212.負け犬
「俺はそもそも、ハノーゼスの山奥の生まれだ」
そこから、フロイドは身の上話を語り始めた。
ただアルフェに、今は休息した方がいいのではないかと、それだけを伝えたかっただけなのに。しかし、彼女に素直に意見を聞いてもらうために、どうすればいいのかと悩んだ結果、そこから語らなければならないと考えたのだ。自分がどういう人間であるかを改めて伝え、その上で意見しなければ、アルフェは聞き入れない。そう思ったのだ。
あまりにも意表を突かれたか、立ち上がったアルフェは、そのまま去ろうとはせず、立ち上がったまま固まっている。それでも、彼女は黙ってフロイドの話を聞くつもりのようだ。
「俺の親父は、地方領主の小作人で、俺はその一人息子だ。剣の腕を鍛えようと思ったのは、親父から継げる財産は何も無かったからだ。……俺だけじゃない。家を継げない同じ年ごろの子供は、皆そうだった」
自分自身ですら忘れかけた話を、静かな声でフロイドは語っていく。
故郷を出て以来、決して誰にも語ったことの無い話だった。イルゼとヨハンも居る前だったが、それでも構わないとフロイドは思った。変に格好を付けて、機会を逃してはならない。
アルフェが、再び椅子に座った。
「こう言っちゃなんだが、剣の才能はあったと思う」
ハノーゼス伯は八大諸侯の一人で、その領地は帝国南西部の、峻険な山岳に囲まれた高原地帯にある。フロイドはその片田舎で、ハノーゼス伯の家臣に仕える小作人の長男として生まれた。母親は彼を生んだ時に死んだため、兄弟姉妹は居ないという。
他の血気盛んな男児がそうだったたように、少年時代のフロイドは、剣術を鍛える事に熱中した。
財産も何も持たない小作人の子供が、泥と屈辱にまみれて、家畜と変わらない暮らしをしたくなければ、そこから逃れる方法は限られている。剣を鍛えて人から抜きん出るか、学問で身を立てるか。学問をするには、本などを揃える金が必要だ。フロイドが選んだのは剣だった。
「領主には、エルウィンという息子が居た。……俺と同い年のな。俺は運良く、そいつと仲良くなって、剣を教わる機会を得た」
剣術で光の当たる場所に出たい時、気をつけねばならない事が一つあった。
それは、ただ強くなるだけでは駄目だという事だ。使い捨ての兵以上になりたければ、「礼節」というものを身につける必要がある。
「聞いたことは有るか? つまり、騎士の剣術って奴さ。正々堂々と剣を構えて、正面から相手を打ち倒す。臆病ではいけないし、卑怯な真似もしちゃいけない。当然、剣を手放して相手を蹴ったり殴ったりは、以ての外だ」
そこでフロイドは、アルフェを見て少し笑った。
冒険者や傭兵の世界なら、甘っちょろいと鼻で笑われる。だが、騎士になりたければ、そういう剣を学ばなければならない。今のフロイドやアルフェのように、相手に勝てればそれでいい、そのためには手段を問わないという戦い方は、騎士の世界では到底受け入れられない。そしてフロイドは、領主の息子エルウィンから、それを教えてもらった。
「領主の息子と小作人の息子が一緒に居るなんて、大人に見つかったら大目玉だからな。二人で裏山に隠れ家を造って、そこで修行したよ。畑仕事をサボって、親父に怒られながら……」
話すうちに、本当に懐かしくなってきたのかもしれない。フロイドは遠い眼をした。
「ハノーゼスじゃ、伯の御前で剣術大会が開かれるんだ。毎年、伯の居城に年ごろの若者を集めて。その大会には、俺みたいな小作人の息子も出ることができた」
そして、大志を抱いて大会に出場した平民の少年たちは、そこで現実を思い知る。親の手伝いに四六時中追われる自分たちよりも、金と暇に飽かせて、正式な師範の下で毎日剣術稽古に打ち込める貴族の少年たちの方が、はるかに剣の技量に勝っているのだという現実を。
稀に腕っぷしの強い平民が混じっていても、さっきの縛りが邪魔をする。礼に則っていない剣は、いくら強くてもその大会では評価されないのだ。
それに、貴族の子弟を公衆の面前で打ち負かせば、その後にどんな報復が待っているかも分からない。だから平民は、空気を読んで適当な所で負け、兵に取り立ててもらうのが関の山だった。
「でもな、そのときの俺は、その『空気』ってやつを読まなかった」
しかしその大会に出場した時のフロイドは、空気を読まなかった。読めなかったのではなくて、全力で無視した。
フロイドは大会を勝ち進んだ。平民で彼に敵う者は居ない。エルウィンに教えられて、礼に則った剣というのも知っていた。貴族の子弟が相手でも、正々堂々礼儀正しく、外野が文句をつけようもないほど完璧に勝った。彼の父親は、観客席で泡を食って震えていたが、父が恐れる身分の差など、実力で跳ねのけて見せると、少年の日のフロイドは、純粋な情熱に燃え滾っていた。
「決勝戦の相手が、エル――俺に剣を教えてくれたエルウィンだった」
