271.新聞
「テオドールさん、こんにちは。こうして朔日の礼拝でお会いするのは、お久しぶりですね」
「はい。ご無沙汰して申し訳ありません。とんだ不信心者ですが、どうかご寛恕を」
「いやいや、神殿騎士が激務である事は、神も承知していますよ」
「だと良いのですが」
「はっはっは」
大聖堂の一角で鷹揚に笑ったのは、神聖教会総主教のクオンタヌス8世である。その前で笑顔を見せている騎士服姿の青年は、神殿騎士のテオドール・ロートシュテルンだ。両者の背後にいるのは、教会や神殿騎士団の重鎮たち――別の言い方をすれば、総主教やテオドールの取り巻きである。
皇帝選挙が近くなり、帝国内の各勢力は、自分が推す候補者を皇帝にするための、土台がためを進めている。そして目下、次期皇帝の最有力候補となっているのが、教会と神殿騎士団、そして親教会派の諸侯たちに指示された、ここに居るテオドールなのだ。
テオドールは、先帝の血を引くロートシュテルン家に生まれた、現在は唯一の男子である。血筋的に見れば、彼が皇帝の最有力候補であることは誰が見ても疑い用の無い事実なのだが、これまでその話は、あまり積極的に表に出てこなかった。
理由はいくつか有ったのだが、その一番は、テオドール本人が権力の座に対して淡泊だったことだ。
彼がその気になれば、神殿騎士団で出世するにしても、俗界に戻って帝都議会で派閥を形成するにしても、帝国の政治に大きな影響力を持つことは容易だったはずだ。それでもテオドールは、神殿騎士の中でも下位に留まり続け、その血が持つ力を発揮しようとはしてこなかった。隙あらば寄ってこようとする取り巻きに対して、困ったような笑顔を浮かべながらも、それでも頑として撥ね付けてきた。
なのに最近は、少し様子が違う。
月初めの大礼拝に参加して、総主教とこれ見よがしに談笑して見せる。諸方から帝都を訪れている諸侯とも顔を合わせ、一人ひとりと挨拶して回る。明らかに追従と分かる笑み。誠実さの欠片も無い会話。こういう事が苦手だったから、彼は今まで、一介の騎士のままでいようとしてきたのではないのか。
もしもマキアスがここにいたら、親友の更なる不可解な変わりように、眉をひそめたに違いない。
「こんにちは、オイゲン君」
テオドールが次に話しかけたのは、若きノイマルク伯のオイゲン少年だった。
オイゲンは就任の祝福を受けるために帝都に来て以来、帝都に留まり続け、大聖堂の総主教のもとにも頻々と顔を出している。聖女エウラリアに執心の様子で、彼女の為す奇跡の技を、目を輝かせて見学しているそうだ。
そのオイゲンに、テオドールが話しかけた。それも「オイゲン君」と、大層な親しみを込めて。
その後に彼らが何を話したのかについては、全くもってどうでも良い。教会が強力に推す皇帝候補のテオドールは、現在のノイマルク伯と親しいのだ。彼らは二人とも信仰心に篤く、大聖堂の礼拝にも熱心に訪れるのだ。
衆目がそれを認知すれば、それで良い。
彼らの側で満足そうな笑みを浮かべているのは、総主教だった。
――これで良い。ユリアン・エアハルトが何を考えているにせよ、ノイマルク伯本人の心は、確実に教会に傾いている。ノイマルクが教会派になれば、エアハルトを支持する八大諸侯はいない。所詮ユリアンも、八大諸侯の一人に過ぎないのだ。この大陸、この帝国において、教会に勝る力を得ることなど……。
総主教の頭の中にあったのは、そういう思考だ。
帝国議会が突如として皇帝選挙を叫びはじめた背景には、エアハルト伯ユリアンによる根回しがあった事は間違い無い。東方で勢力拡大に勤しむユリアンの最終的な野望が、自ら皇帝に即位する事だというのも、それで分かった。
仮にユリアンが皇帝になったとしよう。――いや、仮にと考える事すらおぞましい。既にエアハルト領内においては、教会の影響力は退潮の一途をたどっている。あれこれと新しい法を造り、伝統的な教会の権利を制限・否定しようと躍起になっているのがあの男だ。
この世界において、教会の教えは絶対だ。例え神が「ああいうもの」であったとしても、いや、ああいうものだからこそ、教会の教えを信じるしか、人間は救われない。
その教会に、正面から刃向かおうとしているのがあの男だ。それが皇帝になるなど、許されるはずが無いのだ。
そんな事を考えながら、表面には柔和な老人の笑顔を浮かべたまま、総主教はテオドールとオイゲンの会話に混じった。
