【幕間】 竜窟
「……今の揺れは、地震か?」
揺れが完全に収まるのを待って、マキアスは壁に突いていた手を離した。
突然の鳴動に地下全体が震え、その揺れは数分近くも続いた。咄嗟に壁に手を突かなければ、立っていられなかったかもしれない。
魔物との実戦稽古のために、彼が潜っているこの竜窟は、古代遺跡と天然の洞窟が一体化したダンジョンだ。天井からは、まだぱらぱらと砂埃や石塊が落ちてくる。その様子を見ながら、マキアスは言った。
「無事ですか?」
「……はい、大丈夫です」
マキアスの近くから、女の声で返事がした。
「本当ですか、どこか怪我をしたんじゃ――」
「……大丈夫、です」
マキアスに返事をしている女――黒髪の魔術士メルヴィナは、大丈夫と繰り返しながらも、歯の根が合わないほどに、ガタガタと身体を震わせている。マキアスは剣を鞘に収めると、彼女に近付き、優しく声をかけた。
「もう地震は収まりましたよ。怯えなくても大丈夫です」
「…………」
メルヴィナは、よほど地震が嫌いだったのだろうか。マキアスがそう言っても、その震えは止まりそうになかった。その場に両膝を突き、いつもの色白の顔を更に蒼白にさせて、己の杖に両腕でしがみついている。
「まるで、地竜があくびしたみたいだったけど――」
励ますつもりで、マキアスはわざとそんな軽い言い回しを使った。
地竜があくびをした。地震の際、帝国で良く用いられる慣用句だ。しかし、幼い子供ならともかく、本当に地面の下に何かが居て、地震を起こしているのだと信じている者は居ない。
居ないはずだったのだが――
「ひっ――――!?」
メルヴィナは杖を手放すと、両手で耳を塞ぎ、より小さくうずくまってしまった。ころころと、マキアスの足下にメルヴィナの杖が転がった。
これは明らかに、マキアスの言葉に反応したからだった。その余りの怯えように、マキアスは一瞬呆気にとられ、誤るのも訂正するのも忘れてしまった。一体彼女は、何をこんなに恐れているのだろうと、不思議に思ったからだ。
「…………あ、いや。すみません! 変な事言って」
だが、発言に落ち度が有ったのはマキアスだ。彼は我に返ると、メルヴィナに勢いよく頭を下げた。世の中には、地震や暗闇などを必要以上に怯える人も居ると聞く。それに、メルヴィナは北大陸からやって来た異邦人だ。文化の違いというのも有るかもしれない。
メルヴィナはずっと震えていたが、それでも十分も経つと、その様子は段々と落ち着いてきた。怪我も本当に無かったようなので、マキアスは少し安心し、杖を拾ってメルヴィナに差し出すと、周囲を見渡して、空気を切り替えるように言った。
「あいつは――」
「俺も無事です、マキアス」
マキアスが「あいつはどこだろうか」と言おうとしたところで、道の先から男が戻ってきた。男の名前はクラウスという、メルヴィナの従者だ。彼はマキアスたちから少し離れて、この先の様子を偵察していたのだ。
「あ、ああ、良かった」
「ここからは慎重に進みましょう。落盤の危険があるかもしれない」
クラウスは言った。従者のくせに、この男はメルヴィナが震えていることに、あまり注意を払っていない。冷たいからなのか、それとも鈍感だからなのか。マキアスにはまだ、この男の性格がよく分からない。
「そうだな。――だが、メルヴィナさんが」
「……大丈夫、です。私は行けます」
「そんな震えてるんです。無茶ですよ」
もう大丈夫と言い張るメルヴィナを、マキアスが止めた。クラウスはそれでようやくメルヴィナの異常に気がついた様子で、少し休憩しましょうかと提案した。
松明の明かりだけが周囲を照らす闇の中で、三人は小休止を始めた。
メルヴィナは瓦礫に腰を下ろし、両手で頭を抱えてうつむいている。休憩と言ったのに、クラウスは再び周囲の様子を偵察しに行った。マキアスは手持ち無沙汰に、腰の短剣の鞘をいじり回していた。
マキアスが一人で潜るはずだったこの竜窟に、メルヴィナとクラウスがくっついている。そこには、事情と言うほどでもない事情があった。
――この二人も連れて行くんだ。
――目的地は“奥”だからね。万一の事が無いように。
――心配しなくていい。二人は戦える。
――もしかしたら、お前よりもな。
マキアスに竜窟探索を命じた、第一軍団長のヴォルクスが、二人を連れて行くように命令したからだ。
高危険度のダンジョンへの、単独行だとばかり思い込んでいたマキアスは、それを聞いて肩すかしを食った思いだった。直前に、自分が妹のステラと繰り広げた、今生の別れのようなやり取りは何だったのかと。
――いや、失礼だろ。そんな事を考えたら。団長は俺の事を心配してくれたんだし……。それに三人パーティーだからって、ここが危険な場所な事には変わり無いんだしな。
