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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第六章 第二節
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270.そんな心の動きでさえも

 まずは、メルヴィナと患者の安否を気にしているであろうステラに姿を見せて、自身の無事を伝えてこい。

 それが、アルフェがメルヴィナにした、最初の「要求」であった。


 メルヴィナが無事だったことを知り、ステラは腰を抜かして、その場にへたり込んだ。その前に膝を突いて、メルヴィナは、ステラに優しく語りかけているようだ。

 その会話の内容までは、彼らの様子を、遠くからうかがっているアルフェの耳には届いてこない。だが、別にそれでも構わない。あの二人が何を話すのかなど、特に関心はない。心の中で、そう唱えていたお陰だろうか。感極まった様子のステラが、メルヴィナの首に抱きついても、アルフェはそれを、冷静に眺めていられた。


「……お待たせしました。アルフェ様」

「…………」

「……どう、されましたか?」

「いいえ、何も」


 ステラはなかなかメルヴィナの手を離さなかったが、どうにか会話を切り上げると、メルヴィナはアルフェの元に戻ってきた。首枷を付けているわけでもないのに、何を考えているのか。


「……あの、怪我をした女性のことは、ステラさんにも、納得していただきました。……私が、安全な場所に、かくまったと」


 アルフェに指示された通り、メルヴィナはステラに伝えたようだ。これで取りあえず、治癒院絡みの問題は整理できたことになるだろうか。


「家に戻ります。さっきも言った通り、貴女の身柄は、私がしばらく拘束します」

「……はい」

「行きましょう」


 そして、拘束されている側の娘が、拘束している側の娘の後に付いて行くように、少し遅れて歩き始めた。

 奇妙だった。アルフェは別に、メルヴィナに縄を付けて引っ張っていたりもしない。逃げれば殺すと、脅しをかけたわけでもない。それでも、メルヴィナが余りに従順なので、逆にアルフェのほうがどう反応して良いか分からず、眉を少しひそめている。


 今のメルヴィナは、アルフェに命じられ、フロイドが商店で購入してきた服を着ている。どこにでもあるような、若い娘向けの服だ。だが、メルヴィナがこういう服を着慣れていないということは、見るだけでアルフェにも分かった。彼女はすねくらいまであるスカートがひるがえるのが気になるのか、その裾を抑えて、少し無理な姿勢で歩いている。もう一方の手で帽子を押さえつけているのは、やはり己の黒髪を、人目にさらすことを恐れているのだろうか。


「……こういう時は、堂々と歩いたほうが良いですよ。逆に目立ちませんから」


 姉の学友だったということは、外見の印象通り、メルヴィナはアルフェよりも年上のはずだ。なのに、どうにも頼りなく見える。あまりにおぼつかない足取りで歩かれるので、アルフェはそんな助言を口にしてしまった。

 アルフェに言われて、メルヴィナはスカートの裾から手を離した。それで少し歩き方はマシになったが、帽子から手を離すのだけは、どうしても嫌なようだ。うつむいている顔も、上げようとしない。


「エアハルトの時は、私から逃げ出しましたよね」


 大聖堂があるのとは別の人通りのない区画に来ると、立ち止まったアルフェは、歩くのが遅いメルヴィナが追いつくのを待ちがてら、彼女に話しかけた。


「どうして今度は、逃げようとしないのですか?」

「…………」

「それも、答えられないことですか?」

「…………私は」


 アルフェに追いつくと、メルヴィナはアルフェの質問には直接答えず、別の話をし始めた。


「……あれからも、……数え切れないほどの命を、奪いました。……本当に、沢山の」

「……それで?」

「……私は、生きている価値の無い、人間です」


 つまりは、人を傷付ける事に嫌気が差したから、その生活から抜け出したいと思った。あるいは、贖罪をしたいと思った。そういうことを言いたいのだろうか。

 生き延びるため、自分の目的のために多くの人を傷付けてきたのは、アルフェも同じだ。そういう人間には、生きる価値が無い。そう言われている気がして、アルフェはメルヴィナから、少し目を逸らした。


 そんな事くらい、言われなくても、自分にだって分かっているのだと。



「本当に、ありがとうございました」


 アルフェたちが家に戻ると、例の怪我人の女が目を覚ましていた。まだ立ち上がることはできないようだが、ステラの治療を受けただけあって、傷は完全に塞がっているという。女はベッドの上で上体を起こし、アルフェに向かって丁寧に頭を下げた。


「この御恩は忘れません、お嬢様」


 メルヴィナは部屋に戻した。ゲートルードは調べ物をしている。この場にいるのは、女とアルフェ、そしてフロイドだけだ。女はアルフェのことを、お嬢様と呼んだ。アルフェたちが女の命を救った時の状況を、フロイドはどう説明したのだろうか。


「フロイド様に、全て聞きました。お嬢様がフロイド様に、私を助けるように言って下さったと」


 まあ、それは間違いではない。

 女は自分のことを、ノインと名乗った。暗殺者ギルドから抜け出そうとしたことで、帝都の裏路地で、裏切り者として始末されかかっていた女だ。


「ノインさん。貴女には、これから行く当てはありますか?」

「…………」


 ノインは押し黙ってしまった。

 どんなギルドでも、そこを離れる者に対するペナルティというものは有る。ギルドの恩恵を受ける以上、それは当然だ。抜けたければ、脱退金を支払うなり、ギルドに対する「落とし前」を付けなければならない。人の出入りに対して寛容なのは、冒険者ギルドくらいのものだ。ギルドに入っても大した恩恵が無いからだと、かつてどこかの街で、年配の冒険者が冗談めかして言っていたのを、アルフェも聞いた事が有る。

