264.嫉妬
アルフェはずっと、ステラという少女の事が苦手だった。
そもそも、オークの群れに包囲されていた開拓村で、二人は出会った。あの時のアルフェはコンラッドを失ってから、ずっと一人で放浪していて、ステラの方は、諸国を巡ってあらゆる人に治癒術を施す旅をしていた。二人の間には、アルフェがエアハルトに滞在していた時、多少の交流が有った。
ステラの治療を、アルフェも受けた事がある。アルフェが仕事中に毒で倒れた時は、ステラの看護がなければ、きっと命を落としていたに違いない。
アルフェがステラと会って話をしたのは、それを含めてほんの数回だけだ。それだけの交流しか無いが、アルフェはどうしても、ステラの事が苦手だった。
今よりもずっと荒んでいたあの頃のアルフェにも、ステラは何の分け隔てなく接した。ステラはアルフェに優しい声で話しかけ、時には姉のように、厳しくたしなめたりもした。あの頃のアルフェには、それが恐ろしくてたまらなかった。
あの頃に、アルフェが唯一の支えにしていたのは、コンラッドを殺した者に対する憎しみと、理不尽な世界そのものに対する怒りだった。それがあるから、アルフェは独りでも生きていられたのだ。
ステラに話しかけられ、笑いかけられるたびに、アルフェの中にあったそういった大切な思いが、あっけなく溶けていくような気がした。
その思いが溶けた先に、自分に何が残るのか、アルフェには分らなかった。分からないからこそ、怖くてたまらなかった。
ただアルフェにも、理解できたことがある。
多分、本当に優しい人とは、ああいう人の事を指すのだ。
優しさについてアルフェが語るとき、彼女の頭の片隅には、きっとステラの姿があったに違いない。
アルフェがメルヴィナを拘束した場面から、時は少しさかのぼる。
下水探索を終え、夜の路地裏で瀕死の女を拾ったアルフェは、フロイドと共に、その女を大聖堂の治癒院に運んだ。
そこでアルフェが見たのは、フロイドの応対をするステラの姿だった。アルフェはその直前まで、ステラとこんな所で出会うとは想像もしていなかった。驚きに、アルフェの心臓は危うく止まりかけた。
そして、アルフェは自分の姿をステラに見られる前に、脱兎のごとく、そこから逃げ出した。
「どうしたんだ。一体何が――」
道中も、隠れ家に戻ってからも、フロイドはアルフェを問い詰め続けた。それに対し、アルフェは両手で顔を覆ったまま、良く分からない呻きを返しただけだった。
そして彼女は、はっと気付いた。
アルフェたちが治癒院に運び込んだあの女が、もしも命を取り留めて、目を覚ましたらどういう事になるだろうかと。
夜の路地裏で殺し合いをしていたのだ。まともな素性の女ではない事は確実だった。それを承知していながら、今さらそういう事を思うのは、やはり、人一人を気まぐれで助けるという事が、どういう意味を持つのを、アルフェがしっかりと考えていなかったからだ。そもそも、付け焼刃で、優しい人のふりをしようとしたのが過ちだった。
だが、後悔していても何もならない。とにかく行動しなければと、アルフェは立ち上がった。
「――! あの死体……」
立ち上がってから、アルフェはもう一つのことに気付いた。
女と殺し合っていたのは、三人の男だった。一人は逃げて、二人はアルフェたちの尋問を受ける前に、自ら命を絶った。女を取り返すために、逃げた男が何かをするとは考えられないか。
あの時に一人を逃がしたのも失敗だった。追撃してとどめを刺す事は簡単だったのに、それをしなかったのも、アルフェが優しい振りに酔いたかったからだ。
裏通りに放置したあの死体はどうなっただろう。確認しておいた方が良いのではないか。いや、死体を気にする前に、さっさとステラの居る治癒院に忍び込んで、預けた女を攫ってくるべきだろうか。
――そもそも、どうしてこんなに他人の事を気にしなければならない?
――優しい人間になりたいと思ったからだ。お師匠様が死に際に望んだように。でも、それが根本的な間違いだった。
――違う!
