242.ハサミと染髪剤
「どうしました? フロイド」
「つまり何か、貴女はその銀髪が目立つから、切って染めようと思った訳か」
「そうです。私の身体的特徴で、一番目立つのはこの髪に違いありません」
フロイドがちょっと怖い声を出したのに、気付いたのか気付かなかったのか、アルフェは冷静に合理的な理屈を述べた。
確かに、アルフェがどんな娘かと形容しようとした時、十人中十人が、その長く美しい銀髪に言及するだろう。敵がアルフェの事を特定していたとしても、いや、特定しているならば余計に、この目立つ銀髪は隠した方が良いと思う。
「髪を切るぐらいで追っ手の目を欺けるなら、そうするべきだと思いました」
アルフェの口ぶりからするに、彼女がこの方法を考えたのは一再では無いようだ。特に思い入れの無い口調で、アルフェはフロイドに、邪魔なこれをばっさり切ってくれと言った。
フロイドは眉をひそめた。
「伸ばしているのでは?」
「いえ、特にそういう事は無いです。城に居たときから、切るという習慣が有りませんでした」
「なるほど」
「短くして暗い色に染めれば、少しは敵が誤認する可能性が上がるでしょう」
「確かに」
根本的にこの娘が目立つのは、恐ろしいくらい整った顔立ちとか、妙に威圧感のある気配とかも大きな原因だと思うのだが、フロイドは取りあえず頷いた。
理由の説明が終わると、アルフェは椅子に座り、黙ってフロイドの行動を待っている。
まあ、命令ならば仕方ない、大人しく従って切ればいいか。フロイドはそう思い、ハサミをアルフェの髪に近づけた。髪“だけ”切るというのはやった事が無いが、刃物の扱いなら慣れている。フロイドは、アルフェの銀髪を左手で持ち、右手に持ったハサミを添えた。
「どうしました?」
前を見て動かないまま、アルフェが尋ねる。フロイドは、髪を持ったまま固まっていた。
滑らかな手触りが、フロイドの左手に伝わっている。フロイドの剣だこでごつごつと硬くなった手には、特にそう感じられるのか。
「フロイド?」
手が動かない。なぜだろうか。
まず、この椅子がおかしいとフロイドは思った。この宿の椅子は、どこに置いてあるものも、購入するのに少なくとも金貨が必要になるだろう。……いや、そういう事を言いたいのでは無い。椅子は椅子だ。
このだだっ広い部屋の中には、椅子が幾つかある。アルフェが座っているのは、普通のテーブルに付属している椅子だ。そして椅子は、化粧台の前にも置いてある。化粧台には、立派な鏡が付いている。
――そう、鏡だ。普通の娘というものは、髪を切ろうとする時、鏡があるなら鏡の前で切って欲しいと思うものではないか。
やはり、この娘は普通では無いのか。普通で無いのは、この娘がそういうものだからと理解して良いのか。この娘は、幼い頃から塔の中に監禁されていたという。アルフェは恥じらいといった常識を一通り持っているようでいて、こんな風に、所々に欠落した部分があるように感じる。
誰も教える者が居なかったから、こうなったのではないのか。
そこまで考えて、フロイドは、アルフェの髪を切る事に躊躇っている自分に気が付いた。
彼は、ハサミをテーブルに置いた。
「フロイド……?」
自分の要求が満たされない事に、アルフェは不審そうな声を出している。フロイドは腕を組み、重々しい声で言った。
「切る前に」
「ん?」
「もう一度良く考えよう。それが良い」
「え? 私はもう考えましたよ?」
「それが良い。俺も考える」
そう言って、フロイドは部屋の外に出ようとしたが、扉の前で立ち止まると、引き返してきた。彼はテーブルの上のハサミを掴むと、改めて出て行った。