「メルヴィナさん」
マキアスは自分の考えを打ち払うように、まだうつむいているメルヴィナに声をかけた。何か、メルヴィナの気を紛らわす話をした方が良いのかもしれないと、マキアスは考えたのだ。
「……はい」
メルヴィナがマキアスの声に反応し、顔を上げた。その顔には、血の気がほんの少しだけ戻っている。
「メルヴィナさんは、やっぱり優秀なんですね」
「……え」
「あの魔術……、詠唱の精度も術の威力も、凄かったですよ」
「……そんな、ことは」
メルヴィナは謙遜したが、ヴォルクスが「この二人は戦える」と言った通り、メルヴィナとクラウスは、かなり戦闘慣れしていた。ここまでに、三人は既に相当数の魔物を切り払ってきたが、誰も目立った手傷は負っていない。
神殿騎士のマキアスは当然として、メルヴィナとクラウスの動きは、明らかに実戦経験を積んだ者の動きだった。訓練所で棒きれを振り回し、人間同士で打ち合っているだけでは、とてもああは行かない。
「しかも、しっかり帝国式の術式だったし――」
メルヴィナが北方大陸から魔術留学に来ているということを、マキアスは忘れていない。北の方は魔術式も帝国と多少異なると聞いていたのに、メルヴィナはきちんと帝国流の魔術を使いこなしていた。
彼女がマキアスに同行しているのは、これが彼女にとっても、魔術の訓練の一環になるからなのだろう。なら、その技量を褒めるべきだとマキアスは思った。こういう女性への対応は、やはりテオドールの受け売りだ。
「使う魔術の判断も良かったですしね」
戦闘において、メルヴィナは雷撃などの破壊術を主に使っていた。下手に火球や爆破の術を使用して、ダンジョンの崩落といった事態を避けようという配慮だろう。そういう動きからも、メルヴィナが戦闘慣れしているというのは伝わってくる。
「こういうダンジョンには、前も入ったことがあるんですか?」
それらのことを総合的に判断し、マキアスはそうなのかもしれないと思った。だから何気なく聞いたのだが……。
「……違います」
なぜかメルヴィナは、やけに頑なな調子で否定した。
「この先に昆虫種のコロニーがありました」
ちょうどそこで、クラウスが偵察から戻ってきた。マキアスはメルヴィナとの会話を中断し、彼と進む方向の相談を始めた。
「昆虫種……ジャイアントビートルか」
「その上位種のようですね。少なく見積もって、成体が五十はいます」
「手強い?」
「恐らく」
クラウスという男は慎重派だった。三人の中で一番その類いの技能に長けているというのもあるが、進んで斥候を買って出て、頻繁に偵察に出る。そして慎重派だけあって、手強いと判断した敵は、できるなら避けて通りたいのだろう。言葉にそういう気配がにじみ出ていた。
しかしマキアスは、まさに手強い敵と戦いに、ここに来ているのだ。
「俺は戦いたい」
「分かりました」
マキアスが言うと、クラウスはあっさり頷いた。
「ヴォルクス様にも、あなたの希望を優先するようにと言われています」
「助かるよ」
「いえ」
マキアスがクラウスに対し、砕けた言葉遣いを用いているのは、クラウスの方からそう求めてきたからだ。自分はメルヴィナの従者だから、マキアスとメルヴィナが対等な口をきいているのに、自分にまで敬った言葉遣いをする必要は無い。そういう論法だった。
クラウスはマキアスとやり取りをしながらも、マキアスと目線を合わせず、常に周囲を伺うような目配りをしている。
物腰は丁寧で、探索の頼りになる技能を持っているが、必要最低限の事しか話そうとしない。どこか愛想の悪い男だった。
もとよりメルヴィナも、極端に口数が少ない。この二人が主従というのは何だかお似合いな気がしたが、帝都に来る前は、二人きりで移動することが多かったというから、さぞかし静かな旅だったのだろう。
――俺が前衛。クラウスが攪乱。メルヴィナさんは、敵が集まったところに攻撃魔術。
三人で昆虫種のコロニーに忍び寄り、手頃な岩の影に隠れると、マキアスは声を立てず、ハンドサインで他の二人に指示を出した。二人とも、特に戸惑うこと無く頷く辺り、やはり場慣れしている。
マキアスは、剣に神聖術をまとわせた。もともと、治癒術以外は不得手だったが、最近はこんなことも試しながら、少しでも強くなるために試行錯誤している。
クラウスが腰のベルトに刺した細い筒を取り出し、メルヴィナが目を閉じて、無音で詠唱を始めた。
――行くぞ。
マキアスが合図すると、男二人が岩陰から飛び出した。
同時にクラウスが、細い筒を魔物が集まっているところに投擲した。筒は一匹に当たって内容物をぶちまけ、バチバチという音と光を発する。闇の中に突然生じた強い光に、魔物は嫌がり身を竦ませた。
