258.そして全てが、皇帝の地に集い
「――くしゅ」
大きな窓から日の差し込む明るい居間に、可愛らしいくしゃみの音がした。くしゃみの主であるアルフェは、眉をひそめて首を傾げると、テーブルの対面に座っている男に尋ねた。
「少し、寒くないですか?」
そう聞かれ、椅子に座って芋の皮むきをしていたフロイドは、顔を上げ、アルフェの方を向いた。
「そう……かな? もう夏だ。むしろ、暑いくらいだと思うんだが……」
「ですよね」
矛盾したことを言いながら、アルフェは己の額に手のひらを当てる。
「ちょっとだけ、寒気がしたのですが」
「風邪ですか?」
「いえ」
平熱だ。身体に特に異常は無い。病気ではなさそうだと、アルフェは額から手を離し、首を振って否定した。
フロイドがさっき言った通り、世間はもうそろそろ夏だ。現に今も、アルフェは自身の長い髪を、うなじが見えるように後ろで結い上げていた。フロイドのほうも、上着のシャツの袖を二の腕までまくっている。寒さがどうのという季節では、既にない。
「気のせいみたいですね」
そう言うと、アルフェは野営道具の手入れに戻った。今はこの隠れ家に潜伏しているが、何時また旅をする事になるか分からない。床に広げた布の上で、テントやランタンの部品を念入りに磨き、油を差したりしている。これが終わったら、彼女は防具の手入れに移るつもりだ。
フロイドも芋の皮むきを再開した。今日の食事当番はこの男だ。この家では、食事当番は交代制である。潜伏中の身の上であるから、必然、手伝いの侍女を雇ったりは出来ない。かと言って外食ばかりというのも贅沢だから、自然こうなる。フロイドは料理が得意ではないが、だからと言って食えない物を作るという事もない。残る同居人であるゲートルードは、二階の書斎に書物を運び込み、大抵は何かの調べ物をしている。
ここは、アルフェがゲートルードに用意させた、帝都滞在中の隠れ家である。アルフェたちは数日前に帝都に到着したばかりで、荷物の整理も完全には終わっていない。元々所持していた物に加えて、それなりに長期の滞在になるかもしれないという事で、新しく買い足した品も多かった。
百万の人口を誇る帝都は、その都市領域も広大である。市内は城壁や河川に区切られて、幾つもの地域に分かれている。この隠れ家があるのは、ミュリセント大聖堂などの宗教施設が固まった区画から離れた場所で、宮殿と元老院議会堂のある中央区画を挟んで、ちょうど対角線上に位置していた。界隈は比較的裕福な商家の別宅が並ぶ閑静な地域で、人通りは少ない。と言っても、ちょっと歩けば大きな通りに出られるので、移動にも適していた。
この数日間でアルフェがやった事は、まずは家の掃除と片付けだった。ここはかなり長い期間空き家だったらしく、天井には蜘蛛の巣が張っていて、床には埃が層になるくらい溜まっていた。ゲートルードがメリダ商会に頼んだのは家の調達までで、掃除は含まれていなかったようだ。埃をほうきで掃き出して、雑巾がけをしていると、かなり時間を取られてしまった。
この家は二階建てで、外からはこぢんまりして見えるが、寝室が複数ある他、書斎や客間、厨房に食堂、使用人用の部屋などもある。三人で住むには明らかに広い……が、この界隈では、これでも十分質素な方だった。
選帝会議に興味を持って、観光がてら帝都滞在をしている地方の商家のお嬢様とそのお供、という「設定」で、彼らはここに住み込んでいる。近所にはゲートルードが本物の執事のような顔をして、丁寧に挨拶して回った。周囲の別宅には、ほぼほぼ留守番の使用人しかいない上、そういう感じで帝都を訪れる余所者の数は、実際に増えているそうだから、特に怪しまれる事は無いだろう。
アルフェは現在、実際に己の足で歩いてみて、帝都の地理を把握する事に努めている。帝都はこれまで訪れてきた都市と比べても、桁違いに広い。そしてやたら人が多い。余りの人混みに、歩いていてくらくらする程だ。
事前に手に入れた地図と頭の中で照らし合わせたり、雑貨屋で観光案内を買い求めたりして、アルフェはほぼ、帝都における主要な施設の位置を覚えた。
だが、神聖教会の総本山であるミュリセント大聖堂や、神殿騎士団本部要塞ワルボルクなど、近付くには慎重にならなければならない施設もある。しかしアルフェがこの都市に来た目的が、友人の神殿騎士テオドールである以上、それらの場所にも、いずれ訪れる必要が出てくるはずだ。
アルフェは、皇帝候補になっているというテオドールの前に、自分の姿を見せるつもりは無い。ただ彼が、帝位を巡る暗闘に巻き込まれ、傷付くような結果になるのは嫌だった。この想いに、師の仇を討つという大目的との関連性は何も無い。そのためだけにこんな危険な場所まで来て、合理的で無いのも分かっている。
それでもアルフェは、友人の事が心配だから、ここまで来た。
それだけだ。
その感情を偽る気は、最早アルフェには無い。
「うん」
野営道具の手入れが終わると、アルフェは綺麗になった道具たちを前に、満足そうに頷いた。そしてすぐに取り出せる場所に仕舞うと、フロイドに声をかけた。
「まだ終わらないんですか?」
「――む。いや、これは、久しぶりだから……」
