【幕間】抑えきれない、この胸の高鳴りを
ここ数日、日差しが強くなってきた。短い雨季も終わり、木々の葉は緑を濃くしている。天気の良い日は、短い袖の上着を着て歩いていても、それほど違和感がない。
夏が近いのだ。
選帝会議の開催が帝国全土に布告されてから、もう一月が経った。準備は着々と進んでいる。帝都の人口は以前よりも増え、通りは更にごった返していた。露天や居抜きの商店の呼び込みが非常に賑やかしく、それらが太陽の熱気を何割増しかにしている。
港には、内海を渡ってきた大型船が何隻も停泊している。北大陸の外交官を運んできたものや、東方諸国の王族を乗せてきたものなど、帝国では見られない形の船も多かった。レニ川の河口にも、川下りをしてきた高地領邦の船舶が、間隔を押し詰めて係留されている。
「あれは誰の船?」
ほっそりとした白い人差し指を持ち上げて、河口にいる船の一つを指したのは、十代の始め頃の、紺色の髪の少女だ。彼女に質問された、これも十代の後半と思われる侍女は、ぴんと背筋を伸ばして立ったまま、即座に答えた。
「ゼスラント伯の御座船です」
「……ふうん」
自分から聞いたくせに、少女はひどく素っ気のない返事をした。八大諸侯ゼスラント伯の乗用船は、四本マストの、とても川船とは思えない巨大船だったのだが、少女は鼻で笑うような仕草をした。まるで、思ったよりも小さいのねと言わんばかりだ。
彼女はもう小一時間ほども、こうやって港や河口の船を眺めている。彼女が居るのは、川沿い近くの、見晴らしの良い公園だ。この公園には、普段は近所の住民などが散歩に訪れたり、芝生にクロスを敷いて昼食をとったりしているのだが、今は少女と侍女の二人以外、誰も居ない。
彼らの周りを見渡すと、遠巻きに、騎士服を着た女たちが十数名、目立たないように公園への部外者の立ち入りを制限している。
ここに居る十三歳の少女の名前は、レティシア・トリール。暗殺されてしまった先代のトリール伯ヨハンナの縁戚で、つい先頃、周囲の力によって新たなトリール伯に就かされた娘だ。
彼女はトリール伯領の首都ムルフスブルクから、内海を船で移動してきた。ここからは見えないが、その船はゼスラント伯の御座船よりも、さらに大きく豪華だった。内海貿易で栄えるトリールと、山際のゼスラントの財力の差を思い浮かべれば、それも納得出来る。
叔母様の趣味の悪さがうかがえると、レティシアは、死んだ先代ヨハンナについて辛辣な事を言ったが、それでも伯就任直後に代わりとなる船を用意は出来ず、彼女はそれに乗って帝都までやって来た。
「……つまらないわ」
海から吹く風に髪を揺らし、レティシアはつぶやいた。十三歳の彼女は、まるで世の中の何もかもが気に入らないという表情をしている。隣に立っている侍女は、そんなレティシアに何も言わなかった。
ヨハンナが暗殺され、あれよあれよという間に伯となって、少女の手元には、八大諸侯としての権威と権力が突然に転がり込んできた。帝国でも有数の力を、何の労も無く手にしたというのに、どうして彼女はつまらないなどと言うのだろう。
「つまらない」
今度は怒ったように言って、レティシアは河口から目を離して振り向いた。
この公園で彼女を警備しているのは、近頃、神殿騎士団に新たに創設された部隊である。
選帝会議の開催により、各領邦と周辺諸国から多数の要人が訪れ、騎士団は警備に駆り出されている。要人の中には女性も多い。そう言った人々を警護するための、神殿騎士団内の女性騎士だけを集めた部隊だ。
これは神殿騎士団総長カール・リンデンブルムの肝いりで、急に設立が決まった。
――聖女様も女性だ。考えてみれば、こういう部隊が今まで無かった事の方がおかしい。
カールは部隊創設の理由についてそう語り、部隊の頂点に、現在唯一の女性パラディンである、あの娘を据えた。
「レティシア様、そろそろお屋敷にお戻りになられますか?」
