27.コネクション
「今日は、このくらいにしておくか」
「はぁっ、はぁっ、はっ、はいっ。――ありがとうございました」
アルフェとコンラッドが道場の中央で一礼し、その日の稽古が終わった。
アルフェの稽古着は汗みどろになり、喉は乾きで張り付きそうになっている。
彼女の技の上達と共に、コンラッドによる修行も激しさの度合いを増している。最近はかなり体力をつけたと思っているアルフェだが、それでも稽古のたびごとに、精根が尽き果てる思いがした。
「道場の床は、清めておけよ」
今にも倒れそうなアルフェとは対照的に、コンラッドはまるで苦にした様子もなく、涼し気な顔をしている。
――……さすが、お師匠様。
ふらつきながら床板を掃き清めるアルフェは、師に対する尊敬を新たにする。これほどになるまでに、彼はどれだけの量の研鑽を積んできたのだろう。自分が少々鍛錬した程度では及びもつかない。それは当然だ。
「終わりました」
片付けが済み、アルフェがそう言う。いつものコンラッドならば、ぞんざいにうなずいた後「ではまたな」とでも返すところだ。しかしなぜか、その日は違った。
「――茶でも、飲んでいくか」
数分後、アルフェとコンラッドは、道場の庭に面した部分に腰かけて、並んでお茶を飲んでいた。
日は傾いてきたが、暮れるにはまだ早い。リアナたちは家で待っているかもしれないが、もう少し位はいいだろう。アルフェは言った。
「……珍しいですね。お師匠様が、御馳走してくださるなんて」
どういう風の吹き回しですか、とは言わなかった。
「たまにはいいさ」
そして、今日は妙に優しいコンラッドが、ははと笑った。
――……いい天気。
流れるのどかな空気に誘われて、アルフェはふと、改めて思った。自分がコンラッドと初めて出会ってから、それなりに月日が流れた。もしあの日、ここに来なかったら、自分は今頃どうなっていただろうかと。
多分、どこかで死んでいたのだろう。生きることの喜びも何も、知ることができないまま。
だからアルフェは、ここでコンラッドに会えたことが、自分に与えられた、かけがえのない幸運だったと思うのだ。
今の生活は、楽ではないが充実している。
きっとこれが、誰かに与えられたものではなく、彼女が自分の力で手に入れた暮らしだからだ。今のアルフェには、城で生活していた時よりも、ずっと世界が澄みやかに見える。
アルフェは隣に人がいる温かみを感じながら、無言で茶を飲んだ。
「最初会った時に比べれば――」
もしかしたら、コンラッドもアルフェと似たようなことを考えていたのかもしれない。彼は意外な言葉を口にした。
「お前もだいぶ、強くなった」
その言葉を受けて、アルフェは、なぜか自分の胸から首の辺りが熱くなるのを感じた。夏の夕陽のせいだろうか。
「……どうされたんですか、今日は」
「思ったことを言ったまでだ。……師匠が良かったのだな」
「――ふふ、そうですね」
師匠が良かったからです。アルフェは皮肉ではなく、そう言った。
「仕事は、順調なのか?」
「はい、お陰様で」
「そりゃあ良かった」
「……そうだ、私今、お店を持とうと考えているのです」
「……店? 色々と考える娘だな、お前は。一体全体、何の店を――」
それからも、取り留めもない話題が続く。二人の間に、のんびりとした時間が流れる。
裏庭の壊れた塀の向こうには、夕陽に赤く染まった街並みが見える。師弟は並んでそれを見ていた。
「あの塀は、直さないのですか?」
話題は流れて、その話になった。
「ん?」
「お師匠様が壊した、あの塀です」
「ああ」
あの崩れた塀は、コンラッドが初めてアルフェに技を披露した際、加減を誤って破壊したものだ。それは二人が会ったその日から、ずっとそのままにしてある。
「直す金が、無いからな」