フロイドは、まだ芋の皮むきを続けていた。彼の果物ナイフの扱いは、剣を扱う時よりもずっとたどたどしい。この芋の皮が硬すぎるとか何とか、もごもごと言い訳をしているが、芋料理は近衛兵時代に散々作ったから、任せてくれと胸を叩いて見せたのは、この男だ。
フロイドが、自分で料理をするのは久しぶりだった。アルフェとこの男が二人で旅をしている間、野営時に食事を用意するのは、いつもアルフェだった。はじめの頃、荒んだ目をしていたアルフェは、お前の作る食い物など信用できないと、フロイドに告げた。
「私は手伝いませんからね」
つんとすました顔で、冷たい台詞を放って、アルフェは立ち上がった。しかしその声音には、以前よりもずっと、人間らしい感情の温もりが籠っていた。
「庭で鍛錬をしていますから、完成したら呼んで下さい」
建物の壁に囲まれた形になっている裏庭は、雑草が伸び放題になっていた。アルフェはそれを全部刈って、地面をならすと、手作りの木人を据え付けた。即席の稽古場だ。隣家の窓はその庭には面していないから、鍛錬の様子を見られる事もあるまい。
夕暮れまで鍛錬し、フロイドの芋料理にたっぷりとダメ出しをした後、アルフェは眠った。翌朝はアルフェ自身が食事を作ったが、それはフロイドが作ったものよりもずっと美味で、形も整っていた。
朝食を済ませると、アルフェは一人で町に繰り出した。
百年ぶりの皇帝選出を、帝都民はどう捉えているのか。歓迎しているのか、それとも嫌がっているのか、どうもよく分からないが、選帝会議の開催が近付いた帝都には、まるで祭りの前のような空気が漂っている。
帝国中から諸侯とその家臣団が集まり、物見高い観光客も集まった。さらにそれを商機と捉え、利にさとい商人たちまでやって来る。確かに、これは一種の祭りのようだ。その神輿として担ぎ上げられるのが、皇帝という事になるのだろうか。
今日のアルフェが向かった先は、帝都で最も高い城壁に区切られた内部、帝都の中央区画だ。ここには皇帝不在の宮殿があり、その代理として帝国の統治を行っている、元老院の議会堂がある。
議会堂の建物は非常に立派で、ベルダンの商会所の何十倍もありそうな大きさである。これは比較的最近――即ち、皇帝位が空位になったここ百年の間に建てられたもので、まだ新しい感じがする。議会堂前の広場の隅で、遠目から建物を観察した後、アルフェは宮殿に向かった。
宮殿は、議会堂の敷地と連続した場所にある。一般市民の立ち入りは制限されているので、アルフェは宮殿を取り巻く堀の外から、その様子を眺めた。
こちらの建物は、非常に旧い。歴史という点では、ミュリセント大聖堂、神殿騎士団本部要塞、そしてこの宮殿が、帝都で最も昔からある建造物だ。もちろん、三者ともはじめから現在のような形だったのではなく、今に至るまでには、何十度もの増改築を繰り返している。
この宮殿が、やがて開催される選帝会議の会場という事になる。
会議の中心となる八大諸侯は、八人中、既に六人までが帝都に集まったようだ。俗界諸侯であるトリール伯、ノイマルク伯、ハノーゼス伯、ゼスラント伯。そして聖界の代表である神聖教会総主教と神殿騎士団総長。残る、未だ帝都に姿を見せていない二人は、エアハルト伯と、ラトリア大公だ。
恐らく、ドニエステに征服されたままのラトリア大公の席は、空席のままで進められる。アルフェが問題だと思っているのは、エアハルト伯だ。
アルフェはエアハルト伯のユリアンと面識がある。あの男は、己が皇帝になり、帝国を一つにまとめるという壮大な野望を持っていた。そしてそのために、あの男は手段を選ばない。実の弟でも、障害となるものは容赦なく排除する。
ゲートルードの情報によると、今の帝都では、皇帝候補と見られていた人間が、何人か不審な死を遂げているそうだ。それはあの男の差し金だと、アルフェはにらんでいた。彼が何を目指そうと、アルフェには関係ない。だが、あの男がもしもアルフェの友人を害そうとするのなら、その時、あの男はアルフェの敵になる。
ユリアンは強い。ノイマルクで会った、ベレンやエドガー・トーレスよりもさらに。正面から戦っても、アルフェに勝ち目は無いだろう。しかし、以前に面会した時よりも、差は縮まっているはずだ。戦って打ち倒すのではなく、あの男の手から誰かを守る事くらいなら、今のアルフェなら可能かもしれない。
引き続き、ゲートルードには情報を集めさせよう。帝都の裏で起きている暗闘について調べ、その矛先がテオドールに向かわないか注視しよう。直接会う事は出来なくとも、テオドールの顔も、一度遠くから見ておきたい。そこには、マキアスも居るだろうか。
冒険者として、護衛ならば何度もやってきた。だが今回は、依頼も何も受けていない。これからアルフェが行う事は、盛大なただ働きだ。
でも構わない。稼いだ金は、使うためにあるのだから。
――お師匠様。
そしてきっと、鍛えた力も、自分のためだけでなく、誰かのために使うべきなのだから。それをこそ、死んだコンラッドはアルフェに望んでいたはずなのだから。
この時のアルフェの心に、今までのような迷いは無く、煮えたぎるような怒りや憎しみにも、彼女は蓋をしておく事ができていた。身を切るような悲しみも、今は忘れていた。
そう、まだこの時には。