ステラの姿を目にしてから、アルフェの思考は千路に乱れていた。
唇を強くかみしめて、アルフェは再び隠れ家の外に出た。フロイドの声が、そんな彼女の背中を追った。
「無い……」
女と男たちが戦っていた裏通りにアルフェが着くと、二つの死体は既になくなっていた。まるで、初めから何事も無かったかのように。
死体を回収したのは、衛兵ではないはずだ。衛兵の仕事はもっと遅いし、一般市民が見つけたのなら、もっと大騒ぎになっている。では、誰がやったのだろう。逃げたと思った男が戻って来たのか。それとも、他にも周囲に仲間がいたのか。
現在の時刻は早朝である。街はもう動き出している。治癒院に忍び込むのも、この時間からでは難しい。
「ここに居たか、アルフェ――」
アルフェが死体の消えた路地裏で立ち尽くしていると、フロイドが彼女に追いついてきた。
「ちょ、どこに行くつもり――」
フロイドを無視して、アルフェはその場から移動しようとした。どこに行こうとしているのか、それは彼女にも分かっていない。
「待て、待つんだ、アルフェ」
フロイドは咄嗟にアルフェの左肩を掴んで引き留めた。頭に血が上っていたアルフェは、フロイドの手を乱暴に振り払おうとして、どうにか思いとどまった。
「――――っ!!」
非常に悔しい、軽率な行動をして失敗したという思い。思いもかけない人の顔を見た興奮。そういったものがごちゃ混ぜになって、アルフェは自分の中の苛立ちを、どこにぶつけたら良いのか分からない顔をしている。
アルフェが右の拳を振り上げたのは、彼女自身の顔にそれを振り下ろすためだったのだろうか。その拳を、彼女の肩に載せていない方の手で、フロイドは止めた。
「落ち着くんだ!」
「私、私は――――!」
「落ち着いて、息を吸え。――そうだ。落ち着いて、まずは事情を話すんだ」
フロイドに言われた通りに深呼吸すると、やがてアルフェは、いくらか冷静さを取り戻した。
「すみません……」
「謝る必要は無い。何がどうしたんだ……。いや、どうしたんです」
「……あの治癒院で、あなたに応対した女性は、わた、私の……私の知っている、人でした」
「何……? なるほど、それで?」
アルフェはステラについて話すと共に、フロイドに、自分の頭に思い浮かんだ懸念を伝えた。やはり、素性の怪しい女を、治癒院などという場所に運び込んだのは、判断を間違ったのではないか。もしかしたら、女の口を塞ぐか取り戻すために、逃がした男やその仲間が、治癒院を襲撃することもあり得るのではないかと。
「……確かにそうだ。俺も、舞い上がっていたな。事前に気付くことができなかった。申し訳ない」
「いいえ、そうしろと言ったのは私ですから」
「だが――」
「いえ――」
そんな風に、しばらく奇妙な謝罪の応酬が続いたが、やがてアルフェが自嘲した。
「……慣れない事をするものでは、ありませんね」
「確かに。……だが、慣れないからこそ……、何と言ったらいいか、そう、試行錯誤が大切だ。鍛錬と言い換えてもいい」
「…………」
「剣や、体術と同じように、すぐには上手くならない」
「……はい」
フロイドの下手なフォローが功を奏したのか、アルフェは心を落ち着けて、これからどうするかを話し合う事にした。
とりあえず、この場所に留まるのがまずい事だけは確かだ。表通りに出て、彼らは人込みに紛れた。
「フロイド、あなたはいったん戻って、ゲートルードに伝えてください。急ですが、あの女の裏について探って欲しいと。……あとは、ステラさんについても」
「貴女は?」
「治癒院を見張ります。怪しい者が近づかないように」
昨晩から一睡もせずに夜が明けた訳だが、アルフェはその事を考えていないようだ。
「……了解しました。ゲートルードに伝えたら、すぐに交代しに向かいます」
しかし、フロイドはアルフェを無理に止めようとはせず、そう言った。
フロイドと別れたアルフェは、再度治癒院に向かった。まだ動揺は残っているが、それでもフロイドと話した事で、アルフェは頭の中を、かなり整理することができた。もうその場の激情に突き動かされて、軽率な行動をしたりはしない。その反省を胸に、アルフェは治癒院の入り口が見える物陰で、その様子をうかがう事にした。
アルフェが見張っている間、大聖堂の治癒院には、それなりに多くの「客」が訪れた。客の大半は当然患者だが、彼らに共通しているのは、ある程度身なりが良いという事だ。教会は治癒の奇跡を、誰に分け隔てなく与えると謳っているが、対価としての寄進料を払えるのは、それなりに暮らしに余裕がある者でないと駄目なのだ。
さらに裕福な貴族や商人は、優秀な市井の治癒術士に往診させていたり、専属の術士を抱えていたりする。だがどちらの場合も、一定以下の平民の事は、視野に入っていないという部分は共通している。
ステラはこういう教会の性質が嫌で、家出までして治癒術を施す旅に出たのだが、当然、アルフェはそんな事を知らない。
「代わります」
フロイドがやって来てそう言ったのは、その日の昼前くらいの事だった。
「一度戻って、仮眠した方がいい」
「あなたは……」
「そう言われると思って、もう寝てきた。三時間ほど」
アルフェは迷ったが、最終的に、ここで強情を張るべきではないとは理解したようだ。
「分かりました。お願いします」
一度アルフェは隠れ家に戻って、数時間の仮眠をとった。
