275.縫いぐるみに見つめられて
ちょっと文字数少なめです。再び仕事が忙しくなるので、しばらく更新できないかもしれないですが、絶対に戻ってくる事だけはお約束します。
騎士見習いは従騎士に昇格し、従騎士はやがて正騎士となる。身分によっては、従騎士より先は無いが、神殿騎士団において、正騎士になるまでの道のりは概ねこんなものだ。だが、神殿騎士団にも色々な役目があって、色々な人間がいる。特に、騎士団の構成員の全てが、騎士だというわけではないことには、注意しなければならない。補給や事務を担当する者の中には、騎士としての資格を持たない者は大勢いる。
そして騎士であっても、必ずしも戦える人間であるとは限らない。特に家柄の良い者にありがちなのだが、騎士になるまでには厳しい訓練に耐えたものの、そこからは鍛錬を怠り、ぶくぶくと太ってしまったような手合いもいる。精鋭を自負している神殿騎士団でさえも、そういう人間が組織に混じることは避けられなかった。
しかしディートリヒ・アイゼンシュタインは、その点においては騎士の名に恥じなかった。その体躯は、白髪の交じりはじめた中年にしては良く引き締まっており、騎士団の重鎮でありながら、自己研鑽も怠っていないという事が読み取れた。
そのディートリヒが、娘であるロザリンデの部屋の中央に立って、帰ってきた彼女を迎えた。
「この重大な時期にどこへ行っていた。せめて行き先は、必ず報告しろと言ってあるだろう」
「申し訳ありません、お父様」
ロザリンデは、頭を下げて父に詫びた。
「そんな事はいい。質問に答えなさい」
「トリール伯レティシア様の護衛で、伯の別荘地まで」
ディートリヒ・アイゼンシュタインの語気は、決して強くない。声を荒げたりはしていないし、表情もどちらかと言えば穏やかだ。しかし彼の顔を見た瞬間、ロザリンデの声と顔からは、全く感情が失せてしまったようになった。
「総長殿の命令か」
「……レティシア様が帝都に滞在される間は、護衛として側を離れないようにと言いつかっています。ここに戻ってきたのも、荷物を取りに来ただけです」
これには、若干の嘘があった。確かにロザリンデはレティシアの護衛を任じられているが、彼女自身が四六時中貼り付いていろと言われた訳ではない。そのためにロザリンデには麾下の女性騎士隊が用意されたのだし、今もレティシアの周りでは、その麾下たちが護衛に当たっている。
ロザリンデは純粋に、休息のために部屋に戻ってきたのだ。
「任務に励むのは良い。総長殿から直々に伯の護衛を任されるのも、パラディンゆえの事だからな」
それについては、ディートリヒも頷いた。
ロザリンデがパラディンである事、それがディートリヒの最大の誇りであった。パラディンの称号は彼の夢だった。しかし彼にはその実力が足りなかった。だからディートリヒは、自分の娘であるロザリンデに、文字通り地獄のような特訓を課し、彼女をパラディンに仕立て上げたのだ。そのために、彼はどのような犠牲も厭わなかった。
「しかし、行き先は報告するようにしなさい」
「申し訳ありません」
ロザリンデの顔に、やはり表情は見えない。人形か彫像になってしまったかのように、彼女は機械的な受け答えを繰り返している。そのロザリンデの肩に、ディートリヒの手が伸びた。
「――――っっっ!!」
ロザリンデの全身が総毛立ち、一瞬だけ、顔に赤みが差した。しかし、それは本当に一瞬の事だ。元の彫像に戻ったロザリンデは、無言で正面の壁を見つめている。その横で、ロザリンデの肩に手を置いたまま、ディートリヒは喋った。
「お前はパラディンとして、良く任務をこなしている。私は誇らしい」
あのヴォルクス・ヴァイスハイトよりも若く、歴史上最年少でパラディンに就任した天才。ロザリンデが成し遂げた事は、まさにディートリヒの描いた夢そのものであったはずだ。しかし、ロザリンデを見るディートリヒの瞳の奥には、一点だけ黒いものが宿っている。ロザリンデが女だった事が不満なのか、それともあるいは、自分自身がパラディンになれなかったことで、彼は娘に対しても嫉妬心を抱いているのか。
