261.優しいあなたに
裏通りで死にかけていた女を拾って、アルフェたちはそれを、隠れ家に運び入れた。だが、女が命を落とさずに済むかどうかは、完全に女の運にかかっていると見えた。全身が斬り傷、打ち傷だらけで、血もかなり失っていたからだ。特に腹の深い刺し傷は、恐らく内臓にまで達している。
「私の治癒術では、応急処置程度しかできませんが……」
そう言いながらも、ゲートルードは彼に可能な限りの措置を施した。小さな傷は、それでほぼ塞がったが、腹の傷だけは、彼ではどうにもならなかった。
「やはり、厳しいですか」
ぽつりとつぶやいたアルフェは、風呂上がりで、身体から湯気を上げている。こんな時に風呂に入るのはどうかと、アルフェ自身も考えたのだが、下水掃除によって汚物が付着した状態で、怪我人に近付くのは不味かろう。
「申し訳ありません」
「いいえ、良くやってくれました。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げたゲートルードに、アルフェはねぎらいの言葉をかけた。専門外の魔術を多用して、ゲートルードの顔も少し青くなっている。アルフェは彼に、休むように言った。
ゲートルードが引き下がって、アルフェは居間に独りになった。怪我人は余っていた寝室を使っている。フロイドは身体を洗うために、アルフェと入れ違いで風呂に入っている。アルフェはソファに腰掛けたまま、軽く目を閉じた。
助けられるなら助けてみようと思ったが、そう上手くは行かないようだ。コンラッドがアルフェに期待したような、優しい人間になるのは、やはり難しい。
「どうです、あの女の容態は」
しばらくして、フロイドが居間に現れた。
アルフェは無言で首を横に振り、頭の重みをソファの背もたれに預けた。
「そう、か」
フロイドは、アルフェの対面にあるソファには座らず、離れたところにある椅子に腰掛けて、つぶやいた。
「斬るのはずいぶん斬ってきたが……、助けるのは、難しいな」
「……ふふ」
「どうしました」
「私も、同じような事を考えていました」
それで二人は無言になり、やがてアルフェが立ち上がった。
「寝る前に、あの女性の様子を見てきます」
どの道、あの女を拾ってきたのは気まぐれのようなものだった。死んでしまうなら死んでしまうで、それはあの女の運命というものだ。アルフェは女が寝かされている寝室に移動すると、扉を開いた。
呼吸はまだ止まっていないが、仰向けの女の額には玉のような汗が浮かんでいる。元々色黒のようだが、その顔は、生気を失って土気色になっている。肌の張りからして、年齢は二十代中盤から後半くらいだろうか。あのような場面に巻き込まれていたという事は、やはりこの女は裏の社会に属する者に違いあるまい。
そういう人間を助けてみようと思ったこと自体、間違いだったかもしれない。
死んだコンラッドだって、アルフェに対し、誰にでも無闇に優しくなれと言った訳ではないと思う。
ただアルフェは、女が致命傷を負いながらも、その身体を引きずって生き延びようと足掻いていたところに、自分と同じようなものを感じた。
だからつい、手が伸びたのだ。
「……?」
ふと、アルフェは顔を上げた。女の呼吸音に混じって、何かが聞こえた。
ベッドの側に近寄ると、女は苦悶の表情を浮かべながら、時たま呻いている。
死にたくない。
女の口が、そう動いたように見えた。
「…………ふう」
アルフェがうんざりした顔でため息をついたのは、女の生き汚さに対してか、それとも、それで心を動かされてしまう、自分の甘さに対してか。
アルフェは居間に戻ると、本棚の前でぼんやりと腕を組んでいたフロイドに声をかけた。
「出かける支度をして下さい」
「今から?」
この夜更けに何処へ行くのかと、フロイドはアルフェに問いかけた。
アルフェは答えた。
「治癒院です」
◇
「無理だよ、これは」
アルフェたちが女を運び込んだ治癒院の治癒士は、女を少し診てから、開口一番そう言った。アルフェとフロイドが顔を見合わせると、治癒士は気まずい表情で付け加えた。
「ええと、君たちは、この人の家族?」
「いいえ、違います。この女性が路上で倒れていたので、運んできただけです」