◇
フロイドが出て行ったので、アルフェは部屋に一人取り残されてしまった。
「……?」
この程度の事に、どうしてあの男が躊躇ったのかは分からないが、フロイドが言う事を聞かないなら、自分で髪を切ってしまおう。アルフェはそう思ったものの、フロイドがハサミを持っていってしまったので、そうする事が出来なかった。
ハサミだけ返してもらおうと思い、フロイドが寝泊まりしている隣の副室の扉を叩いたが、反応が無い。どこかに出かけてしまったようだ。
「むう……」
まあ、今すぐにやらなければならない事でもない。切り替えたアルフェは資料読みに戻った。
「あれ?」
その日の夕方になっても、アルフェは資料を読んでいた。彼女は今、帝都の地図をテーブルに拡げ、他の資料と照らし合わせながら、神殿騎士団本部要塞や大聖堂を始めとした教会施設の場所を確認していた。
アルフェが首を傾げて声を出したのは、資料に欠落があったからだ。フロイドがゲートルードから引き取る際に、手違いがあったのだろうか。
どうしようかとアルフェは思った。これも別に、明日にしても構わない話だ。しかし、そうすると代わりにする事も無くなる。フロイドの部屋の扉を叩いたが、あの男はまだ出かけているようだ。
――なら、自分で取りに行きましょう。
一日中部屋に閉じこもっているのも何だし、一人でゲートルードの所に行けば良い。アルフェはそう決めた。そして、部屋のクローゼットに入っている“御令嬢”的な服を着て、彼女は宿のフロントに降りた。
「お嬢様、この町では夜の一人歩きは……」
フロントに居た従業員のデカムが、アルフェを引き留めた。都市バルトムンクは、大の男でも夜歩きをためらう町だ。アルフェのようなうら若き乙女が、護衛も連れずに出歩いて良い場所では無い。
デカムは、あの護衛の品の無い男はどこに行ったのだという風に、左右に目を走らせた。しかし見当たらない。
「せめて、何かお乗り者を。宿の衛兵もお付けします」
「不要です」
アルフェはにっこり微笑んだ。彼女は、この町に自分をどうにかできるような人間は居ないと知っている。前の時のように、偶然パラディンにでも遭遇すれば別だが、そんな事が二度も三度もあるだろうか。
デカムは承諾しかねるという顔をしていたが、客の言う事に彼が逆らえるはずがない。最終的に、彼はアルフェを見送るしか無かった。
「せめて、橋は渡らないとお約束下さい」
この宿のある岸を抜けて、対岸の冒険者街や中州の要塞島に行かなければ……と、彼は考えた。だからそのように言ったのだが、頷いたアルフェに、その約束を守るつもりは毛頭無かった。
川縁を橋に向かって歩くアルフェの目には、要塞島の町灯りが映っている。昼から出かけているフロイドは、もしかしたらあの中で酒でも飲んでいるのかもしれないな、と彼女は思った。
「――あっ」
橋を渡り飲み屋街の通りに入ったところで、アルフェは先日の夜にここに来た時、自分がとても嫌な思いをした事を思いだした。
あの時と同じように、男たちの視線が彼女に集まっている。歓楽街の空気にはそぐわない服を着た、可憐で美しい少女。やはり今日も、彼女の隠形は役に立たなかった。アルフェの横を、濃い化粧をした女と腕を組んだ、脂ぎった男が通り過ぎていく。その男は、隣の女の事を忘れて、首がねじれる程にアルフェを見ていた。
一瞬、どうして良いか分からなくなったアルフェは、通りの真ん中に立ち尽くす事になった。そしてそれがまた、余計に注目を集める事になる。
――そうだ、こういう時は――。
嫌な視線を向けてくる者を、皆殺しにしてやれば良い。
――……っ、違う! 違う!