そうぼやきながら、コンラッドは茶をすする。
「あら、この間の魔獣を倒した報酬は?」
「大家に家賃を払ったら、無くなった」
コンラッドは、以前に森の中に出現した巨大な魔獣を倒した。特異な固有種だったとかで、報奨金として決して少なくない金額が払われたと記憶しているが、いったい彼は、どれほどの家賃を溜めていたというのだろうか。
「大家さん……。そういえば、この道場の大家さんのお名前は、何と仰るのですか?」
「ん? ああ、お前も見たことがあったな。ローラだ。ローラ・ハルコム。あれでこの町の商会長の娘なのだ。見えないだろう?」
「すごく綺麗な女の人ですよね……」
「……見た目はともかく、中身は鬼婆だぞ」
コンラッドが苦笑混じりにそう言った。
「そう言えば私、見たんですよ」
「何をだ」
「この前、お師匠様が、町でローラさんと歩いているところを」
「ぶふっ!」
茶を口に運んでいたコンラッドがむせて、今まで流れていたしんみりした雰囲気が吹き飛んだ。
「何の話をしとるんだお前――!」
「すごく……、親密そうでした」
今までと表情を全く変えずに、アルフェが言う。
「あれはお前……、借金のかたという奴だ。これでも俺は、お前にごくつぶしだと罵倒されてから、努力したのだ」
ごくつぶしだとは言っていない。
「地道に金を稼いで、溜まっていた家賃も返済した。それでも、まだちょ~っと借金が残っていたのだがな、あの娘が、残りの借金を減らしてやるから、買い物に付き合えと――」
「……なるほど、そういうことでしたか」
借金の対価としての労働というわけか。しかしそれにしては大家――ローラのやけに嬉しそうな表情が、アルフェには引っかかったが。
「なんで俺が、一々こんな事を弟子に話さにゃならんのだ」
「まあ、いいではありませんか」
「おかしい……、どうも最近、俺の師匠としての威厳が……」
コンラッドはしきりに首をひねっている。
しかし、とアルフェは思った。道場の家主だというから、きっと裕福な人なのだろうだとは想像していたが、商会長のご令嬢だったのか。それならば納得である。
――……あら? 商会長の?
商会長――。その言葉を聞いて、アルフェの頭に閃いたものがある。
「お師匠様」
「何だ、馬鹿弟子よ」
「ローラさんのこと、もう少し詳しくお聞かせください」
◇
「で? どうして俺たちが駆り出されるんだ?」
「お暇なのでしょう?」
「別に暇じゃないって。俺たちにも、ちゃんと騎士団の任務が――」
マキアスが愚痴をこぼしている。それを放置してアルフェは言った。
「ローラさんは、再びお師匠様と買い物に出る約束をしたそうです。その約束の日が、まさに今日です」
「なるほど……、その現場を押さえて、商会との交渉の材料にしようというわけだね?」
「テオドール……。なんでノってるんだ、お前は」
市場近くの狭い路地裏で三人は顔を寄せ合い、ひそひそと話をしている。
アルフェはその日、お茶を飲みに訪ねてきた暇な騎士二人を動員し、作戦の説明をしていた。その作戦とは、概ねテオドールが述べた通りである。
「お師匠様のような人と付き合いがあることが世間に知られれば、ローラさんは困るに違いありません。特に、お父上である商会長には絶対に知られたくないでしょう」
「お前はどうして、そんなに自分の師匠に辛辣なんだよ……」
マキアスが片手で頭を押さえる。テオドールは確認するように言った。
「アルフェさんの師匠とは、この間、魔獣を倒して私たちを救ってくれた人物だね? 一度、きちんとお礼を言わなければと思っていたんだ」
「――ああ、そうだったな。あの、変なマントを羽織ってた変態か。一応は、俺にとっても命の恩人ってことになるんだな」
「変態とは失礼でしょう。人のお師匠様を、悪く言わないでください」