桃灰色の髪から甘い香りを漂わせ、優しい笑顔でレティシアに話しかけたのは、神殿騎士団のパラディン、ロザリンデ・アイゼンシュタインだ。
「戻ります。ここに居ても何も無いから」
「はい、承知しました」
帝都に滞在している間、レティシアの護衛にあてがわれたのは、新設された女性騎士隊を預かる、帝国最強の乙女だ。
今のロザリンデは、愛用の純白のハルバードではなく、他の団員と同じように、腰のベルトに騎士剣を下げている。だが、例え使い慣れた武器で無かったとしても、ロザリンデが守る以上、レティシアに害をなせる者など何も居ない。今この時に竜が空から飛来しようと、それすらロザリンデは退けただろう。
「では、どうぞ馬車に」
清楚な、それでいて騎士らしい凜とした振る舞いで、ロザリンデはレティシアを専用の馬車に導く。
不機嫌な若いトリール伯とは対称的に、ロザリンデはこの上なく上機嫌だった。
どうして、とは語るまでも無い。
女だけの騎士隊という、望んだ部下たちに囲まれて、愛らしい少女という、望んだ相手を警備しているのだ。ロザリンデが気を悪くする理由など思い浮かばない。
ロザリンデは満足していた。総長には感謝していたし、何なら、他の男たちに向けても、普通に挨拶するくらいは浮かれていた。
「ロザリンデさんは、いつも楽しそうですね」
馬車に向かい合って乗ると、レティシアがロザリンデにそう言った。これは嫌味では無い。レティシアも、ロザリンデには悪い感情を抱いていないようだ。その言葉には、丁寧な響きが籠っていた。さりげなく、馬車の中に充満したレティシアの香りを吸い込むと、ロザリンデは満面の笑みで、はいと答えた。
「パラディンとしての務めを全うできて、私にそれ以上の喜びは有りませんから」
「……羨ましいです」
言葉通り、レティシアには、自分の役目に誇りを持ち、自分の望んだ仕事をするロザリンデが、酷く羨ましく思えていた。
いきなり新しい伯だなどと言われても、レティシアには何も分からない。別に伯になりたかった訳ではないし、なったから何をしようとも思い浮かばない。ただ大人たちの都合と血の順番で、こういう事になってしまっただけだ。
ロザリンデはレティシアよりも年上だが、それだって十や二十も離れている訳ではない。なのにロザリンデは、自分の実力、自分の意志で最年少のパラディンにまでなって、胸を張って生きている。それと比べると、レティシアはどうしても、己の事を情けなく感じるのだ。
「レティシアさん、大丈夫です」
「……え?」
慰めるようなロザリンデの声がして、レティシアはうつむいていた顔を上げた。その前に、ロザリンデの柔らかい微笑みがある。
「私も始めから、パラディンになりたかったのではありません。騎士という身分にも、本当はなりたくありませんでした」
「そうなんですか?」
「はい。それでも私が、神殿騎士になったのは、色々とあったからですが……」
そこで、ロザリンデは一瞬もの凄い顔をした。多分、幼い彼女にパラディンという己の夢を託して、彼女に悪魔のような仕打ちをした父親の事が、頭をよぎったためだろう。しかし、それは本当に一瞬だったので、レティシアはロザリンデの表情の変化に気付かなかった。
「でも今は、この仕事が本当に楽しいんです。だからきっと、レティシアさんも変われます」
「……そう、でしょうか」
「はい、もちろん」
ロザリンデがどういう意図で発言したにしろ、彼女の言葉は、悩む若き女伯の心に、確かに響いたようだった。レティシアは、はにかんだように笑った。
「それにレティシアさんには、あの侍女の方がいらっしゃるではありませんか」
「は、はい。ニーナは私が伯になる前から、ずっと世話をしてくれていたんです」
「ニーナさんと仰るんですか。とても美しい方ですね。……もちろん、レティシアさんも」
「え、あ、そんな」
目を細めるロザリンデの前で、レティシアは更に照れた。