ゲートルードは出かけていた。書置きから、アルフェに命じられた事を調べに行ったのだと分かった。アルフェのために、不格好な芋料理がテーブルに置かれていたのは、フロイドとゲートルードの、どちらが用意したものなのだろうか。
仮眠から目覚めると、アルフェは素早く準備を整え、三度治癒院に向かった。
「特に動きは無いようです」
フロイドの言った通り、治癒院の周りに怪しい気配は無い。だが、これだけ大きな施設だ。裏口も複数あって、二人で見張るには限界がある。何か方法を考えなければならないと、アルフェが逡巡している間に、一日が過ぎた。
結局、その日には怪しい者は来なかった。しかし、そういう者にとっては、夜の方が本番だろう。フロイドと交代しながらではあるが、アルフェは夜通し、治癒院の見張りを続けた。
動きがあったのは、アルフェが仮眠を取り、フロイドだけが見張りをしていた翌日の午前中だ。
「黒髪の……、女?」
フロイドの報告で、アルフェはその時に何があったのかを知った。
「間違いない。あの死霊術士だ」
フロイドが一人で見張りをしていた時、治癒院の正門から、怪しい男が中に入っていくのが見えた。それは普通の平民の姿をした若い男だったが、フロイドにはその男の顔に見覚えがあった。女を襲っていた三人の内、逃げた最後の一人。それが、その男だった。
すぐさま、フロイドはその男を追おうとしたが、男のあとに続いてきた人間の姿を見て、フロイドは仰天した。それは、エアハルトで彼も目にした、黒髪の死霊術士の姿だったのだ。
あの死霊術士が、どうしてこんな場所に。その詮索を後回しにして、フロイドは二人の後を追った。
治癒院に入った男は案内も請わず、奥の病室が並ぶ廊下へと、人目を避けて侵入した。その後に黒髪の死霊術士が続き、さらにその後ろからフロイドが続く。それは奇妙な光景だった。
仮に男か死霊術士が、この治癒院内で何かの狼藉に及んだ場合はどうするか。それをフロイドは決めかねていた。何しろここは、大聖堂のすぐ横なのだ。白刃を振り回して暴れれば、どういう事になるか分からない。
しかし主人の命令である。大声を出すなりして他の人間の注目を引き、ステラという治癒士の娘に危害が及ぶのだけは避けようと考えた。
男はある病室に入り、ちょうどその直後に、あのステラという娘がやってきた。
――まずい……!
病室の中には、フロイドがステラに預けた例の怪我人が居るに違いない。そんな場所で鉢合わせた時、男はステラに何をするだろうか。しかし、フロイドの更に手前で様子をうかがっていた死霊術士が、彼が動くよりも先に動いた。
死霊術士は、ステラたちのいる病室に入った。
フロイドは迷った挙句、彼らの隣の病室に踏み込んだ。老人が一人入院していたが、ぐっすりと眠っていたので騒がれずに済んだという。そして、フロイドはそこで聞き耳を立てた。
ステラたちのいる病室では、何事かのやり取りが行われ、男だけが出て行った。
「男だけ? ……メルヴィナという死霊術士は?」
アルフェは死霊術士の名前も知っている。彼女はフロイドにそう尋ねた。
フロイドはその質問に答えるにあたり、少しアルフェの顔色を窺った。
「その女とステラという娘は、前からの知り合いのようだった」
「………………は?」
フロイドが意を決して言うと、アルフェは、とても凄みのある声で聞き返した。
しかし、間違いない。ステラとメルヴィナは以前からの知り合いのようで、男が去った病室では、彼女たちが普通に話をしていた。ステラは、危機を救ってくれたメルヴィナに感謝していたという。
「…………」
フロイドがあらましを説明し終わっても、アルフェは特に何も言わない。だが、彼女のまとっている気配は異常だった。
数分経って、ようやくアルフェは口を開いた。
「…………それで、あの女は、どこに?」
「……しばらくして出て行きました。男の事は自分に任せろと、ステラという娘に言っていた」
フロイドは、自分が言葉を発するたび、アルフェの中で何かの感情が逆巻くのを感じていた。
しかし、だからと言って答えない訳にもいかない。
「多分また、戻ってくると思う」
フロイドがそう言った後は、アルフェは物陰にしゃがみ込み、治癒院の入り口に顔を向けて、微動だにしなくなった。
二時間もすると、治癒院の中からステラが顔を出した。彼女は治癒院の扉の前で、誰かを待つような仕草をしている。誰を待っているのか、ステラとメルヴィナの会話を聞いていたフロイドには予想が付いたが、アルフェには分からなかったのかもしれない。彼女のまとった気配が、ステラの顔を見て、見るからに和らいだ感じがした。
しかし、それも数分だけだ。
ステラが顔を上げた。彼女が待っていたのは、他でもないメルヴィナだ。ステラは安心したように顔をほころばせ、自分から歩いてメルヴィナに近寄り、彼女を迎えた。
その光景を見てうずくまっているアルフェは、己の両腕を抱え込むようにしている。アルフェの爪は、彼女自身の服の袖、いや、恐らくは腕の皮膚にまで、深く食い込んでいた。
ステラがメルヴィナに話しかけている。あの表情は、敵に向ける表情ではない。親しい間柄の――、そう、友人に対して向けるような。
「…………なんで」
そして、アルフェの血を吐くような呟きが、フロイドの耳に入った。
なぜ。
どうして私ではなく、あなたが。
私ではなくあなたが、彼女の隣にいるのか。
フロイドには、アルフェの声がそんな風に読み取れた。




