220.霧の中の魔物
アルフェは吟遊詩人デイルソンの依頼を引き受けた。
デイルソンに頼まれなくとも、彼女は元々、防壁の外に報償金の出そうな魔物を狩りに行くつもりだったのだ。ならば、これはちょうど良い“ついで”と言える。依頼を引き受けた朝のうちに、アルフェはデイルソンを連れて開拓村を出た。
標的の種類は特に定まっていない。詩を書くための話のネタになりそうな魔物ならば何でも良いと、デイルソンは言った。
「なら、ゴブリンでも良いですか」
アルフェがそう聞くと、彼女の後ろについて歩くデイルソンは、散策にでも来たような気軽な調子で答えた。
「それは困るなぁ。言ったろ? 僕がインスピレーションを得られそうな魔物で頼むよ」
「では、その『インスピレーション』とかいうものの中身を、もう少し具体的に説明して頂けますか」
「そうだな、こう、僕の感情を揺さぶるような魔物っていうかさ」
「それはつまり……、精神を攻撃してくるような魔物という事ですか?」
「ちょっと違う気もするけど……まあ、そんなものさ」
「分かりました」
心を直接蝕んでくるような魔物は、かなりの珍種だ。見つけようと思ってすぐに見つかるとは思えないが、依頼主の指示である。アルフェは了承した。
そう言えば、レイスのような幽体系のアンデッドは、死者の叫びを繰り出して、それを聞いた者の正気を奪う。その辺りが適切だろうか。そう考えたアルフェは、先日ウィスプと戦った共同墓地へと足を向けた。
「趣が無い場所だな。詩作には向かなそうだ」
墓地に着くと、デイルソンはそう言った。墓地周辺には大勢の鉱夫がいて、採掘と防壁の建設を同時並行で行っている。そう言えばここは、新しい魔石鉱脈の採掘現場になっていたのだ。
墓は半分以上掘り返されているが、恨み言を述べに出て来たアンデッドも居ないようだ。離れた場所から鉱夫たちの作業を眺めつつ、アルフェは言った。
「レイスか何かが、居るかと思ったのですが」
「レイス? ああ、アンデッドの。でも、それだとオリジナリティに欠けるな」
「オリジナリティ……とは?」
「うん、君も知ってるだろ? エアハルトの劇場で上演されてる、新作の悲劇を」
「知りませんが」
「本当? まさか!」
アルフェの無知が信じられないと、大げさに驚いて見せてから、デイルソンは解説を始めた。
なんでも、エアハルト伯領の首都ウルムにある大劇場では、近頃ある演目が大層な評判を呼んでいるそうだ。
「劇場の幽霊っていうタイトルの悲劇だよ。恋と役の争いに負けた女優が、自殺して幽霊になった。それが劇場に現れて、人を襲うようになるのさ」
そして幽霊はある日、観劇に訪れた若く美しい娘に嫉妬する。そしてその娘を餌食にしようとするのだが、娘に恋していた勇敢な青年が、命がけで娘を救うのだ。
どこかで聞いたような気もするし、そうでも無いような気もする話だと、アルフェは思った。
「僕に言わせれば稚拙な筋書きだけど……、これが凄い客入りらしい。そろそろ帝都でも演るんじゃないかって、僕らの界隈じゃ噂になってる。で、実はこれも、実際にあった話を元にした劇らしいんだ」
「そうですか」
「あんまり関心なさそうだね……。レイスって、つまり幽霊だろ? 盗作とかって疑われるのはちょっとな。そうでなくても、二番煎じは御免だ」
何でも良いと言ったくせに、注文の多い依頼主だ。アルフェはそう言いたげな視線を向けているが、デイルソンは意に介していない。
「それにさっきも言ったけど、こんな騒がしい場所じゃちょっとね。もうちょっと森の奥に行ってみようよ」
「……分かりました」
二人は共同墓地を離れ、デイルソンの要望通り、人気の無い森の奥へと進んだ。
森の奥――即ち結界から離れれば離れるほど、危険な魔物が出る確率は上がる。
しかし、アルフェはいつもの通り、何一つ武器を携えていない。身に着けているのは、鍛治氏のヨハンに特注した防具のみだ。デイルソンはというと、何のつもりか、こんな所にまで自分のリュートを持ってきている。「楽器は吟遊詩人の命だから」と、この男は出発前に言っていた。
つまり、二人のどちらも、魔物に対向できる手段は持っていないように見えるのだ。
もちろん、アルフェの武器は他ならぬ己の肉体だ。アルフェはそれを承知している。
だが、デイルソンはどうだろうか。彼はアルフェの事を、昨日今日、村長から又聞きしたに過ぎないはずだ。腕の立つ剣士に守られた、どこかの貴族のお嬢様と。アルフェが魔術の使い手か何かだと思っているにしても、どうやってアルフェが魔物と戦うつもりなのか、確認しないという事があるだろうか。
酒場で背後に近付かれた時から、今この瞬間まで、アルフェはそんな事を考えながら、デイルソンの言動を注視していた。
「ん? 霧が出て来たな……」
歩きながら、アルフェがデイルソンに目を向けると、デイルソンはきょろきょろと周囲を見回しながらつぶやいた。
「……そうですね」
それにはアルフェも同意した。今日は朝からもやがかかったような天気だったが、そのもやは急に濃さを増し、まとわりつくような霧に変わった。
「いいぞ、霧っていうのは中々雰囲気がある。霧の中には恐ろしい魔物が住むって、昔から言うからな」
そう言ってぽろんとリュートを鳴らしたこの男は、単なる何も考えていないお気楽な男なのか。それとも――。
「どこまで行きますか」
「ん?」
「もう、この辺りで良いのでは?」
「何が」
「このまま、霧の中で魔物を探し続けても良いのですが――」