飛躍した自分の思考を、彼女は頭を振って抑えた。そして、適当な路地に走り込んだ。
「…………ふぅ」
人気の無い入り組んだ路地の奥で、アルフェはようやく息をつく事ができた。
さっきの考えは、自分でもどうかしていた。こんな町中で、刃物を向けられた訳でも無いのに、相手に殺意を抱くとは、いくら何でもやり過ぎだ。
しかし、どう言ったら良いのだろうか。自分はあの視線が苦手だ。自分の身体の、特定の部分をなめ回すような視線が。アルフェは片手で目を覆った。以前から、彼女にこういう視線を向ける者は居たが、それは彼女の成長に伴って、確実に多くなっている。
相手を攻撃したり脅したりする以外に、この感覚をどう処理するのが適切なのか、アルフェには分からなかった。実際、過去にアルフェにそういう視線を向けたのが、野盗だったり、敵対する冒険者だったりした時には、彼らは例外無く手酷い目に遭っている。
「――はぁ」
しかし大丈夫だ。深呼吸して、アルフェは思った。来ると分かっている視線なら、嫌でも耐えられる。だが一応、彼女は大きな通りに出る事無く、狭い路地や屋根の上を伝って、ゲートルードの家に向かった。
ゲートルードから欠けていた書類を受け取ると、アルフェは即座に橋に引き返した。ゲートルードと少し話したせいで、夜はさらに更けている
来た時と同じように、屋根によじ登り、路地裏を抜けて。屋根の上を音も無く歩く令嬢を、誰かが見上げたらどういう反応をしただろうか。しかし幸い、飲み屋や娼館を訪れた者たちにとって、見るべきものは地上にあった。
「うおっ!? 何だ!?」
だが、何度目かに屋根から路地に降りた時、アルフェは運悪く人間に遭遇してしまった。
その男たちはどうやら、この町に溢れた傭兵のようだった。町中でも革鎧を身に着けている事から、それが分かる。多分、宿を取れない者たちが集まって、路上で寝ていたのだろう。数は八人だった。
見たところ、この男たちは傭兵の中でも劣悪な部類に属するようだった。冒険者街の宿を確保する才覚も無く、富裕街の宿に部屋を取る財力も無い。装備や動きからも、大した実力は無いとすぐに見切れる。例えば、リグスの傭兵団などと比べると、質にかなりの差があった。
「お休みの所を失礼しました」
しかし、上空から乱入したのは自分の方だ。アルフェは彼らの眠りを妨げた事を、懇切丁寧に詫びた。
突然現れた御令嬢に辞儀をされた傭兵たちは、一瞬呆気にとられ、それからふやけた顔で笑った。
「なあお姫様、驚かせた詫びと言ったら何だが、俺たちの――」
相手がそこまで言った時には、アルフェは既に指を鳴らし、拳を固めていた。
今夜のアルフェに向かって、色欲を丸出しにした目を向けた彼らは、いかにも軽率だった。
「相手を――ぐほぉっ!」
死なないだけ有り難い。そんな風に思わせる音が、可憐な令嬢の拳をめり込ませた、傭兵の腹から響いた。
「な、何しや――」
「うるさい」
「――がぁッ!?」
すぐにもう一人の傭兵が、壁に蹴り飛ばされる。いつものアルフェなら、恐らくここまで理不尽な事はしない。この時の彼女は、やはり過剰に攻撃的になっていた。八人いた傭兵は、瞬く間に全員叩きのめされた。
「うう……」
「ぐ……」
――やり過ぎた。
這いつくばり、呻き声を上げる男たちの真ん中で、アルフェは少しの自己嫌悪に陥った。一応、誰も死んでいないし、精々でどこか骨が折れた程度だろう。しかし、問答無用でこんな目に遭わされる程、彼らは何かをしただろうか。
少しだけ、介抱くらいはするべきだろう。アルフェは珍しく、そんな風に考えた。
「しっかりしなさい」
「ぐふっ!」
だが、彼女の介抱はそれなりに手荒だった。アルフェは男たちの患部に掌を当て、打撃と共に魔力を送り込んだ。コンラッドの技を再現したもので、他人の治療に若干の効果がある。こうしておけば、少し治りが早くなるはずだった。
「動かないで」
「ごほォッ!」
しかし、アルフェが技に慣れていないのもあって、これを受けた者は、ちょっとした激痛を味わう羽目になる。端からは、アルフェは一度倒した男たちに対し、側にしゃがみ込んで追い打ちをかけているようにしか見えなかった。
「や、やめてくれぇ……」
「大丈夫ですから」
「がはッ!」
彼らの懇願に耳を貸さず、アルフェは次々と“治療”を施していった。彼女の治療を受けた者は、正真正銘気を失った。
