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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第五章 第八節
262/289

251.水門の町

「…………ん?」


 アルフェたちを乗せた船が、都市バルトムンクを出港してから、最初の夜を迎えた。客人は既に全員、船室で寝静まっている。しかし船は、帆をたたみ、流れに乗った非常に緩やかな速度ながらも、航行を続けていた。

 聞こえるのは、船体に当たる水の音だけ。星明りを反射して、波がわずかにゆらめくのが見える。そんな時、甲板で見張りをしていた船員が、左舷側にある崖の上に何かを見つけた。はじめそれは、奇妙な輝きの星のように見えたが、やがて、崖上に何かの生物が居て、その瞳が船を見下ろしているのだと分かった。

 見張りは舵を取っていた同僚にそれを告げると、船長室に入って、寝ていた船長を揺り起こした。船長の他にも、異変に気が付いた船員が一人二人と出て来て、甲板はにわかに騒がしくなった。


「船長、あれです」


 ベッドに入る前脱ぎ捨てていた船長服を肩に羽織り、船長は見張りの指し示した方向を見た。


「…………確かに、何か居るな」

「魔物でしょうか?」

「多分な」


 船が夜も碇を下ろさないのは、ここがまだ結界の外だからだ。大峡谷地帯の魔物は、いつでも狩りやすそうな獲物を探している。人間などはその良い標的だ。

 見張りが崖上に発見したのは、その魔物に違いない。鈍い星のような光が二つ、闇の向こうで船長たちを見ている。


「どうします? 客人たちにも知らせますか……?」

「……いや、待て」


 ここから崖上まで、彼らの会話が届くことは無いが、船乗りたちは自然と声量を落としている。船長はあごひげを撫で、素早く方針を考えた。

 船がこのままの速度で進めば、夜明け頃には結界の中に入れるはずだ。そうすれば、魔物が付いてくる事は出来ない。どちらにしても、向こうが襲ってこない以上は、こちらからも出来る事が無い。

 船長は口を開いた。


「放っておこう。あいつはこっちの様子を伺っているだけだ」

「そうですね……。しかし何でしょうか、あの魔物は」


 船に乗っていて、この峡谷で最も恐ろしい魔物は、空から飛来するワイバーンだ。それより一回り小さな腐肉漁りも、十分な脅威である。それ以外にも、多種多様な魔物が、この近辺には生息していた。


「さあな、どっちにしても……、ん?」


 船長たちが会話していると、崖上に見えていた魔物の影が、急に岩の後ろに隠れてしまった。動いたことで、かなり大きな魔物であった事も見えたが、どうしてあれは、突然そんな行動を取ったのだろう。


「逃げ……た?」


 見張りの船員も、魔物の突然の行動に首をひねっている。

 船長は崖上を注視したまましばらく待ったが、魔物が再び姿を現す気配は無い。少し違和感は有るものの、魔物が船を襲うことを諦めてくれたのならば、それに越したことは無かった。


「……逃げたようだが、また出るかもしれん。警戒は――」


 怠るなと言おうとした船長が、口を開けたまま静止した。

 見張りの船員が、船長の見ている方向を振り返ると、船員もまた、船長と同じように顔を引きつらせ、一歩後ずさった。


「お、お嬢様……」


 乗船している客人の一人、灰色の髪の令嬢が、彼らの後方に音も無く立っていた。

 令嬢は昼間来ていた服を脱いで、簡素な寝間着を身に着けている。彼女はその碧い瞳を、さっきまで魔物がいた方角に向けている。

 騒がしかったでしょうかと、息を呑んでから船長が尋ねると、令嬢は薄く微笑んだ。碧い瞳と言ったが、令嬢の目の奥には、異様な赤い光が揺らめいているようにも見えた。


「いえ、少し目が覚めてしまったもので」


 船長たちは彼女の事を、乗船した当初から、稀にも見ない程に美しい令嬢だと思っていた。孤独な気配の漂う水の上、星明かりの下で見る彼女の微笑みは、太陽の下で見るよりも、一層と美しい。思わず見惚れてしまうほどだ。

 しかしそれは同時に、形容しがたい感覚を彼らに味わわせた。

 

