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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第四章 第七節
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203.神の怒り

 醒めることの無い眠りに落ちた少女を放置し、ディヒラーは一人、深淵を眺めていた。

 この深淵の底に、久遠の時を生きる太古の獣がいる。矮小な人類の事を歯牙にもかけず、悠々と眠っている。世界の真実を一つ知った彼は、大きな満足感と幸福感に包まれていた。これは本物の感覚だと、数十年ぶりに断言できる。

 常に幻術によって他者の感覚を支配し、偽り続けた彼は、いつの間にか己が見ているものにすら不信感を抱くようになっていた。何を見ても、これは本物なのかと疑ってきた。

 その感覚が今日は無いのだ。この清々しい気分は、当然のことであろう。


 巨獣は、彼の背後に居る銀髪の少女と同じように眠っている。こうしてただ眠っているだけで、その気配が、人間にとっては魔物を払う結界となるのだ。それを知らずに、人は結界を神の御技と崇めている。何とも愚かしく、憐れで、滑稽なことか。

 どれだけ眺めても、飽きる気はしない。しかし、偽りの鍵によって開かれた封印は、時間が経てば元に戻るだろう。蓋は再び硬く閉じられ、巨獣はここで眠り続ける。名残惜しいが、去る時を選ばなければならない。

 最後に、ディヒラーは深淵の前でひざまずくと、もう一度巨獣に祈りを捧げた。


 その時――


「…………にわかには信じられんな。あの術を破るとは」


 眠っていた少女が、立ち上がる。

 ディヒラーが彼女に用いた術は、決して解ける事の無い眠りの魔術だ。これにかけられた対象は、生命を停止するまで、甘い幸福な夢を見続ける。

 眠りが覚める事は無い。夢を夢だと喝破し、術を破らない限りは。

 しかし、この術が見せる夢は、対象にとっての理想の世界だ。それは現実の感覚をもたらし、いつまでも終わる事は無い。本物と区別が付かない偽物は、当人にとっては本物と同じだ。この夢を真実だと信じて眠り続ける方が、よほど幸福になれるのというのに。

 ディヒラーは、深淵を見たままで言った。


「小娘とみて、お前を侮っていたよ。……しかし、術はまだまだある。次は、今のように甘やかな夢を見られるとは思わない事だ。自ら死を選びたくなるような、凄惨な……」


 振り返ったディヒラーの目に、映っていたものとは。


「な……?」


 そこに居るものを見て、動揺したディヒラーが出したかすれ声は、ベレンを模したものではなく、聞いたことの無い老人の声だった。


「お前は……?」


 言葉でどう言おうと、ディヒラーもまた、目に映る表象に支配される、ただの人間に過ぎなかった。ディヒラーはその時、そこに居る者が見た目通りの小娘では無いことを、本当の意味で理解した。

 立ち上がったアルフェの周囲が、陽炎のように揺れている。彼女の内側で、倒れる前の何十倍もの魔力が、濃密な渦のように荒れ狂っている。ディヒラーを見据えた瞳には、水のような碧に混じって、紅い焔が燃えていた。


「お前は、何だ――?」


 アルフェの魔力に呼応したように、地下空間全体が鳴動を始めた。天井の鉱石がばらばらと剥離し、深淵の底に向かって落ちていく。無意識のうち、ディヒラーは一歩後ずさっていた。


 そして、深淵の底にいる巨獣が、眠りを妨げられたように、ほんの少しだけ身じろぎした。


「うおッ!?」


 その時に起きた地震は、トリール・ノイマルク地方だけでなく、帝国全土を激しく揺らした。ディヒラーは、まさにその震源に立っている。彼にとって、揺れの大きさは外に居る人間の何倍も大きく感じられた。

 しかし、問題なのは地震などではない。


「まさか、巨獣が、目を覚ます……!? 何だ、何をしている!! 何者だ、お前は――!!」


 ディヒラーは唾を飛ばして叫んだ。

 彼は急に、目の前の娘の事が怖くなったのだ。分からない。故に恐ろしい。そんな感覚も、彼にとっては数十年ぶりの事だった。

 ディヒラーはいくつもの魔法陣を展開させていく。巨獣がまどろみから覚めようとしているせいか、地下空間全体の魔力が不安定になり、魔術の発動が阻害されている。だが、ディヒラーの技量ならばそれも補える。


「眠るがいい!!」


 しかし、ディヒラーが放った高位魔術の束を、アルフェは片手の甲で、事も無げに弾き飛ばした。


「――おおお!?」


 また一歩、ディヒラーは後ずさる。深淵の崖ギリギリに立って、彼はそれ以上後退することができなかった。


「ライムント・ディヒラー……」


 アルフェが、ディヒラーに向かって初めて声を発した。それは、地の奥底から響いてくるような、ドス黒い感情の籠った声だった。

 この娘が何者で、これから何が起ころうとしているのか、それは不明だ。だが自分は、この娘の、本当に触れてはならない逆鱗に触れた。それだけは、ディヒラーにも理解できた。


