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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第六章 第三節
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272.偵察

「おい、あれ見てみろ」


 槍を持った衛兵が、同僚の脇を肘で突いた。

 皇帝選挙が近くなり帝都の人口が増えると、衛兵の巡回頻度が以前よりも上がった。治安維持のための、帝国元老院議会による決定だ。彼も、そうした衛兵の一人である。


「何だよ」


 いきなり小突かれて、同僚は機嫌の悪い声を出した。

 巡回頻度が上がっても、衛兵の数自体が増えたわけではない。従って衛兵たちの勤務時間は以前よりも長く、不定期になっていた。それで俸給が増えるはずもないから、彼が不機嫌なのは当然だった。

 もともと、帝都の衛兵の質は良いとは言えなかった。商店からみかじめ料をせしめたりと、不正に走る者も多い。それが更にやる気を失って、帝都の治安は悪化していた。昼はそれほどでもないが、夜に起こる喧嘩や傷害、強盗や殺人の類いは増える一方だ。

 そして市民がその不満をぶつける先も、彼ら衛兵だった。そうなれば彼らは更に不機嫌になって職務を怠り――と、悪循環ができあがりつつあった。それを思えば、まともに持ち場を巡回しているだけ、あるいはこの二人は真面目なほうなのかもしれない。

 彼らの今日の持ち場は、帝都南東にある丘の周辺だった。

 巨大なる帝都は、その市壁の中に、小さな森や丘さえ持っている。この丘の標高は、内陸にある山々と比べれば低いものだが、その見晴らしの良さから、帝都住民の憩いの場となっているのだ。


「あそこにすげぇ美人が……あれ?」


 午後、その丘のとある公園で、衛兵は一人の美しい町娘の姿を見た……はずだった。


「どこだよ」

「あれ? おかしいな……」


 しかしそれは、目の錯覚か何かだったようだ。衛兵は目をこすると、不思議そうに首を傾げ、歩き去っていった。

 それを、公園に生えた木の上から見下ろしている者がいる。


「…………ふぅ」


 衛兵が見たものは、町娘に変装したアルフェの姿だった。木に登ろうとした瞬間、隠していた気配が漏れてしまったようだ。

 衛兵が行ってしまったのを確認すると、彼女はどこからともなく遠眼鏡を取り出した。それを使ってアルフェが眺めはじめたのは、はるか遠くに見える、神殿騎士団の要塞内だ。


「…………」


 要塞にも防壁がある上に、地形の関係から言っても、アルフェの位置から覗けるのは敷地の一部だ。そこで彼女が探しているのは、友人の神殿騎士テオドールやマキアス、そして、例の従者クラウスの姿だった。

 騎士団本部要塞は、騎士の養成所を兼ねているそうだ。教官らしき者に叱咤されながら、広い砂地の外周をぐるぐると走っている少年たちの姿が見える。かと思えば、別の場所では木剣を持って、互いに打ち合っている青年たちの姿もあった。


 メルヴィナは教会と神殿騎士団に出入りしていた。彼女がほのめかすところによると、クラウスも同様らしい。彼らがそこでしようとしているのは、例によって結界に関わる何かのはずだ。彼らはドニエステ王に命じられて、各地の結界を調べて回っていたのだから。

 ドニエステの結界が、弱まりつつある。ドニエステ王は、それを食い止めたいと思っている。結界について一番詳しいのは、教会に決まっている。だから彼らは教会に潜入した。その辺りの論理に矛盾は無い。


 ――同じ目的のため、お師匠様の仇も、いずれは帝都にやって来る。


 かつてクラウスは、アルフェにそう言った。だから帝都には近寄るなと。


 アルフェは帝都に入る前、その理由を、皇帝選挙に巻き込まれたテオドールが心配だからと言っていた。それはきっと偽りではない。彼女は本心から、かつての友人のことが心配だった。

 だが、それを口実にして、帝都で仇が現れるのを待ちたいという気持ちが、皆無だったとは言い切れるだろうか。


「…………」


 季節は夏である。アルフェが登っている木は、緑の葉を枝一杯に茂らせている。虫も多いが、彼女が気にする様子は無い。遠眼鏡を構えたまま、アルフェは微動だにしなかった。


 ――はぁ。


 一時間以上はそうしていたが、結局、アルフェはめぼしいものを見つけられなかったようだ。肩を落として息を吐くと、彼女は遠眼鏡を下ろそうとした。


 ――……ん?