ぱんぱんと手をはたき、アルフェは最後に残った、壁際に重なって倒れている二人の方に近付いた。一々どけるのも面倒だから、重ねたままで処置しよう。彼女がそう思ってしゃがみ込んだ時――
「このッ!」
比較的元気だった下にいる男が、アルフェに逆襲しようと悪あがきをした。
仲間に上に乗られたままで、彼は相手をよく見ずに手を振り回した。彼にとって、それは幸運だったのか、それとも不運だったのか。彼の手は、本来なら決して触れる事ができない、大きな実力差がある相手の身体の一部に触れてしまった。
「きゃっ!」
アルフェでも、そんな声が出せるのかという、可愛らしい悲鳴が聞こえた。男の右手が、彼女の髪をしっかりと掴んでいる。男は、力任せにそれを引っ張った。
普段のアルフェなら、踏ん張る事はたやすい。だが、髪を掴まれて、彼女の力は妙に抜けた。アルフェは前のめりに、四つん這いになった。男も必死だ。彼は更に、彼女の髪を自分の身体に引き寄せようとする。
「こ、の――――!」
怒りに顔を赤くして、無理な体勢で男を攻撃した時、アルフェはしまったと思った。
全く手加減を意識しない、全力の打撃が男に飛んだ。
死ぬ。間違い無く。
男はきっと、地面に落ちて弾けた果物のようになるはずだ。別に構わないという思いと、それは駄目だという思いが、その瞬間のアルフェの中に同居していた。
だが――
「止めろッ!!」
アルフェの上から覆い被さるように、彼女を妨害した者がいる。そのせいで、アルフェの打撃は男を少し逸れ、衝撃が後ろの塀を粉々に打ち砕いた。
「……降りて下さい」
音と埃が鎮まると、アルフェは、自分の背中に馬乗りになっている男に向かってそう言った。
「落ち着いたのか」
「……大丈夫ですから、降りて下さい。……フロイド」
最後にアルフェが攻撃した傭兵は、衝撃の余波を受けて気絶している。
フロイドが乱入しなければ、きっと彼は、塀の欠片に混じった肉片になっていたはずだ。
「良く、ここが分かりましたね」
フロイドに手を引かれて立ち上がると、すました顔でアルフェは言った。しかし、その銀髪は乱れている。フロイドは答えた。
「あの従業員に怒鳴られた」
日中外を出歩いていたフロイドが、夜になって宿に戻ると、フロントに居たデカムが、血相を変えて彼に凄んだのだそうだ。
「お嬢様をお一人にするとは、何事だってな」
アルフェを一人にしても心配要らない事は、フロイドが一番良く知っていたが、デカムの気迫に負けて、彼はアルフェを探した。あの主の事だから、きっと妙な場所に居るはずだ。彼が優先的に探したのは、ゲオ・バルトムンクの居城の周辺や、地下闘技場だった。
「一応こっちにも来てみたら、屋根の上に居た」
フロイドは、呆れたように言った。そして倒れている男たちを見回すと、フロイドは肩をすくめ、やっぱり必要無かったようだがと笑った。
「いえ」
「ん?」
「助かりました」
アルフェはうつむいて、フロイドに礼を言った。
口調を改めたフロイドは、戻りましょうかとアルフェに言った。
「俺は考えたんですが」
橋まで来ると、フロイドは何か意を決したように喋り出した。
「俺が……昔知っていた女性は、髪を大切にしていた」
何の話題かとアルフェは戸惑い、そして、フロイドが昼の話の続きをしていると思い当たった。
「もしかして本当に、それを考えるために外出していたのですか?」
「…………まあ、そうです」
フロイドはふくれっ面をした。
さっきフロイドが言った、昔知っていた女性というのは、きっと彼が結婚を約束していた、ミリアムという人の事だろう。アルフェはフロイドが何を話すのか、興味を持った。
「彼女は、市場で手に入れた鏡を大事にしていた。良く飽きずにそれを眺めて……、俺が、彼女の髪型が変わった事に気付かないと、もの凄く怒った」
「……なるほど」
「何がなるほどです。俺が言いたい事が、分かったんですか?」
「……フロイドは、本当にその人の事が好きだったんですね」
「なっ――。馬鹿にするなら――」
「馬鹿にしていません! 馬鹿になんかしません。そう聞こえたなら、謝ります」
フロイドが怒りかけたのを見て、アルフェは慌てて訂正した。そして、ぽつりとつぶやいた。
「私には、分からないから……」
うつむいて服の裾を握った彼女を、フロイドはどこか哀しそうに見つめた。
「話の続きを、しても良いですか?」
「はい、お願いします」