「――む!?」


 ディヒラーは目を見張った。

 まるで空間そのものを飛び越えるような速度で、アルフェの身体はディヒラーの眼前に出現した。そして、ディヒラーの心臓めがけて突き出された彼女の手刀は、ベレンの渾身の一撃にも匹敵する迫力をまとっていた。


「無駄だ!」


 しかし、そこに居た驚愕している自分さえ、ディヒラーにとっては幻なのだ。アルフェの攻撃は何にも命中せず、ただ空気を切り裂いたに過ぎない。何者も、ディヒラーに触れる事など不可能なのだ。


「儂の姿を捉えることなど、お前には……。――う!?」


 アルフェの首が九十度回り、不可視のディヒラー本人が居る場所に向けられた。原理は不明だが、見られている。ずっと他人から覆い隠してきた自分の姿が、この娘には見えている。ディヒラーの恐怖は加速した。


「この――化け物め!!」


 向かってくるアルフェに対し、ディヒラーは破壊の魔術を繰り出した。幻術にこだわり続けた彼にとって、それは己の哲学に反する行為だったにも関わらず。恐ろしさ故に、ディヒラーは、そうせざるを得なかったのだ。

 だが、数十本の魔力の矢をはじき、雷を躱し、爆発を意に介さずにアルフェは進む。彼女の瞳に宿った紅い光が、一筋の光の線を描く。


「………………おお」


 そして気付いた瞬間には、アルフェの白い右腕が、五層の防御魔術を引き裂いて、その先にいた一人の皺まみれの老人の胸を貫通していた。


「おおお…………!」


 老人は、わなわなと両手を震わせる。アルフェは何も言わず、右手に掴んだ彼の心臓を握り潰した。


「お、まえ、は……」


 アルフェの腕が胸から引き抜かれても、ディヒラーは立ったまま、何かを言おうとしている。

 アルフェはそんな老人の頭を無造作に掴むと、奥に見える深淵に向かい、力任せに放り投げた。

 放物線を描き、ディヒラーの身体が、常闇の中に消えていく。その姿が完全に見えなくなった時、地下空間の振動は収まった。


「…………」


 戦いは終わった。

 終わってからもしばらく、アルフェは無言で、ディヒラーが落ちていった深淵の底を見つめていた。


「――ぐ」


 こみ上げてくるものを堪えきれずに、アルフェはその場に両膝を突いた。かすかな嗚咽が、地下空間に響く。

 しかし、アルフェがそうしていた時間は短かった。

 まだ自分にはやるべき事がある。やれることが残っている。外ではまだ、ベレンがエドガー・トーレスと戦っているはずだ。クラリッサとイエルクを助けられなかったにしても、いや、だからこそせめて、ベレンに加勢し、彼だけでも生き残らせてやらなければ。そうしなければ、あまりにも救われない。

 ふらつきながら、アルフェは立ち上がった。


 ディヒラーとの戦いで、彼女は届きようもない強敵に届くため、酷く無理をした。普段なら使わないような魔力の使い方をし、ほんの数十秒だけ、ディヒラーを上回る強さを手に入れた。あれを二度やれと言われても、彼女には再現出来ない。

 その無理の反動が、今のアルフェを襲っている。地上に戻る階段を上りきることすら、現在の彼女には困難に見えた。

 しかしそれでも、アルフェは動くことをやめようとしない。


 そして、彼女がよろめきながら地下空間の出口にさしかかった時、誰かが階段を降りてくる気配がした。


「ベレン将軍……?」


 そう呼びかけたのは、単なるアルフェの願望に過ぎなかった。

 ベレンがエドガーとの一騎打ちに勝利し、ここまでアルフェを追ってきたのだと。だが、これがベレンであるならば、秘蹟の間に横たわった彼の妻子の遺体を越えて、ここまで進んでくる事は有り得ない。有り得ないのだ。


「――この、背教者どもが」


 階段を降りてきたのは、パラディンのエドガー・トーレスだった。

 鎧の前面は断ち割られ、神盾を握っていた右腕はちぎれ飛び、おびただしい出血は、動いているのが不思議なほどだ。


「貴様などが、この聖地に、無断で立ち入るなど……!」


 その「聖地」の正体を、彼は知っているのだろうか。知っていてなお、その激烈な信仰心を保ち、己の身体を支えているのだろうか。

 アルフェに対する呪いの言葉を吐き、怒り狂った表情で、エドガーは歩を前に進めてくる。ベレンがこの男に敗北したという無慈悲な事実を、無理矢理に喉の奥に飲み込んで、アルフェは身の内に残った僅かな魔力をかき集めると、拳を構えた。