◇
「街で、こんなものを売っていました」
その日、偵察という名の散歩に出かけていたフロイドが帰ってくると、彼はテーブルに一枚の紙を広げた。茶色の、あまり質の良くない紙である。そこにはやたらと小さい文字で、文章が書かれている。
アルフェはそれを見て首を傾げた。フロイドは補足する。
「皇帝選挙の情報が載っている」
確かにそうだ。皇帝候補の誰々がどこそこに現れたとか、帝国議会で誰それがどんな発言をしたとか、紙に書いてあるのはそういう情報のようだ。帝都の外からやってきた諸侯についても、何事かが書いてある。
「新、聞……だったかな。売っていた奴はそう呼んでいた。最近、帝都で売れているそうです」
食い入るように文章を読んでいるアルフェの横で、フロイドは説明を続けている。
「確かに、そこら中で皇帝選挙のうわさ話をしてるからな。売れるだろうさ。色々な商売を考える奴がいるもんだ」
「いくらで売っていましたか?」
内容に一通り目を通したアルフェが顔を上げた。文字は小さくとも、紙はそれほど大きくない。読むのに手間はかからなかった。
「まあ、そう聞くと思っていた。銀貨一枚だ」
「紙とインク代を考えても、少し割高な気がしますが……」
確かに興味深い品だ。皇帝選挙の行方に関心が集まっている今、市民たちは情報を欲しがっている。挿絵が描かれているのは、文字の読めない平民に配慮しているのか。
「ゲートルードに見せたら面白そうだ。情報屋組合にとっては、商売敵の出現だろうしな。ん? おい、ゲートルード」
ちょうどそこにゲートルードが通りかかり、フロイドは彼を手招いた。
テーブルの側に寄ったゲートルードは、新聞を読むと眉をひそめた。
「こういうものが売られているのは知っています。ですが、あまり感心しません」
「どうしてだ?」
「色々と思うことがありますが……、何よりもまず、情報の確度が低すぎるからです」
「確かに、間違っている内容が多いですね」
アルフェもゲートルードの言葉に同意した。アルフェもゲートルードに命じて、皇帝選挙の情報については熱心に集めている。その知識と引き比べてみると、紙に書かれた情報には、所々誤りがあった。
「無意味に煽り立てるような文章になっているところも気になります」
「そのほうが売れるからだろ?」
「フロイドさん、面白がっていますね。ですが知識というものは、そのように粗末に扱って良いものではありません。そもそも――」
ゲートルードに説教されているフロイドを尻目に、アルフェは新聞を持って移動した。
これは中々興味深い品物だ。不確実な情報は多くとも、ゲートルードがもたらすものとは、違った観点を与えてくれるのは確かだと思った。
「神殿騎士ロートシュテルン卿がノイマルク伯と交友。ノイマルク伯は、自身が主催の午餐会にロートシュテルン卿を招き、卿は快くこれに応じた……」
ロートシュテルン卿というのは、アルフェも知っている騎士テオドールのはずである。皇帝候補として、彼の名前は紙面の中で、かなり大きく扱われていた。
新聞の中にいるテオドールは元気そうだ。あちこちの諸侯や教会関係者とせわしなく交流している様子が、文章から伝わってくる。アルフェは彼が皇帝候補となって、ユリアン・エアハルトと対立する事に言い知れぬ不安感を覚え、この帝都までやって来たわけなのだが、その心配は、あるいは杞憂だったかもしれない。そうならば良いのだが。
しかし、ユリアンというのは、目的のためならば手段を選ばないところがある人物だ。今後何が起こるかは、まだ分からない。
「むう……」
新聞に目をこらしながら、アルフェは階段を上った。
この新聞を作った者は、教会に好意的な人間なのだろうか。全体的に、教会や神殿騎士団関係者を賛美するような論調が目立つ。この挿絵に描かれているのは誰なのだろう。注釈によると、これが総主教らしい。法服を着た笑顔の老人から、後光が差している。ちょっと誇張しすぎではないだろうか。
「むむむ」
隅に、第五号と数字が振られている。この新聞は皇帝選挙が開かれるまで、定期的に作って販売するつもりのようだ。買って損の無い情報量だとは思う。しかしやはり、銀貨一枚とは吹っ掛けすぎではないだろうか。
――この人たちはどうやって情報を収集しているのでしょうか……。情報屋? でも、ゲートルードがあんな感じだったし……。ひょっとしたら、冒険者組合から?