アルフェは少々嘘をついたが、それほど事実から離れた事を言った訳でもない。アルフェたちが女の家族ではないと聞いて、治癒士はほっとしたようだ。家族に告げるにしては、余りに冷たい言い方をしてしまったと、それなりに気に病んでいたようだ。
「この刺された場所は、人間の急所なんだ。とても大事な臓器が傷付けられてる」
そんな事くらいは一々説明されなくても分かると、アルフェとフロイドは当然のような顔をしている。この二人にとって、人体の急所は生活の基礎知識だ。肉屋が豚の内臓の位置を把握しているのと同じくらいには、彼らは人間の臓器の位置について、経験的に詳しい。
「通り魔に襲われたのかな……、可哀想に。――それにしても」
二人の表情に気付かないまま、治癒士は言葉を続けた。
「ここを刺されちゃったのは、この人の運が悪かったよ」
「で?」
運ではなくて、アルフェたちと同じように、人体の急所を熟知した者が刺したからこうなった。しかし、一々そんな突っ込みを入れても仕方が無い。フロイドが話の先を促した。
刺された場所が不味かったというのは分かった。その上で、治癒は無理だとのたまう理由をはっきりと言えと。
言い辛そうに、しかし治癒士は明快な理由を答えた。
「……これを治療するには、少なくとも高位魔術が必要だ。でも僕には、そんなものは使えない」
それは確かにどうしようも無い話だった。この治癒院は、彼が経営する民間の施設で、怪我や病気の治療に当たっているのも彼だけだ。市井の人々にとっては、普段の健康を維持するために、こうした治癒院も非常に重要な施設だったが、こういう場所で働く治癒士の腕は、教会付きの治癒士の腕よりも二歩も三歩も劣る。
むしろこうした場所では、治療は魔術よりも、薬草などが頼りなのだ。実際に、彼が使える治癒術は初歩の初歩で、ゲートルードの治癒術よりも基礎的なものだった。
「ごめんよ、せっかく運んできてくれたのに、力になれなくて」
治せないものを治せると言い繕っても仕方無いという事だろう。治癒士はアルフェたちに詫びると、うなだれてしまった。
「でも、今から間に合うか分からないけれど、大聖堂に運べば……」
顔を上げて提案しようとした治癒士は、途中で言葉を詰まらせた。大聖堂付きの治癒院には、確かに優れた治癒術士が集まっている。しかし、彼らの治療を受ける事ができるのは、それなりに身分のある者だけだ。増して高位魔術の利用など、対価としての寄進を、いくら請求されるか分からない。
通りすがりに倒れていた人間のため、その金を支払うお人好しは居ないだろう。
「取りあえず、我々はこれで引き取らせて頂きます。夜分に失礼しました」
ここにこれ以上いても、時間の無駄だと判断したアルフェは、無力感に顔を曇らせている治癒士に対し、丁寧に辞儀をして、治癒院を出た。もちろん、彼らが運んできた女も一緒に。
表通りに出たアルフェに、フロイドは、どこに行くのかとは尋ねなかった。彼女の足は、明確に大聖堂の方に向いていたからだ。教会関連の施設は、アルフェたちが顔を出しにくい場所の一つだ。こんな事のために、そんな場所に行くのか。フロイドに問われる前に、アルフェは言い訳じみた事を言った。
「この人を扉の前に置いて、お金も添えておけば、大事にはなりませんよ」
ちょっとの気まぐれで、これだけの手間を取られる。かと言って、今さらどこかに放置するのも気が引ける。
優しくなるのは、本当に難しい。殺したり、見捨てて終わりにするのはとても簡単なのに。そんなアルフェのつぶやきを、フロイドは彼女の背中越しに聞いた。
早歩きから、やがて駆け足になったアルフェの後ろに、女を背負ったフロイドも、遅れないように駆け足でついていった。
夜明けが近付いてきた。帝都では地平線は見えないが、ほんのりと、低い空が明るくなってきた気がする。この時間には、流石に表を歩いている人間は居ない。太陽が顔を出す前に、アルフェたちは大聖堂のある区画へと入った。
大聖堂付きの治癒院は、さっき訪れた町中の治癒院とは、比べものにならない程に大規模で立派な施設だ。
そこに到着した時には、フロイドと交代したアルフェが女を背負っていた。