決して満たされぬものを抱えた表情で、ディートリヒは娘に言い聞かせるように、ゆっくりと話した。
「お前は、私の愛しい娘だ。ロザリンデ」
「ありがとうございます、お父様」
何の愛情も感謝も伴っていないそのやり取りも、この二人にとっては日常のことだ。
――お前は、私の愛しい娘だ。
幼いロザリンデを、魔物がひしめく洞窟の奥に置き去りにした時も、泣き叫んで命乞いをする死刑囚の前で、震えるロザリンデに斧を握らせた時も、ディートリヒはこの言葉を口にした。
「私も、お父様を愛しています」
ロザリンデがそう言うと、ディートリヒは微笑み、彼女の肩から手を離した。
ディートリヒはロザリンデに背を向け、娘のベッドに近付いた。そのベッドの上には、銀色の毛糸を髪の毛のようにした、手製の縫いぐるみが置いてある。ディートリヒが、その人形の頭を無造作に掴んだ。
「あっ……」
「こんなものを持っているのか?」
パラディンとして相応しくない。そして、パラディンとして相応しくないものを、お前が持つ必要は無い。今までのディートリヒならばそう言って、娘にその縫いぐるみを手放させただろう。あるいはその場で、力任せに首を引きちぎったか。いや、もしかしたら、ロザリンデに自ら、その縫いぐるみに火を付けさせるくらいはしたかもしれない。
「や……」
止めろ。咄嗟に、ロザリンデはそう言いかけた。しかし彼女の身体は震え、舌は喉に貼り付いたまま、声は声にならない。
「……まあ、良いだろう。これからは、こういうものも必要になるかもしれん」
だが、ディートリヒは縫いぐるみをベッドに戻した。今までにないことだ。そしてその縫いぐるみを見下ろしたまま、ディートリヒは背中越しに、ロザリンデに話しかけた。
「ロザリンデ、お前は私の愛しい娘だ。これまでも、お前は本当に良くやってくれた。……この上に、私がお前に望むのは、あと一つだけだ」
「え?」
あと一つだけ。それは、ロザリンデが父に初めてかけられた言葉だった。だがその言葉の意味が、ロザリンデには咄嗟に理解できなかった。
あと一つだけ。それで、父が自分に望むことは終わる。父の夢に従うこの人生に終わりがあるとは、ロザリンデは今まで、考えた事すらなかった。
あと一つ。その望みに従えば、父は満足するのだろうか。それで、自分は本当に、自分が生きたいように生きる事ができるのだろうか。
「なん、でしょうか、お父様」
「お前は女だ。ロザリンデ」
そうだ、女だ。だが、女に産まれた事を忘れろと、かつてロザリンデに言ったのは誰だったろうか。
「……はい」
しかしロザリンデは、内側にある父への想いを、決して表に出す事はない。それができれば、とっくにそうしている。
結局、些末な事なら逆らえても、ディートリヒが本当にロザリンデを従わせたいと思った時、ロザリンデは父に対し、ただ頷く以外の選択肢を忘れてしまうのだ。例え今はロザリンデのほうが、ディートリヒよりも圧倒的に強いとしても、その関係は変わらなかった。
「女には、女の役目がある。それは古より続く、神聖なものだ。それを果たせる事を喜びに思え」
「…………はい」
あと一つの望みだと、ディートリヒは言った。しかしそれを叶える事は、ロザリンデが永遠に、父から逃れられないという事を示す。ディートリヒは宣告した。
「アイゼンシュタインの跡継ぎを産め、ロザリンデ」
相手はこちらで決めておいた。
いつかはそう言われると、奔放に振る舞っているかに見えたロザリンデの心の奥にも、諦めのようなものがあったのだろうか。ディートリヒにその言葉を告げられても、ロザリンデの顔からは、表情は失われたままだった。
「……はい」
「男を産め。“それ”も、パラディンにする」
ディートリヒの口調は穏やかだったが、内容には狂気が含まれていた。そしてその狂気こそが、ロザリンデが世の男性全てを嫌悪する原因であり、今もロザリンデの表情を奪っているのだ。
「……はい、お父様」
自分の夫になる人が誰かとも聞かず、頷いたロザリンデの目から零れた一粒の涙を、銀色の髪の人形だけが、瞬かないボタンの瞳でじっと見つめていた。