各地の冒険者組合では、情報の買い取りも行っている。魔物や薬草の生息情報が主だが、帝都の組合では、こういう情報も買ってもらえるのかもしれない。帝都には魔物がいないからと、冒険者組合に顔を出すのを怠っていたが、一度は見に行ってみるべきだろうか。
「…………」
そんな事を考えながらアルフェが立ったのは、自分の部屋ではなく、メルヴィナの部屋の扉の前だった。どこか子どもっぽく緩んでいたアルフェの表情が切り替わり、途端に冷たいものとなる。ノックをすると、室内の気配が動くのが分かった。
「お早うございます、メルヴィナさん」
「…………」
「入りますよ」
メルヴィナは、部屋に入ってきたアルフェを立って迎えた。
「……何をしていたのですか?」
「……特に、何も」
メルヴィナがそう言ったのは、彼女を捕えている者に対する皮肉でも何でもなく、単なる事実のようだ。彼女は椅子に座っていたようだが、テーブルには何も置かれていない。本棚には、アルフェがフロイドに命じて運ばせた数冊の本が並んでいる。背表紙はそろっていて、メルヴィナがそれに手を付けた様子は無い。
「こんなものを手に入れました」
アルフェは、持ってきた新聞をメルヴィナに差し出した。
「……皇帝選挙」
メルヴィナは字が読める。彼女は変化の乏しい表情でつぶやいた。
「下らない読み物ですが、暇つぶしにはなるでしょうから」
さっきまで自分も夢中で読んでいたくせに、アルフェはそう言った。
「……座って読んだらどうですか?」
アルフェに勧められると、メルヴィナはそろそろと椅子に座った。分かりにくいが、目線は動いている。読んでいるようだ。
それを確認して、アルフェは見下すような視線の奥で、ほっと胸をなで下ろした。今のアルフェの有様は、まるで拾ってきた野良猫が、何も食べないで衰弱していく様子を、オロオロと眺める小さな娘のようだ。
傍目からは、こうしてこの家に囚われていることに、メルヴィナはあまりストレスを感じていないように見える。それはきっと、彼女の死霊術士としての生い立ちが関係しているのだろう。
それどころか、精神的に疲弊しているのは、むしろ捕えている側のアルフェのほうかもしれない。「人を部屋に監禁し、何もさせない」という事に、アルフェは耐えきれなかった。それも恐らく、アルフェの特殊な生い立ちが関係しているのか。
この部屋に鍵はかかっていない。窓に鉄格子もはまっていない。だから出ようと思えば、いつでも出られるのだ。何なら、この家の敷地内ならば庭でもどこでも、自由に出て良いと言ってある。
言わずもがな、それは捕虜への待遇として相応しくない。しかしアルフェには、どうしてもそれができなかった。メルヴィナの部屋に外から鍵をかけようとすると、それを考えるだけで、手が震えて止まらなくなるのだ。
――それは困った。だが、ほいほいと生き物を拾ってくる貴女が悪い。頑張って育てて下さい。
それとなくフロイドに意見を求めると、アルフェはそう言われてしまった。
――そう言えば、あの死霊術士は、貴女に似たところがあるな。……ま、以前の貴女に、という意味だが。
ついでにフロイドは、そんな事も言っていた。どこが似ているのかと聞いたら、はぐらかされた。
「貴女にここに来てもらってから、それなりに時間が経ちました。貴女の仲間にも、そろそろ不審に思われている頃合いでは?」
「居ません」
「居ない? 居ない……とは?」
「……不審に思う者など。…………私を、心配する人など」
メルヴィナのこういう、やけに自虐的な物言いも、アルフェの心に引っかかる。しかしメルヴィナ曰く、帝都での彼女は独自の裁量で動いている部分が多く、何日か姿を消したくらいでは、きっと怪しまれないということだ。ステラのように情に篤い人間は、彼女の仲間にはいないということだろうか。
「……クラウスもですか?」
「…………っ」
だが、この名前を出すと、メルヴィナは唇を噛んでうつむく。
折に触れ、アルフェはこうしてメルヴィナに尋問を行っているのだが、彼らの関係は依然として謎が多かった。