流石にその時は、フロイドも動揺した。しかしエルウィンは、遠慮は無用だとフロイドに言った。悔いの無いよう全力でぶつかろうと、彼に約束した。フロイドは友の心意気に視界が滲むのを感じながらも、エルウィンに勝った。
「伯の近衛騎士に取り立てられたのは、その大会で手に入れた褒美だ。……そこから成り上がって、二十歳の時には、四人いる副長の一人にまでなった」
「ハノーゼス伯って……、あのハノーゼス伯だよね。八大諸侯の近衛騎士って……、お兄さん、偉い人だったの?」
フロイドが言葉を区切ると、平民であるイルゼが、恐る恐るという感じで尋ねた。
「偉いと、その時の俺は思っていたよ」
フロイドは、自嘲気味に笑った。
小作人の息子が近衛騎士になった例は、ハノーゼスでは歴史上初めてだった。フロイドは自分を鍛えてくれた友人と、取り立ててくれた伯に感謝し、エルウィンに永遠の友情を捧げ、伯と領邦のために身を粉にして働くと誓った。
セインヒルという彼の姓は、褒美の一つとして伯に与えられたものだ。
「だが……ここからが、俺の恥だ」
滅多に無い事だが、そこまでは、ある平民の出世譚に過ぎない。
次にある女性の名前を口にした時、フロイドは、まだ癒えきらない生傷に触れた様な顔になった。
「ミリアムという娘がいた」
アルフェはぴくりと表情を動かした。
その名前には憶えがあった。確か、ディヒラーの弟子の幻術にかけられた時、フロイドが口にした名前だ。その名を呼んでから、フロイドはアルフェに斬りかかった。
「その娘も、エルウィンと同じ、俺の幼馴染みだ」
「幼馴染み……」
幼馴染みという単語に反応してつぶやいたのは、イルゼだった。イルゼの幼馴染みであるヨハンは、何が起こっているのか良く分からないという表情をしながらも、黙って聞いている。
「利発で大人しい、優しい娘だった。俺よりはマシな家の生まれだが、彼女も平民だった」
慈しむような、だが同時に思い出したくも無いような、そんな複雑な声を、フロイドは出した。
「お兄さんの、恋人?」
「……まあ、そうだな。……俺が近衛兵長まで出世したら、一緒になってくれと言ったし、彼女もそれに……笑顔で頷いてくれた」
結婚の約束は、フロイドとミリアムの、二人だけの口約束だった。
口約束だったが、まだ純粋だったフロイドは、その約束を信じていた。次の近衛兵長は間違いなくフロイドだという噂は、彼自身の耳にも入っていたし、その頃のフロイドは、己の前途に雲一つ無いと感じていた。
しかし、二人の約束は守られなかった。
ミリアムは、自分も近衛兵の妻として相応しい行儀を身につけようと考え、ある貴族家の侍女として働いた。その貴族の邸宅は、伯の城下町にあった。事件は、そこで起こったのだ。
「ある日彼女が、ハノーゼス伯……つまり、俺の主君の寝室に召し出されたのさ」
フロイドはそこで、大きなため息をついた。
貴族が己の領地に居る若い娘を、寝室に召し出す。それは彼らの特権の一つとされていたが、むやみに行使する横暴な貴族はそうは居ない。やれば、平民からも貴族からも顰蹙を買う。
ハノーゼス伯はその時既に四十を過ぎた、どちらかと言えば温厚な人柄の人物だった。施政も穏当で、民に圧政を強いるという事も無かった。立派な主君だと、その時までのフロイドは信じていた。
「俺は、怒った」
フロイドとミリアムの関係など、伯は知らなかっただろう。もちろん、二人が言い交わしていた約束も。
伯がミリアムを召し上げたのは、たまたま町で見かけた彼女に、伯が本気で焦がれたからだった。数年前に病で夫人を亡くしていた伯は、本気でミリアムに求婚したのだ。
そして、伯が後先を考えずに本気で願えば、領内で逆らえる人間などそうは居ない。フロイドが剣術大会でそうしたように、はるか上の身分の者による圧力に、家族の事も考えず、自力で抗することができる人間など、一握りだ。
少なくとも、ミリアムは伯の要求を受け入れた。
「彼女が逆らえなかったのか、……それとも、逆らわなかったのか。どっちなのかは、俺には分からない。あの日以来、俺は彼女に会っていないからな。……とにかく、彼女が召し出されたと聞いた俺は、伯の前に直談判に行った」
その時のフロイドは、腰に、彼が剣術大会で優勝した時、伯から賜った剣を佩いていた。
「初めは抜くつもりは無かった。本当だ。だが結局、話し合いの途中で、激昂した俺は剣を抜いた」
「…………」
それを話すフロイドは、むしろ微笑んでいるようにすら見える。そんな彼を無表情に見つめるアルフェは、何を考えているのだろうか。
「……殺しちゃったの?」
そう聞いたのは、イルゼだった。
フロイドは、首を横に振った。
「殺してやりたかったんだがな。出来なかった。……エルウィンが、俺を止めたからだ」
フロイドの声が少し震えた。だが、彼は泣いてはいない。
「俺は伯の前で、本気でエルウィンと斬りあった。俺はあいつの友達だったのに、あいつは俺に、色んな事を教えてくれた恩人だったのに、そんな事も忘れていたよ」
――フロイド! 早まるな!