「シュッ!」
気合いを出来るだけ低く抑えて、マキアスが虫に切り込む。昆虫種の弱点である甲殻の隙間を狙わず、敢えて甲殻に刃を当て、引いた。
ぱっくりと甲殻が断ち割られる。毒々しい色の内臓が露出したところに、止めの一撃を見舞った。
クラウスも確実に敵の数を間引いていく。彼は、マキアスが使っている長剣よりも刃渡りの短い、片手で扱うのに適した剣を使用している。それを左手に持って、時折空いた右手を使い、魔術の矢などの初歩的な魔術を放っていた。
マキアスとクラウスに押され、いくつかの群れになっていた魔物たちが、徐々に一塊になっていく。
「どいて下さい!」
メルヴィナが叫んだ。男二人は素早く後ろに跳ぶ。
魔物の集団の中心に魔力が収束する。それは放射状の雷撃となって、魔物たちを一斉に貫いた。
洞窟に焦げ臭い匂いが漂う。まだ動いている魔物に止めを刺そうと、再びマキアスたちが前に出て行った。
「片付いたな」
昆虫種のコロニーにいた成体を全滅させると、マキアスは剣を一振りして、付着した黄褐色の体液を払い落とした。
「確認してきます」
クラウスは、敵がどこかに隠れていないか見回りに行った。本当に慎重派な男だ。きっと石橋が目の前にあったら、叩いてから渡るタイプの人間だ。
「メルヴィナさんは――」
「……問題、ありません」
離れていたメルヴィナも近寄ってきた。当然手傷は負っていない。マキアスは頷いた。
既に中層まで潜ってきたこともあって、今戦ったのは、かなり上位の魔物だった。しかしそれを、たいした苦戦も無く駆逐することが出来た。甲殻の堅さや動きの機敏さから見て、仮にこの魔物たちと、駆け出し騎士の一個小隊が戦ったら、逆にあっさり返り討ちに遭ってしまうはずだ。
三人の連携が取れてきたということもあるが、それ以上に、マキアスは着実に力を伸ばしている自分を感じていた。この戦闘では、敢えて弱点を狙わず、甲殻を斬るという無茶もしてみた。それでも問題無く倒すことができたし、剣に刃こぼれも浮いていない。
――よし。
刃の状態を確かめて、手ごたえを感じたように頷くと、マキアスは一旦、剣を鞘に収めた。そして顔を上げ、周囲を見渡す。地面には、多数の魔物の死骸が、まだぴくぴくと脚を動かしている。
――焼き払った方がいいかな?
一瞬そう考えたが、すぐにやめておこうと考えを改めた。
焼き払うとは、壁面におびただしく産み付けられた、卵の事である。透き通った卵のうの中に、今しがた殺した魔物の幼体が、ほんのり淡い魔力の光を放ちながら、眠っているのが見える。
これがふ化しないように、念のため燃やしてしまおうかとも考えたのだが、そんなことをしても、さして意味は無い。この竜窟内では、魔物はどこからかやってきて、無尽蔵に繁殖する。いちいち燃やすのは、無駄な労力というものだった。
――ま、世話をする奴がいなくなったんだ。放っておいても死んじまうか、他の魔物の餌になるだろうしな。
これがアルフェなら、持ち帰って店で売るとか、焼いて食うとか言いだしかねないところであるが、マキアスにはそうしたゲテモノ趣味もない。
そうと決めたら、さっさとこんな気色の悪い場所からは離れてしまいたい。これが、彼らが全滅させた本日八つ目の魔物の巣だ。この層の魔物は、これで大分数を減らしたはずである。
昼も夜もないダンジョンの中では時間感覚が曖昧だが、松明の減り具合を見るに、外はもう夜になっているに違いない。更に深層に潜る前に、一度拠点に戻って野営するのがいいだろう。
「【――――】」
「ん?」
マキアスが考え事をしていると、隣から呪文の詠唱が聞こえた気がした。彼がそちらの方を向くと、ちょうどメルヴィナが魔術の詠唱を終えたところのようだった。
何の呪文だったのか、マキアスには判別が付かなかった。二人とも無傷だから治癒術ではないし、何か防御魔術をかけ直したのだろうか。あまり聞かない様式の詠唱だった。
「今の魔術は?」
マキアスは素直に尋ねた。
「……気になさらないでください」
か細い声で、メルヴィナが答える。
「……私が使う術に必要なものを、集めていただけですから」
どこか自虐的な、自嘲ともとれる響きが、その言葉には感じられた。
彼女が集めたものとは何だろうか。彼らの周囲に転がっているのは、魔物の死骸だけだ。集める物など、特に無い。だがマキアスは、さらに質問することはしなかった。
この人はあれだけ地震が怖いのに、魔物の死体は怖くないんだなと、どうでも良いことを考えただけだ。
「間違いなく全滅していました。――そろそろ、野営地に戻りますか?」
奥からクラウスが戻ってきて、マキアスが考えていたのと同じことを言った。