橋を渡ると、川沿いにベンチがあった。フロイドはアルフェに腰掛けるように言い、彼自身は立ったままで喋った。
「俺はその女性を見て、女にとって、髪は重要なのだと思いました」
「そうなんですか」
「そうだと思います。少なくとも、軽々しく切ったり、他人に触らせたりするものじゃない」
世の中の女性一般はそういうものだ。アルフェにも、それは分かっている。しかし、アルフェには実感が無かった。
「私には、分からない事が多いです」
恐怖や悲しみ、怒りや憎しみという感情は、もう嫌になる程理解しているのに。自分はやはり、どこか心が壊れているのだろうか。その心配を、アルフェは口にしなかった。
「俺も、貴女には欠けているものがあると思う」
「――っ」
今のフロイドの台詞は、アルフェの心に杭となって刺さった。自分で言葉にできても、人に言われるのは、また違う。アルフェの様子を見たフロイドは、急いで次の言葉を口にした。
「だが、それは貴女のせいだろうか。それは違うと思う」
「……」
「思うに、そういうのは、最初は誰も知らないんだ。赤ん坊の頃は誰も知らない。俺の知る女性も、母親や周囲から学んで、それを身に着けていった」
「……お母様」
母が、自分にそういう事を教えてくれた事は無かった。それとも、ただ自分が忘れているだけなのだろうか。
「――?」
フロイドが何も言わなくなったので、アルフェは顔を上げた。
目の前に、フロイドが何かの包みを差し出している。これは何かと目で尋ねても、フロイドは黙ったままだった。
受け取って包みを開くと、そこにはアルフェの掌に収まるほどの、丸く平たいものが入っていた。
「手鏡……?」
暗いので分かりにくいが、それは確かに手鏡だ。
「たまたま入った雑貨屋に、売っていた。あ~、銀一枚だ。一番安い奴を選んだ」
「これを、どうしろと……?」
「例えば、それを見て、身だしなみを整えるとか」
「……ふふ」
この男も、慣れない事をしている。それが分かって、アルフェは少し可笑しかった。
「さっき、あの男に髪を掴まれた時に」
「ん?」
「少し……、いえ、凄く嫌だと思いました」
「ああ」
「それは、普通の感覚ですか?」
「じゃないかな、多分」
もう一度笑って、アルフェは鏡を開いた。やはり暗いので、彼女の顔は映っていない。
「昔、お姉様が――」
だが、鏡を見たアルフェの口からは、彼女も思っていない言葉が出ていた。
「お姉様が、私の髪を、羨ましいと言ってくれた事があります」
――私も銀色が良かった。アルフィミアとおそろいが良かった。
「そうだ、お姉様が」
――アルフィミアの髪はきれいよ。本当にきれいだから。だから、こんな事になるなら、いっそ私も――。
「お姉様が、私の髪を褒めてくれました。でも……」
はっとした表情で、アルフェは自らの記憶をたどっている。姉は、部屋の中でアルフェを抱きしめて泣いていた。
「どうして、泣いているの?」
しかし、記憶はそこで閉じていく。
アルフェは手鏡を両手の上に載せたまま、愕然とした顔でうつむいていた。
◇
「やっぱり、切りません」
翌朝になり、朝食の席で、アルフェはフロイドに向かってそう宣言した。
「どうしてです? 髪程度、どうでも良かったのでは?」
「随分と意地の悪い質問をしますね……。切りたくなくなったからです。それではいけませんか?」
「いや、俺は貴女の命令に従う」
「勝手にしなさい」
フロイドはそんな事を言っているが、その表情はどこか満足げだ。アルフェも、自分の髪が姉の思い出と結びついた今、これをばっさりと切ってしまうのは、何となくためらわれる思いがしていた。
「それはそうと、フロイド、あなたに頼みがあります」
「何なりと」
「はい、どうぞ」
アルフェがフロイドに押しつけたのは、昨日彼女が変装するために集めた、髪染め用の染料だった。フロイドは釈然としない顔になって、「これは?」と聞いた。
「染めるのは、切るのとは違いますから。いざという時のために、練習しておきましょう」
アルフェは平然としたすまし顔で言った。フロイドは、また何かを意見しかけたが、止めて肩をすくめた。アルフェが考えた結果なら、それもまた良しと、今回は思ったようだ。
「ま、それも貴女らしいのか」
しかし、自分にこんなものが上手く使えるのか。刃物と違って、手にした事も無い道具を前に、フロイドは眉をひそめた。




