252.潜行
皇帝直轄領は大陸の北西、帝国でも最広域の結界の中に存在する。ここ以外にも直轄領扱いになっている土地はあるが、「皇帝直轄領」と言うと、基本的に帝都を中心に広がる領域の事を指していた。
皇帝不在の今、直轄領の統治は帝国元老院が代行している。元老院議員は事実上、有力貴族による世襲体制が維持されており、そのために、直轄領とは名ばかりの、各議員の荘園のようになっている地域も多いという。
アルフェは都市ポロンでも役人の不正を見たが、ゲートルードに言わせると、そんなものは序の口なのだそうだ。
都市ポロンの水門を抜けると、アルフェたちが乗った船は、その直轄領に入った。川沿いに広がっているのは、見渡す限りの田園地帯である。レニ川から用水が引かれ、穀物畑の間を縦横に走っていた。
役人の不正がまかり通っても、これだけ豊かな土地で、しかも魔物の心配が無いとなれば、他の中小の領邦よりは、民の暮らし向きはずっと楽なのかもしれない。
船がポロンの次に寄ったのは、ブラーチェという都市だった。
「ここはハーネマンを始めとする、著名な音楽家を輩出した事で有名な町です。町の中央にある音楽堂は帝国中期に建造されたもので、当時の皇帝が設計に携わっています。また、ガラス製造が盛んで――」
ゲートルードは相変わらず、新婚夫婦に向かって観光案内をしている。
その夫婦は、ゼスラントの首都に店を構えている商人なのだそうだ。商売の規模は小さいが、帝都への新婚旅行が夢だったので、奮発したのだという話だ。アルフェが船上で見る時、夫婦はいつも腕を組んで、ぴったりとくっついていた。
「貴女は船を下りないのか?」
ゲートルードと新婚夫婦を観察していたアルフェの側に、フロイドが寄ってきて尋ねた。船は、この町で一晩停泊する予定になっている。船室で休むのか、それとも一旦下船して、町の中に宿を取るのかという話だ。
アルフェは首を横に振った。
「船で寝ます。少し節約を意識しましょう。この前も、バルトムンクの宿では贅沢をしましたし」
「まだ金は残っているのでは?」
「帝都での活動資金に残しておく必要もあるでしょう? 忘れては駄目ですよ、フロイド。私たちは所詮、しがない冒険者なのです」
アルフェはフロイドに釘を刺した。最近、少々金遣いが荒すぎたと、彼女は内心で反省していたのだ。
「帝都は物価が高いとも聞きますし」
「ああ、それは確かに」
フロイドには帝都滞在の経験がある。帝都は何かにつけて物の値段が高く、田舎暮らしとは比較にならない程に金がかかる。
「どちらにしても、全く仕事をしないという訳にはいきません。何か目立たない方法で、お金を稼ぐ事も考えておかなければ」
「ゲートルードに言えば、資金くらいは融通してくれそうな気もしますが」
「そういうのは嫌です。施しは受けたくありません」
柔らかい声だが、アルフェはきっぱりと拒否した。
アルフェは金にがめついようで、自分の生活は自分の稼ぎで維持したいという、こだわりのようなものがある。フロイドは特に逆らわず、彼女の意志を尊重する事にした。
「了解しました」
「うん。換金出来るような魔物を狩るのが、一番手っ取り早いのですが……」
「それこそ目立つ。それに、直轄領では魔物も出ない」
「冒険者としては、生活し辛そうですね……」
実際、帝都は人口と比較すると、他の辺境近くの都市より冒険者の数が少ない。なんだかんだ言って、魔物が出現しない上に治安も良いので、冒険者を必要とする仕事は半減するのだ。
「食堂で皿洗いでもしてみますか?」
フロイドは笑いながら、純粋に冗談のつもりでそう言った。しかしアルフェは、実はそれにも興味があるのだと言わんばかりに頷き、フロイドの笑いを引きつらせた。
◇
「ん……?」
船室のベッドで、アルフェは目を覚ました。
まだ、夜は明けていない。眠りについてから、あまり時間も経っていないだろう。それでも彼女が目覚めたのは、何か嫌な気配を感じ取ったからだ。
――……魔物?
まさかと思ったが、これは確かに魔物の気配である。アルフェはベッドを下りると、五感を研ぎ澄ませた。
昨日の夜も、アルフェはこの気配を察知して、崖上に潜んでいた魔物を視線で追い払った。しかし、あれは結界の外だった。今はもう、アルフェたちは完全に結界の中にいるのだ。こんな場所に魔物が出る事などあり得ない。
――……一体どこに?