 さっきの魔物よりも、はるかに恐ろしいものが、そこに立っているような感覚。


「お休みなさい。良い夢を」


 薄笑いを大きくした令嬢がそう言うと、船乗りたちの背中に、謎の寒気が走った。



「お早うございます、二人とも」


 朝、船の狭い食堂に現れたアルフェは、朗らかに微笑んだ。

 昨日は何とか自力でエビを釣り上げたお陰で、彼女の機嫌は持ち直した。アルフェがそのエビをどうしたかというと、桶に入れて船体下部に押し込められたイコに見せびらかした後、当たり前のように焼いて食ってしまった。


「今日も釣りをするんですか?」

「いえ、もう満足しました。結局、素手で採った方が早いという事も分かりましたし」

「ん? まさか、あのエビは釣ったんじゃなくて――」

「二人はもう食事を済ませたのですね。今日の朝食は何ですか?」


 アルフェはフロイドの言葉を無視して、食卓に着いた。その際にさりげなくアルフェの椅子を引いたあたり、フロイドも、近衛騎士だったときに叩き込まれた礼法を思い出しつつあったのかもしれない。


「ただいまお持ちいたします」


 しかしそれならば、執事の振りをしているゲートルードの方が堂に入っていた。元々物腰の丁寧な老人である。音も立てずにアルフェの前に食器を並べる様は、まるで本職のようだった。

 アルフェも見た目だけは完璧な令嬢である。この三人が本当はどういう人間なのか、知らない者が見破ることは難しかっただろう。

 アルフェが食事を始めると、脇に立ったフロイドが、そう言えばと尋ねた。


「今日は遅い起床でしたが、何かありましたか?」

「ちょっと夜更かしをしたんです」


 意味ありげなアルフェの発言に、フロイドはふむと言いつつ首を傾げた。ゲートルードが無言でアルフェを見つめたのは、占星術を利用している彼の方が、魔物の探知という意味ではフロイドよりも優れた能力を持っていたからかもしれない。

 食卓に載ったのは今日も魚だった。魚介は以前に海沿いの港町でも口にしたが、この船で出されるのは、当然のように川魚だ。海の魚とは、また違った味わいが有る。アルフェはぺろりと朝食を平らげた。


「ご馳走様でした。ゲートルード、もう結界の中には入ったのでしょうか?」

「恐らく。間もなく、この船が寄港する最初の町が見えてくるはずです。それが目印です」

「そこからが、正式な皇帝直轄領という事ですね……」

「はい」


 船は魔物に襲われるという事も無く、大峡谷地帯を抜けつつあった。平野に出ると、そこからはもう結界の中だ。川はより幅広になり、川沿いの堤防の向こうには、田園地帯が広がっているだろう。

 そして峡谷地帯の出口に、皇帝直轄領の門とでも言うべき、ポロンという都市があった。この船がバルトムンクの次に寄港するのは、その都市だ。

 ゲートルードはポロンの町について、アルフェたちに簡単な解説をした。


「ポロンは皇帝直轄領における、南の要所です。陸路から行くと、さほど特徴の無い町ですが……、レニ川を航行する船からは、少し面白いものが見られます。是非見学されることをお勧めしますよ」


 フロイドはしかめっ面をしている。彼は、ゲートルードの教師めいた喋り方がどうしても苦手だった。しかし、アルフェは乗り気のようだ。彼女は意気揚々と、甲板に上がりましょうと言った。

 ゲートルードが見学すべきだと言ったのは、川の中に作られた巨大な門だった。バルトムンクで見たものとは異なる様式のアーチ状の大橋に、太い鉄格子が付いていて、船の行く手を阻んでいる。

 アルフェたちの船が碇を下ろして停止すると、するすると小舟が近寄ってきた。橋の建築様式についてアルフェに解説していたゲートルードは、その小舟を見て言った。


「関門の監査船ですね。出る船はともかく、直轄領に入る船は、ここで少し足止めを食うことになります。帝都まで四日と言ったのは、そのためも有ります」

「監査? あまり面倒な事になるのは……」


 アルフェは眉をひそめた。

 冒険者組合員の証は持っているが、それは大して身分証としての効力を持たない。アルフェは突き詰めると、住所不定の怪しい娘に過ぎないのだ。何か言いがかりを付けられて拘束されるならまだしも、そこから本当の身分がばれるなどという事だけは避けたかった。