周囲は十分に人気が無い。既にここは森の奥だ。まかり間違っても、開拓村の人間が通りかかるような事はあり得ないだろう。
アルフェは振り返り、無表情に男を見た。
「その前に、面倒な事は済ませてしまいましょう」
「……」
「あなたは、誰です」
問い詰めるような響きが、その声には込められていた。
「吟遊詩人のデイルソンさ」
男は笑顔で答えたように見えたが、目だけが全く笑っていない。
ドニエステが放ってきた刺客か、それとも、教会がキルケル大聖堂の件の報復を考えたのか。どちらかは分からないが、アルフェは既に、この人間を敵だと認識していた。
さっきまで隙だらけに見えた男の気配は一変している。巧妙に隠してはいるものの、針のような殺気が、アルフェの肌を刺していた。
「誰に命じられて、ここに来ましたか」
「さあ、君が何を言ってるのか――」
「いい加減、茶番は止めろ」
アルフェが強い言葉を投げかけると、誤魔化そうとしても無駄だと悟ったのか、男はぴたりと黙った。そして霧の中に、自分の気配を溶け込ませていく。楽器以外は何も持っていないように見えるが、どこかに武器を隠しているのも間違い無い。紛れもなくこの男は、“その道”の専門家だ。
そして男は音も無く、霧の中に消えた。
「…………」
アルフェはその場で棒立ちのまま、男が仕掛けてくるのを待った。男の気配は無になったように思えるが、この霧の中に確実に存在している。認識そのものを書き換えてきたライムント・ディヒラーの幻術に比べれば、男の穏形術は児戯に等しい。
ふいに、厚い霧を裂いて何かが飛んだ。アルフェの背後から彼女の首筋めがけ、指の大きさほどの先の尖った金属の棒が、一直線に向かって行く。
アルフェは振り返ることもせず、首を横に倒し、その棒を事も無げに避けた。コン、という小さな音がしたのは、アルフェの前方にある木に、それが刺さったためだろう。
そうやって三度、アルフェは霧の中から飛んでくる棒をかわした。
最後に飛んできた凶器を、アルフェは右手の人差し指と中指の間に挟んで止めた。そして興味深そうに、その黒い金属の棒をしげしげと観察する。
「……これは」
先端に何かが塗られている。そして、かすかに匂う刺激臭。これは、毒だ。
アルフェはそれに見覚えがあった。
「ああ、あの時の……」
アルフェは少し眉をひそめた。
懐かしいと言えばいいのか。アルフェは一度、これに傷つけられてひどい目に遭った事がある。エアハルトで、雇い主のクルツを狙った暗殺者を追って、屋根の上を走った時だ。その暗殺者が、これと同じようなものを投げてきた。
その時の暗殺者は、他でもないフロイドと組んでいたはずだ。フロイドならば、これについて何か知っているだろうか。
「――?」
アルフェはその凶器に気を取られていた。しかし当然、敵はまだ去っていない。遠距離からの投擲でアルフェを倒す事を諦めた敵は、接近戦に切り替えてきた。霧の中から男の腕だけが見え、その手が握ったナイフが、アルフェの急所を狙う。
フロイドに言われたように、自分は戦闘中に油断するのが癖になっているのかもしれない。アルフェは苦々しい顔で反省しながら、そのナイフをかわし、男の手首を掴んだ。
「――ぐっ」
手首の骨が粉々に砕けたはずなのに、男はそれだけしかうめき声を漏らさなかった。アルフェは力任せに、男の身体を自分の方へと引き寄せた。
「ごほっ!」
男の手首を掴んだのとは逆の手で、アルフェは敵のみぞおちに魔力を乗せた掌打を打ち込んだ。と言っても、死なない程度に加減はしてある。息の根を止める前に、この男には確認したい事があったからだ。
全身の魔力の流れをガタガタに乱されて、男は為す術無く地面に這いつくばっている。それを見下ろしたアルフェは、抑揚の無い声で尋ねた。
「誰に命じられたのか、答えなさい」
「……」
「ドニエステの者ですか、……それとも、神殿騎士団?」
「……」
痛みに脂汗を浮かべながらも、男の表情は貼り付いたように変わらない。アルフェの問いかけに対しても、何一つ言葉を発しようとはしない。
「あなたも仕事なのでしょうから、お気の毒ですが。……答えないと、死にますよ?」
アルフェは念を押したが、そんな事は男も理解しているはずだ。それでも何も言わないのは、死ぬ覚悟はできているという事なのだろう。
「…………ふぅ」
彼女はしばらく男を見下ろしてから、一つため息を吐いた。
「さようなら」
男は一瞬、目をつぶった。アルフェに止めを刺されると思ったのだろう。
だが、アルフェは男を放置して、その場を歩き去ろうとした。
どうしようか迷ったが、同じように自分を殺しに来たフロイドが、今は自分の臣下に収まっている。気まぐれに、一度だけなら機会を与えても良いのかもしれないと考えたのだ。
アルフェはそのまま振り向かず、霧の中を開拓村の方向へと歩いて行く。
「…………チッ」
しかし、アルフェの足は止まった。彼女の背後で、男が立ち上がっている。しかも、アルフェに対する殺意を維持したまま。
「分かりました」
アルフェは吐き捨てるように、一言だけ発した。
デイルソンというのは、果たしてその男の本名だったのだろうか。詩について饒舌に語っていた言葉も、酒場で彼が演奏していた曲も、全てはアルフェに近づき、彼女を油断させるための擬態だったのだろうか。
どちらにせよ、銀髪の少女が去った後、森の中に残された男の死体が、その答えを語る事はもう無い。