 と、そこでアルフェは、それまでとは違う何かを見た。

 柱に支えられた屋根だけあって、壁の無い回廊を、一人の青年が歩いている。その青年も神殿騎士のようだが、彼と他の騎士とは、どこか様子が違った。

 何が違うかと問われれば、答えは一つだ。その青年騎士は、他の神殿騎士とは、比較にならないほど強い。暑さの中でもほとんど汗をかいていなかったアルフェの額に、薄らと汗が滲んだ。


「パラディン……!」


 アルフェの口から、思わず声が漏れていた。

 あれはパラディンだ。第何席かは知らないが、絶対にそうだと確信できる。末席のロザリンデ・アイゼンシュタイン。第九席のエドガー・トーレス。アルフェは既に、二人のパラディンをこの目にし、実際に戦いさえしたのだから間違い無い。

 いわゆる美男子というものであろう。遠眼鏡越しでも分かる、非常に整った顔立ちの青年だ。しかしアルフェの目には、青年の周囲の空気が、威圧感で歪んでいるようにさえ見えていた。もしもあれと戦ったら、今の自分は勝てるだろうか。否応なしに、アルフェの脳はそれを考えていた。


 テオドールたちやクラウスの事を忘れ、アルフェの関心は、今や完全にその青年に注がれていた。青年はどこか弾むような足取りで、どこかを目指して歩いている。かと思えば、彼は急に立ち止まり、向きを変えた。


 ――……誰かを、呼んでいる?


 青年は大きく手を振り、遠くに見つけた誰かに向かって、声をかけているようだ。アルフェは慎重に、青年の視線が指す方向に、遠眼鏡を移動させていった。

 すると――


「え? ………………ひッ!!」


 一拍を置いて、今度アルフェの口から漏れ出たのは、紛れもない悲鳴だった。その悲鳴が、そこに映っていた者の耳に入らないよう、アルフェは咄嗟に口を押さえた。そしてそのせいで、彼女はバランスを崩し、木の下に落下してしまった。


「い、つぅ…………」


 不覚にも、受け身を取ることすら忘れてしまい、アルフェは後頭部を地面に強打した。


「……おねえさん、だいじょうぶ?」


 頭を抑え、海老のように身体をよじるアルフェを、公園に遊びに来ていた女児が見下ろしている。木の上から落ちてきた不審者に我が子が近寄らないように、近くにいた父親が、すぐさま女児を抱えて逃げ去っていった。

 それから、アルフェもすぐに痛みから立ち直ると、破損した遠眼鏡を抱え、家の方角に向けて慌てて走り出した。


 遠眼鏡の先に、彼女は何を見たのだろうか。


 それは、一人目の青年とは違う、もう一人のパラディンの姿だった。

 そしてそのパラディンは、何とあの距離から、アルフェと眼を合わせていた。もしかしたら、アルフェが気付く前からずっと、あのパラディンはアルフェの方を見ていたのかもしれない。いくらパラディンが人外の集まりでも、そのような事ができるはずがないのに。

 きっと偶然だと、家に戻りながら、アルフェは心の中で唱え続けた。

 しかし、本当に偶然だろうか。あるいは彼女ならば、ロザリンデ・アイゼンシュタインならば、それができるのかもしれない。その考えがなおのこと、アルフェを正体不明の恐怖に駆り立てていた。