確かに気配がするのだが、同時に、妙にぼんやりとしている。この感覚は初めてだった。いずれにしても、船室の中からは位置が読み取れない。アルフェは寝間着のまま、甲板に上がった。
空気は暖かく、風は無い。夜とは言え、それ程深くない時刻だ。町にはまだ、灯りの付いた窓もある。川の水面にその光が映って、ゆらゆらと揺れている。
アルフェは空を見上げたが、上空に怪しい気配は無い。町の中も同様だ。
「…………」
という事は、残りは一つしか無い。アルフェは船縁に立って、水面を見下ろした。
「アルフェさん」
「……ゲートルード」
アルフェが目を皿のようにして川面を観察していると、ゲートルードが起きてきた。ゲートルードは、既に何らかの魔術を発動しているようだ。魔力の光が、彼の周囲をぼんやりと照らしている。
「魔物です」
「はい」
水中に何かが居る。交わした言葉は短かったが、二人は同じ事を考えていた。
ゲートルードは更に新しい魔術を展開した。彼が得意とする占星術は、魔物の位置を探知する事に長けている。
「まだ遠いですが……、上流に何かが居るようです」
「上流?」
そこには都市ポロンの水門がある。間違って魔物が結界内に侵入しようとしても、そこで魔物は止められるはずだ。
アルフェは上流に顔を向け、つぶやいた。
「どうして結界の中に?」
「……結界が神の力では無く、単に巨大な生命体の縄張りなのだとしたら、それは絶対とは言えない、という事ではないでしょうか。散発的ですが、結界内に魔物が侵入して暴れた事例は、歴史上何例もあります」
「……」
ゲートルードもまた、アルフェに見せられて結界の真実を知った。結界は人々が考えている程に絶対的なものではなく、揺らぎもすれば、七百年前のバルトムンクのように、消失する事もある。
何かの拍子に結界内に魔物が入り込んだ場面を、アルフェも旅の中で何度か目にした。
「上流にいるとしたら、このまま下ってくるでしょうか」
「予測が付きません。……私の占星術で姿形を探知できる範囲には、まだ入っていない事は確かですが」
それなのに、アルフェの肌をちくちくと刺すような、明らかな存在感を放っている。かなりの大物に違いない。
しかし、今すぐここで出来る事は無さそうだった。そう判断すると、アルフェの身体は戦闘態勢から切り替わった。
「寝ましょうか。明日、日が昇ってから議論しましょう」
「……念のため、探知の術は厳重にしておきます」
「それでお願いします。――ふぁ」
「――何かあったのか?」
アルフェは小さくあくびをしかけ、ちょうどそこでフロイドが起きてきた。
アルフェはあくびを止めると咳払いし、じとりとした視線を彼に向けた。
「修行が足りませんよ?」
そう言ってから、お休みなさいと改めて挨拶し、アルフェは船内に下りていった。
「……どういう意味だ?」
フロイドは、困惑した表情でゲートルードに顔を向けた。
◇
「客人の皆様に申し上げます。本船はこの町に、数日の間、停泊する事になりました」
翌朝、船長が全ての乗員を甲板に集め、急にそんな事を言い出した。
「そんなぁ、聞いている予定と違うじゃないか」
文句を言ったのは、新婚夫婦の夫の方だ。他には乗り合わせた商人も、彼に同調する声を出した。
船長は悪しからずと言い、それから事情を説明した。
「参事会から指示があったんです。この船だけじゃなく、全部の船が、許可が下りるまで港を出るなと」
そう言った船長の顔にも苛立ちが見える。参事会は、都市の行政を司る機関だ。それが命令した以上、船長は従うしかなかっただろう。しかし、昨日まで何事も無かったのに、朝になって急にそういう命令が下るのは不自然だ。
「何だそれ。何があったんだ?」
「詳しい事は、私もまだ聞かされておりません。とにかく、長くとも二、三日以内には解除されるという話ですから、ご辛抱ください」
「勝手な事を言ってくれるなぁ」
「でもあなた、折角だからこの町も見て回りましょうよ。私、音楽堂に行ってみたいわ」
「そうかい? 君がそう言うなら……」
アルフェたち三人は、船長と他の乗員がそんなやり取りしているのを、船尾の方から眺めていた。既にフロイドにも、アルフェとゲートルードが察知した魔物の話は伝えてある。
「もし、魔物がポロンの水門を抜けたのなら、ポロンから早馬があったのかもしれません」
ゲートルードの推測は正しそうだ。このタイミングでの都市による港の封鎖措置は、どう考えても、アルフェたちが察知した魔物と関係がある。
アルフェは、沈思してからつぶやいた。
「この町にも、冒険者組合はあるでしょうね」
「俺が見てきましょう。何か関連した依頼が出ているかもしれない」
「頼みます、フロイド。ゲートルードは……」
「私は、都市参事会の様子を」
「はい」
アルフェの意志を汲み取って、フロイドとゲートルードはそれぞれの行動を示した。
レニ川の水の流れは今日も穏やかだが、アルフェが感じている気配は、昨夜よりも強くなっている。船長に説得された乗客が、ぞろぞろと船を下り始めた。他の船も同様に、全ての乗員を下船させているようだ。
全員が下りると、アルフェは川面から目を切って、彼らの後に続いた。