「フロイド、お願いします」
「分かりました」
自分は大聖堂にこれ以上近寄りたくないと、アルフェは女をフロイドに返した。フロイドは治癒院の扉の前に立ち、その扉を思い切り叩いた。
「誰か! 頼む!」
フロイドが治癒院の人間を呼び出す様子を、アルフェは物陰からうかがっている。
あの女の所属が暗殺者ギルドだったり、そういったものとは無関係な犯罪者だったりした場合、例え治療を受けられたとしても、その後に役人の手で裁かれる事になるのだろうか。そしたら結局、あの女は縛り首になったりするのだろうか。
待っている間、アルフェはそんな事も想像したが、流石にその先は関知していられない。ここで大聖堂付きの治癒士の手に引き渡して、それで終わりだろうと思っていた。
「はい、どうしましたか?」
「助かった。道でこの女性が、血を流して倒れていて……。通り魔か何かに襲われたらしい」
治癒院の扉が開き、中から光が漏れた。アルフェは少しほっとした。フロイドは、出てきた教会の人間に、女の怪我について説明している。
「通り魔……? 分かりました。とにかく中に。すぐ処置します」
アルフェの位置からは、開いた門扉の陰になっていて見えないが、フロイドの応対をしているのは女性だ。その女性は、教会の人間にしては珍しく、もったい付けた事を何も言わず、まずは怪我人を受け入れる姿勢を示した。
中に入れと言われて、フロイドは少し躊躇したようだ。彼はさりげなくアルフェに目配せしたが、何故かアルフェは上の空だ。だがしかし、あまり頑なに固辞して、自分自身がその通り魔だと疑われてもならないと、フロイドはそのまま、女を背負って治癒院の中に入っていった。
そして扉が閉じてから、三十分も経たずにフロイドが出てきた。
「本当に助かった。どうなる事かと思った」
「いえ、こちらこそありがとうございます。ここまで背負って来られたんでしょう? 普通はなかなか、できる事じゃないですよ」
「そんな風に言われるのはこそばゆいが……、そう言ってくれると、あの娘も喜ぶ」
「あの娘?」
「あ、いや。それにしても、貴女が自ら高位魔術を使うとは。そんな若さなのに」
フロイドの言葉には、娘に対する称賛と敬意が込められていた。フロイドを応対したその娘自身も、どうやら治癒術の遣い手だったらしい。
治癒士の娘は、はにかんだ笑いを漏らした。
「私、これくらいしか取り柄が無いんです」
「それこそ謙遜だ。――じゃあ、俺はこれで失礼します。衛兵には……慌てていて通報しなかったが。あの女性が起きたら、事情を聞いて欲しい」
「分かりました。――あ、あなたのお名前は?」
それ以上話が面倒な方向に進む前に、フロイドは治癒士の娘に背を向けて走り出していた。
そして、物陰に居るアルフェのところまで来ると、慌てた声で言った。
「さっさとずらかろう。早くしないと――」
そこでフロイドは首を傾げた。
はじめは物陰から顔を出して、治癒院の様子をうかがっていたはずのアルフェは、どうしてか完全に身体を隠し、民家の壁に背中で貼り付くような格好をしている。
「……どうしました?」
眉をひそめてフロイドが尋ねると、アルフェはごくりと喉を鳴らし、唾を呑み込んだ。
「なんでも、ないです」
「そんな顔で、何でも無いって事は……。ん? まずい、あの娘がこっちに――」
「逃げましょうフロイド! 早く! 急ぎなさい!」
「おい、ちょっと!」
そして、アルフェはフロイドの袖を掴むと、脱兎のごとく駆け出した。その顔面は蒼白になり、目尻には涙さえ浮かんでいる。
アルフェは何を見て、こんな風になってしまったのだろうか。
「すいません、せめてお名前だけでも……!」
アルフェたちが居なくなった後に、フロイドの応対をしていた治癒士の娘が、アルフェが隠れていた物陰まで走ってきた。
「もう居ない……。あの人、足速過ぎだよ……」
残念そうにつぶやいた亜麻色の髪の娘は、それからこんな事を言った。
「まるで、アルフェちゃんみたい」
でもそのお陰で、一人の命が救われたのだ。それは素直に感謝しなければ。怪我人の恩人を探す事を諦めた娘は、笑顔になると、治癒院の方に引き返していった。