「ロザリンデさん、いったい何を見ていたんですか?」


 パラディン第七席のシモン・フィールリンゲルは、己にとっての愛しい女性、パラディン第十二席のロザリンデ・アイゼンシュタインに、息を弾ませながら尋ねた。

 シモンほどの身体能力の持ち主が、この距離を走った程度で息を弾ませるはずがない。だから彼が息を切らせているのは、ただひたすらに、ロザリンデを目の当たりにした喜びで、心臓が飛び跳ねているからだ。


「…………」


 ロザリンデは少しあごを上げ、どこか虚空を見つめたまま、何も答えない。その儚げな横顔が、なおのことシモンの胸を締め付けた。

 ロザリンデがシモンを無視するのはいつものことだ。例えシモンが帝都一の美男子だとしても、ロザリンデにとって、それは全くの無意味だ。いや、むしろ有害ですらある。男であるというだけで、シモンもロザリンデにとって、害虫以下の唾棄すべき存在に過ぎなくなるのだ。


「ロザリンデさん……」


 彼女の名を呼ぶシモンの切ない声と表情は、帝都にいる一般の婦女子たちの心を奪うには十分であろう。しかしそれも、ロザリンデにとっては発情したゴブリンの鳴き声と大差ない。


「何が見えたんですか? ロザリンデさん」


 それでも、シモンはめげずに呼びかけを繰り返した。

 皇帝選挙のため、帝都外の任務から帰ってきたその日のうちに、愛しい彼女と出会うことができたのだ。運命を感じた青年の前に、怖いものなど何も無かった。


「ロザリンデさん。何が……」

「…………」

「え?」


 そして、シモンの思いが天に通じたのだろうか。ロザリンデの桃色の唇が、わずかに動いた。シモンが耳を澄ますと、熱に浮かされたように、ロザリンデが何かをつぶやいているのが聞き取れた。シモンは周囲の雑音を、全て心から取り払い、彼女の囁きに耳を傾けた。


「め、がみ……さま?」


 女神。どこか遠くを見続けるロザリンデは、確かにその単語を口にしていた。

 女神。それは神聖教会の教義には無い、神殿騎士が口にするにしては不穏な単語だ。

 だが、シモンは確信を持って頷くと、その場に片膝を突き、左手を胸に当て、右手をロザリンデの方に差し出して叫んだ。


「もしもこの世に女神がいるとしたら、ロザリンデさん、それは貴女です!」


 離れた場所には、運悪くこの場に居合わせ、このやり取りを眺めていた騎士見習いの少年たちがいる。彼らは皆、もしかしたらこれから、とてつもなく恐ろしいことが始まるのではないかと、はらはらと成り行きを見守っていた。


 シモンの叫びから三十秒ほどの間隔が開いた。

 桃灰色の髪の少女は、唐突にほっと息を吐くと、今まで見つめていた虚空から目を切り、ゆっくりと首を動かした。そして、まだそこに跪いているシモンを、これ以下は無い冷たい目で見下ろし、ただ一言だけ口にした。


「死ね」


 何事も無かったかのように、ロザリンデはその場を去って行った。遅れて、金縛りに遭っていた騎士見習いの少年たちも、そそくさと逃げ出した。


 一人取り残された美青年は、砂地にへたり込んだまま、絶望に打ちひしがれたように肩を落としていたが、やがて快感に耐えかねたような声を出し、その場で一つ身震いした。


たまに出現させたくなる。

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― 新着の感想 ―
1話からここまで大変面白く読ませていただきました。旅情を感じさせる冒険譚、大好きです。 ただ、ロザリンデさんが誇張されたレズビアンキャラとしてギャグ要員のように描かれているのがピエロみたいで可哀想だ…
[一言] どれだけ真面目に進めていても全てを台無しにする変態 やはり帝都は危険だ 直ぐに離れなくては
[一言] ロザリンデさん「あちらから女神様の匂いがする……っ!」 アルフェにとってはもはや仇敵以上の天敵さん
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