんな彼は歩きながら、早くもヒュドラを倒した武勇伝をアルフェに語り始めている。

 この森にも大分長く滞在したが、さすがに名残惜しいとは思わない。疲労はまだ抜けきっていないはずだが、来たときよりも足取りは軽く感じられる。


「これで俺と武神流の伝説にも、新たな一章が刻まれるな」


 コンラッドの語りが一段落した。そういえば、とアルフェは思う。


「師匠、ずっと聞こうと思っていたのですが」

「なんだ」

「我々の武神流という名前は、師匠が考えたのですか?」

「当たり前だ」


 格好いいだろうと言って笑うコンラッドの顔は、無邪気な少年のようだった。


「……私も名乗らないといけないのですよね?」

「当然だ。お前は俺の弟子だからな」

「じゃあ……、改名しませんか? 格好悪いですよ」


 そう言ってアルフェが笑う。コンラッドは口を開けてあっけにとられた顔をしたが、すぐに弟子にからかわれたと悟り、からからと哄笑を始めた。


「そもそもこの名前はな、俺が十歳の時に読んだ本が――」


 コンラッドの語りは続く。

 森に、二人の明るい笑い声が響いている。




 森の中、アルフェは満足げに微笑んで、いそいそと師の背中について歩いている。


 やはり自分の思った通りだった。師匠は約束を守ってくれた。伝説の魔獣でも、コンラッドならばきっと倒せると信じていた。


 およそ一年前、城を出たアルフェに、一人で生きる力を与えてくれたのはコンラッドだった。コンラッドは、自分が勇者に憧れていたと語ったが、彼は彼女にとって、既に勇者だった。

 日々を生きる喜び。自由の素晴らしさ。明日への希望。この世界の美しさ。――そして彼女がまだ知らない、もっとかけがえのない別の何か。

 それは彼との出会いが無ければ、全て手に入らなかったものだ。


 今の彼女の胸には、奇妙な高揚感さえ生まれている。弾み出しそうになる足を抑えることで、アルフェは精一杯だった。


 師の背中を見て、彼女は思う。

 これが、私の手に入れた人生だと。彼と町の皆が与えてくれた、本物の人生だと。

 それがずっと、このまま永遠にずっと、いつまでも続くことを、彼女は信じていた。









 信じていたのだ。









 だからこの時、アルフェは考えてさえもいなかった。


 この人にも、勝てないものがいるということを。


 どうして自分が、ここにいるのかということを。

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