 検査船が去るまで、水中に潜ってやり過ごすべきだろうか。アルフェが真面目にそれを考えたところで、ゲートルードが言った。


「大丈夫です。これはメリダ商会の船ですから、話は付いているはずです」


 ゲートルードの言葉通り、監査船の役人は、アルフェたちの船の船長と二言三言話しただけで、積み荷を改めることもせずに去って行った。その際、船長は役人に何かを握らせたように見えた。

 フロイドは、大げさにため息をついて肩をすくめた。


「まともな商売と言ったが、そうでもなかったな」

「まあ、そうかもしれませんが、この程度の不正は、帝国のどこでも蔓延しています。メリダ商会が特別とも言えません」

「肩を持つじゃないか」

「嘆かわしいとは思いますが、事実ですから。それに、ああして賄賂を受け取ってくれる手合いは、私が知識を得る際にも役立ちます」


 やはり、ゲートルードは清い学者という訳では無い。彼は知識に取り付かれた、情報屋組合の長らしいことを言った。

 役人による検査はそれで終わったが、船はここでも幾つかの荷を積み込むつもりのようだった。そのために、数時間はこの町に居る時間があるという。アルフェに特に町に立ち入るつもりは無く、彼女はフロイドを引き連れて、港を見て回るだけにした。ゲートルードは、情報を仕入れてくると言って、一人で町の中に消えた。


「あの門は、どういう仕組みで動いているんでしょう」


 さっきくぐってきた水門を眺めて、アルフェが言った。船が通ろうとするたび、鉄格子の門はギリギリとうなりを上げて開閉している。フロイドは知らないと言ったが、アルフェも別に、答えを求めて聞いた訳では無いようだった。

 二人がそうして時間を潰していると、ゲートルードが戻ってきた。ゲートルードは、出て行った時と比べて、どこか深刻な顔をしている。


「ここでは少し。船の中で」


 彼に短くそう言われて、表情を引き締めたアルフェは船の中に戻った。


「しばらく前、この町で殺人があったそうです」

「殺人? それが何か?」


 ゲートルードの報告は、確かに事件ではあったが、特にアルフェを驚かせるものではなかった。しかし、彼が事件の詳細を語ると、アルフェの顔色も変わった。


「殺されたのは、この町に駐在していた神殿騎士です。リューディガー・ダンベール。ご存じですか?」


 アルフェはその騎士の名前を聞いた事も無い。彼女が首を横に振ると、ゲートルードは何かを考え込む仕草をした。


「ちょうど、別の町からも情報が入っています。最近、皇帝直轄領周辺の各地域で、神殿騎士を対象とした殺人が起きていると」

「神殿騎士が……」


 その肩書きを聞いて、知らない町の殺人事件が、アルフェの中にある現実的な不安と結びついた。

 アルフェの顔色を見ていたフロイドは、ゲートルードに聞いた。


「神殿騎士というと、例の暗殺部隊とかいう奴の関係か? それとも、これも選帝会議に絡んだゴタゴタか?」


 そのどちらでも無いという可能性もあるし、どちらでも有るという可能性もあった。とにかくアルフェの中では、テオドールとマキアスが、その事件に巻き込まれていなければいいという思いがあった。


「現時点では分かりません。ですが、調べる価値のある事件です。組合の者には、これを詳しく追わせましょう。アルフェさん、よろしいですか?」


 情報屋組合の主はゲートルードだが、彼はアルフェに許可を求めた。それを受けて、アルフェはごく自然に、こくりと頷いた。

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― 新着の感想 ―
魔物は正しく逃げ出したのですね 船を守ったアルフェ
[気になる点] 神殿騎士の暗殺… 一体誰がそんな事を…(謎 [一言] まさか本当に力技でエビ採っていたとは… まぁ困った時には暴力に限りますな イコにも見せびらかすのは草
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