 ともかく、暗殺者ギルドが離反者に求める「脱退金」は、離反者の命だということだろう。ノインが独力でその追求から逃れられるほど、裏社会のギルドは甘くはあるまい。


「ゲートルードに話を付けさせては?」


 フロイドが提案した。確かに、情報屋組合を支配するゲートルードならば、暗殺者ギルドとの交渉も、不可能ではないだろう。


「でなければ、もう一度地下に乗り込んで、派手な“下水掃除”といくか。……こっちの方が、貴女の好みかもしれないが……」

「ゲートルードに頼んでみましょう」

「了解です」


 アルフェとフロイドのやり取りの意味を理解できない様子で、ノインは二人を交互に見ている。その視線に気付いたか、フロイドはノインを安心させるような言葉をかけた。


「心配しなくてもいい。一度拾った手前、再び放り捨てるようなことはしないさ」

「あ……りがとう、ございます」


 フロイドの微笑みを受けて、ノインは少し涙ぐんだ。

 ずいぶんと良い格好をする臣下に対して、嫌味の一つでも言ってやろうかと、アルフェが口を開こうとしたところで、アルフェを指して、フロイドは付け加えた。


「この人は、そういう人だ。それに拾われたからには、何も心配しなくていい。…………どうしました?」

「――え? ……え?」

「いや、何か口を開けたまま、固まっているから」

「い、いえ」


 上ずった声で返事をしてから、アルフェはフロイドから視線を外し、ノインの方を見て咳払いをした。


「こほん。……という訳で、私には貴女を助けた責任があります。ですから、こちらで然るべき対策を講じます。貴女にはその間……、この家にいてもらった方が良いと考えるのですが」

「確かに。君を帝都から脱出させて、どこかの領邦に送り出すことはできると思うが、その後が問題だ。皇帝選挙の関係で、今は帝都に多くの人間が集まっている。身を隠すにはむしろ、人口の多い帝都の方が適切かもしれない」


 フロイドがノインのことを「君」と呼んだ事にも、ほんの少しの引っかかりを覚えながら、アルフェは頷いた。

 二人の提案を受けたノインの目から流れる涙は、ますます量を増やしている。


「どうして……、どうして私なんかに、そこまで。私は今まで、多くの人の命を奪った、救いようの無い女なのに」


 救いようの無い女。ノインもまた、メルヴィナが言っていたのと、同じようなことを言った。

 確かにその通りだ。そこにどんな事情が有るのだとしても、この女が人の命を奪うことを生業としてきたのは事実だ。生きる価値の無い人間。救いようの無い女。どれもこれも、自分自身に当てはまっている言葉のようにしか、アルフェには聞こえない。


「そんな事はない」


 アルフェがかける言葉に迷っていると、フロイドが首を横に振った。


「後悔しているなら、きっとやり直せる」


 フロイドがそう言いきれるのはどうしてだろう。何を根拠に、この男はそんな風に言い切れるのだろう。


「俺もかつて……、ある人にそう言われた」


 ――あ。


 アルフェは思い出した。何の事は無い。フロイドが語っているのは、かつてアルフェが、彼に向けてかけた言葉ではないか。己は負け犬だと打ちひしがれていたフロイドに、そんな事はない、きっとやり直せると、アルフェは言った。



「フロイド」

「ん?」


 ノインとの対話が終わった後、アルフェは廊下で、彼がさっき言っていた事について聞いてみようかと思った。


「……やっぱりいいです。何でもありません」


 だが結局、止めておいた。

 今日のアルフェは、自己嫌悪に苛まれていたかと思えば、過去の自分に、それに対する慰めの言葉をかけられてしまった。色々な思考や感情が常に渦巻いて、頭の中が忙しい。今日はこれ以上、難しい話をしたくない。


「あの……、今日はありがとうございました」


 しかし一応、アルフェはフロイドに礼を言うことにした。かつては、この男にだけは礼を言うまいと決めていたアルフェだったが、その決まりを、いつしか彼女は忘れていた。


「礼を言われる事は無い。まあ、何とか上手く行きそうだし」

「はい、そうですね」


 激情に振り回されてアルフェがぐちゃぐちゃにしてしまった状況を、少しは整理することができた。メルヴィナについては未解決の問題が多いが、ノインのことは、ゲートルードを介して話を進めていく事で、何とかなりそうだ。

 アルフェは指の先で、軽くこめかみを押さえた。


「頭がぐるぐるします……」

「ぐるぐる……?」

「色々な……考えが、ぐるぐると」

「……早めに寝た方が良いのでは?」

「そうします」


 素直に頷くと、アルフェはフロイドを置いて、階段を上がっていった。


「やれやれ」


 ちなみにノインには、体調が回復して、状況が落ち着くまでの間、この家で雑用――侍女のようなことをやってもらう事になった。この家には人手が足りないし、元々まともな素性の者は雇えないのだからと、これもフロイドがアルフェに提案した。


「これで俺も、少しは雑用から解放されるかな……」


 頭の後ろを掻きながらフロイドはつぶやき、しかしすぐに、アルフェに聞かれてはならぬと口を閉じた。フロイドが熱心にノインを慰めていた裏に、多少なりともそんな思惑が有ったと知れたら、アルフェはどう思うだろう。

 無駄にしなくてもいい感動をさせられたと、きっと頬を膨らませて、不機嫌になるに違いない。

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