――止めるなエル! 俺はその男を、斬らなくちゃならない!
「そして俺は、エルウィンに、負けた」
怒りに我を忘れたフロイドは、激しい戦いの末、同じく伯の近衛になっていたエルウィンに敗北した。紙一重の差だったが、剣術大会の決勝以来、負けた事の無かった相手にフロイドは負けた。二人の戦いの間、ハノーゼス伯は、部屋の隅で震えていた。
敗北したフロイドは、剣を奪われ城の地下牢に投獄された。身分をはく奪され、公衆の面前で首を討たれても仕方のない狼藉を働いたのだから、その措置は当然だった。
もはや何もかもがどうでも良いと、牢の中でうなだれていたフロイドだったが、彼の刑は執行されなかった。
近衛兵の婚約者を寝取って斬り付けられた事件が公になるのを、伯が嫌ったのか、それとも他に何か事情があったのか。牢に入れられてから数か月後、フロイドは突然頭から袋をかぶせられ、城の外に連れ出された。そして、領境に近い山中に、着の身着のままで捨てられたのだ。
「……多分、エルウィンが俺を助けてくれたんだ」
そこでフロイドは、一度全てを失った。
地位も、身分も、忠節も、誇りも、愛しい女性も、生きる意味も。
「それからは、特に言う事は無い。それから俺は、ずっと負け犬として過ごしてきた」
潔く命を絶つこともせず、わずかに残された剣の腕に縋って。光の当たらない裏通りで、人や魔物を斬りながら。
「だが、その剣に対する自信すらも、エルウィンに負けた事で揺らいでいた。稼ぐため、剣の腕を磨くためとうそぶいて、俺がことさらに他人を傷付けてきたのは、単にその自信を取り戻したかったからだ」
今日まで自分でも認められなかったその事実を、フロイドは今、アルフェに向けて語っている。フロイドは訴えかけるようにアルフェの目を見て、アルフェも目をそらさず、その話を聞いていた。
「ようやく自信を立て直したと思った頃、ユリアン・エアハルトに会った」
「そ、その人って……」
その名を耳にしたイルゼは、また驚いた表情をし、ヨハンがそっと、彼女を制止する仕草をした。二人の邪魔をするべきではないと、ヨハンの静かな瞳が、イルゼに伝えている。
「その時は、戦わずして負けた。負け犬が、かみつく事も、吠える事も出来なかった」
「…………」
「ひれ伏すしか無かった。俺はどこまでも負け犬だと、そもそも負け犬だからミリアムに見放されたのだと、ようやく分かった」
「……それは」
「何も言うな。まだ、俺の話が終わっていない。何か言うなら、終わった後にしてくれ」
初めて言葉を発したアルフェを、フロイドは止めた。
アルフェは開きかけた口を閉じた。
「……ユリアンに屈した後の俺を、アルフェ、お前は知っている。中身も無く粋がっていた俺を、お前がもう一度、打ち砕いた。……お前は強い。俺よりもずっと。そして何より、強くなるために必要なもの――俺には無い何かを、お前は持っている」
「…………」
「俺はそう思った。だから、お前に付いていきたいと思った。お前がこれから何をするのか、見届けてみたいと思ったんだ。そうすれば、俺も強くなれるかもしれないと思ったから」
フロイドは黙った。そして数十秒の沈黙の後、これで全部だと彼は言った。
「……どうして、そんな。こんな話をしてまで、あなたは、私に何を」
たどたどしく、アルフェが尋ねた。フロイドは苦笑し、話が逸れたなと言った。
「自暴自棄になっても、仕方無い。それが俺の得た、少ない教訓の一つだ」
「…………」
「だから、食べるんだ」
「……え?」
「せっかくイルゼが用意してくれた食事だ。それに、まだ、満腹になってないだろう? だから、食べた方がいい」
「…………」
「食べたら、眠った方がいい。自分で思うより、今のお前は疲れている。今は、休んだ方がいい。そういう時があってもいいはずだ。俺からのお願いだ。頼むから、休んでくれ」
フロイドの話は長かったが、料理はまだ湯気を上げている。アルフェはそれに目を落とした。
「イルゼ、ヨハン、済まなかった。埒も無い話に付き合わせて」
「え、ううん、別に……」
「今の話は、二人とも、忘れてくれるとありがたい。――アルフェ」
名前を呼ばれて、アルフェはピクリと身じろぎした。
「俺は先に宿に戻る。伝えたい事は、伝えたからな」
フロイドは席を立った。
アルフェが今の話を聞いて、何を感じたのかは分からない。ただ、冒険者組合を出るフロイドの背中に、アルフェが食事を再開した気配だけは伝わって来た。