「上げたいのか下げたいのか、どっちなんだよ……」
ともかく、と言ってアルフェは続ける。
「お師匠様とローラさんは、あそこのお店に現れるはずです。ここで見張りましょう」
アルフェは既に、コンラッドからローラと行くはずの店の名前を聞き出していた。さらにその名を冒険者組合で調べたところ、その店はベルダンの市場でも知られた、女性服を扱う専門店だという。
待ち合わせ場所は店の近く。ここからでも見える広場の噴水だ。
「お前、なんだかんだ野次馬したいだけなんじゃないのか?」
「静かにしてください」
それから待つことしばらく、ローラが待ち合わせ場所に現れた。
商会長の娘という身分を考えると、馬車で移動するのが普通だろうが、彼女は徒歩だった。待ち合わせの時間にはまだかなり早い。落ち着かなそうに、ローラは噴水の前でそわそわしている。
「……なぜ、女性が先に現れるんだ? こういうときは、何があっても男が先に来るべきだろうに」
その様子を見て、テオドールが理解しかねるとつぶやいた。彼は珍しく怖い顔で憤慨している。
「徹夜をしてでも、紳士は淑女を待たせるべきではないっ……!」
「テ、テオドールさん、どうしたのですか」
「気にすんな。こいつの癖だ」
マキアスは慣れているようだ。
そしてさらに待つこと数十分。ようやくコンラッドが現れた。彼が現れたのを見ると、ローラは一瞬ぱっと顔を明るくしてから、すまし顔になってコンラッドを迎えた。コンラッドの方は、いつものごとくの仏頂面だ。
「やあ、待たせたかな。――いえ、全然、私も今来たところなの」
「何言ってるんです」
自分の頭の上で下手な声真似をしているマキアスに、アルフェが突っ込む。
「それっぽいだろ? そんな感じじゃないか」
「そうですか……?」
コンラッドはローラに先導される形で、渋々と言った表情で歩いて行く。
――ふぅ、それにしても、普通の服を着てきてくださったのですね……。
コンラッドの格好を見たアルフェは、心の中で安堵していた。
先日のコンラッドは、道場で使っている稽古着を着て、今日の買い物に臨むと言い張っていたのだ。しかし、今日彼が着ているものは、見るべきところは無いまでも、どうにか普通の服装と言えた。
普通の服さえ着ていれば、上背もあり、筋肉でがっしりしているコンラッドだ。少なくとも、みっともないということはない。
「しかしあの髭はいただけないな」
だが、アルフェの考えを読んだように、テオドールがコンラッドの装いについて厳しい評価を下した。身なりと淑女の扱いに気を遣う彼にとって、コンラッドの散らかった無精ひげもまた、許すことのできないポイントなのだろう。
「私もさんざん、剃るように勧めたのですが……」
――俺は、自分が髭を剃った顔が嫌いなのだ。
そう強情に主張するコンラッドを、アルフェが説き伏せることはできなかった。
「せめて、整えなくてはダメだよ。あれでは山賊にしか見えない」
「そうですね……」
「お前ら、仲いいな」
しかし、当のローラは、コンラッドの格好のことはそれほど気にしていないようだ。彼女は遅れるコンラッドを振り返り、こぼれるような笑顔で何かを話しかけている。
「レディに腕を貸すくらいのことが、どうしてできないんだ。基本だろう」
「す、すみません。うちのお師匠様が……」
堅く拳を握り締めてテオドールが憤り。どうしてかアルフェが謝っている。そうこうしているうちに、コンラッドとローラは目的の店にたどり着いた。
「なんてことだ! 女性に店の扉を開かせるなんて!」
「――本当にすみません!」
信じられないといった表情で叫ぶテオドールと、顔を覆って謝るアルフェ。それを見て、マキアスが口を開いた。
「なあ、俺もう帰っていいか?」