「私なんかより、ロザリンデさんの方が、ずっと」
「ロザリィで良いですよ? 他に人が居ない時くらいは、そんなに畏まって呼ばないで下さい」
「じゃ、じゃあ私も。私の事も、レティって呼んで下さい。……ロザリィ」
「はい、レティさん」
二人の少女は、お互いに笑いあった。
これは果たして、年頃の娘たちの微笑ましいやり取りと見れば良いのか、それとも、擬態した獰猛な肉食獣が、今にも無知な草食動物を捕えそうになっている瞬間と見れば良いのか。
ともかくこうして、帝都には今、トリール伯レティシアを始め、新しいノイマルク伯オットーや、ゼスラント伯、ハノーゼス伯も既に集まっていた。八大諸侯で未だ帝都に到着していないのは、エアハルト伯ユリアンただ一人のみだ。
八大諸侯は、選帝会議の際に最も重要な役目を果たす。彼らに身の危険が有ってはならないと、帝国元老院は治安維持に細心の注意を払っている。
だが諸侯にとって、帝都は所詮、自らの領地とは違う。統治者にとって、最後に頼れるのは己のみ、もしくは己の忠実な家臣だけだ。諸侯はいずれも、何十、何百の供回りを連れてここに来ている。そこで共通しているのは、それらの中に、必ず各領邦で最も腕の立つ人間が、主君の側に侍っているという事だった。
例えばハノーゼス伯は、同伯領で最強の騎士と名高い、近衛兵長のエルウィン・ラングを。ゼスラント伯は、異界からあらゆるものを喚び出すと謳われる、召喚術士のラオラを。他にも、金で大陸に知られた傭兵や冒険者を雇い、この時のために自分たちの家臣とした諸侯もいる。
ここには先に述べたように、信用できるのは自前の家臣だけ、という意味と、単純に、己の領邦がどれほど強力な戦力を保持しているか、他の諸侯に誇示するため、という二つの意味合いが有った。
レティシアが伯となったトリールは、この前に、最高戦力だった幻術士ライムント・ディヒラーを喪った。レティシアはディヒラーの高弟を何人か連れてきているが、それなりの遣い手が複数人居るよりも、突出した腕前を誇る者が一人居る方が、この場には望ましい。
神殿騎士団がロザリンデをレティシアの護衛に付けているのは、そういった事情や、騎士団とトリールの親密さを伝える狙いが有ったのだろう。
選帝会議の開催までにはまだ時間があり、実際に開催されてからも、会議は長く続く。その間も、色々な所で、色々な形での諸侯のせめぎ合いが行われるはずだ。
そんな場所に放り込まれたレティシアの心を、ロザリンデは慰めてくれた。だからだろうか、レティシアは少し顔を赤らめて、彼女に愛称で呼ぶ事を許可したのだ。
「私もいつか、ロザリィみたいになりたいな」
そんな風に、砕けた口調で言った彼女は、年相応の少女に見えた。
「ふふ」
ロザリンデは、慈愛に満ちた微笑みを返した。
かように、彼女は本当に上機嫌だ。
そう言えば、どうして彼女が上機嫌なのか、一つ抜け落ちた説明があった。
ロザリンデにも、色々と憂うべき事はある。実家の父親は、近頃どうしてか、彼女に頻繁に家に戻ってくるよう使いを寄越すし、顔を合わす度、彼女に反吐が出るような愛の囁きをかけてくる同僚が、もう少しで任務から帰ってくる。
だがそれでも、ロザリンデの心は希望と喜びに満ちていた。
それは何故か、具体的に説明する事は難しい。
ただ、匂いがするのだ。
――すん。
ロザリンデは、レティシアが滞在する屋敷に向かう馬車の中で、鼻を少しうごめかした。
目の前の少女の匂いに混じって、やはり別の匂いがする。
帝都のどこに居ても、ロザリンデはその芳しい香りを感じていた。彼女がこれに気付いたのは、数日前だったろうか。
ロザリンデにも、この香りの正体は分からない。
だが彼女は、何故かこの匂いを嗅ぐ度に、今は離ればなれになっている、己の愛する人を思い出すのだ。あの人もきっと、この空の下のどこかで、ロザリンデを想ってくれているに違いないと。