「……抵抗する気か? いいだろう、貴様もあの男の後を追わせてやる……! 神の怒りを、受けるがいい!」


 エドガーはアルフェに向かって突進し、左腕のメイスを振りかぶる。五体満足な状態と比較すれば、エドガーの攻撃は問題にならないほど遅い。だが、それでも彼はパラディンであり、並の騎士では全く及ばないような一撃を繰り出してきた。

 アルフェにしても、万全であれば今のエドガーには勝てただろう。しかし衰弱し切った彼女には、何とかエドガーの初撃を避けつつ、魔力の宿らない軽い拳を、相手の鼻面にぶち当てる事で精一杯だった。


「――ぬう!」


 エドガーは、鼻血を出しながらも前に出て、アルフェの腹に膝蹴りを見舞った。


「がはっ――――ぐッ!」


 腹をかばうように、身体を前に折り曲げたアルフェの後頭部に、エドガーのメイスの柄が叩き込まれる。地面に顔をめり込ませ、うつ伏せになってアルフェは倒れた。


「お前たちは、禁忌を犯した! これは、神への冒涜だ! お前たちは、苦しまなければならない! お前たちは――!」


 血走った目でそう叫びながら、エドガーは、四つん這いになったアルフェの背中に、メイスを何度も振り下ろした。メイスの先端に生えた棘が、アルフェの血と共に、赤い魔力の雫をまき散らしている。アルフェが感じている痛みは何倍にも増幅され、彼女を苛んだ。


「苦しめ! 苦しめ! 苦しめ! 苦しめ、背教者め! 苦しんで、死ね! そして、冥界でも苦しむがいい!!」


 一際大声で言い放ったエドガーは、アルフェに止めを刺すために、彼女の後頭部に目標を定めた。


「…………な、に」


 しかし彼が振り上げたメイスは、切断された彼自身の左腕と共に、振り上げた勢いのままにくるくると飛んでいく。


「そんな、馬鹿な……! 神よ……!」


 エドガーが後ろを振り向くと、それと同時に襲ってきた剣閃が、彼の頭を目線の上から切り飛ばした。


「……地獄で苦しむのは、貴様の方だ。そんなものが、本当にあるならな」


 怒りの声と表情でつぶやいたのは、アルフェに遅れてこの地にやって来たフロイドだった。



 アルフェたちが地下空間から脱出し、秘蹟の間から大聖堂の入り口にたどり着くまでに、彼女たちを遮る敵は現れなかった。遮る勇気のある者は、アルフェやフロイドが侵入したとき、出て来て既に死んでいる。大聖堂の通路のあちこちには、そういった神殿騎士たちの死体が点々と転がっていた。

 残った教会の人間たちは、全員が部屋の中で、ひっそりと息を殺している。

 フロイドがクラリッサとイエルクの遺体を運び、アルフェは何とか自力で立ち上がって、大聖堂の正門までやって来ることができた。そこには、激しい戦いの跡があった。門扉や噴水は滅茶苦茶に壊され、土も芝生もえぐられて、整えられていた緑は見る影も無い。傾き始めた夕日が、荒廃した前庭を紅に染めている。


 そしてその前庭に、傷だらけのベレンが、大剣を硬く握りしめたまま倒れていた。


 フロイドが大聖堂にたどり着いた時には、ベレンはエドガーに、既に打ち負かされた後だった。


「…………」


 ここに来るまで、アルフェもフロイドも、終始無言だった。

 だがお互いに、やらなければならない事は知っている。ベレンの身体も担ぎ上げようと、フロイドは前に出た。


「……私が」


 アルフェはそれだけを言い、フロイドを制止した。

 その時である。彼女がベレンの脇にしゃがみ込むと、死んでいるようにしか見えなかったベレンが、少しだけ身じろぎをした。


「――っ! ベレンさん!」


 アルフェはベレンに呼びかけた。するとまた、少しだけ反応があった。

 彼はまだ死んでいない。だが、虫の息である事には変わりない。死んでいないだけで、もう死ぬのだ。数分と経たずに、息を引き取ることは間違い無いだろう。


「ベレンさん、しっかり……!」


 それでもアルフェは、彼に向かってそう呼びかけた。


「しっかりして下さい……」

「うぁ……」

「――! ベレンさん、ベレンさん! ……え? 何ですか、ベレンさん!」


 アルフェが耳を寄せると、ベレンは、辛うじて聞き取れる声でアルフェに聞いた。


「クラリッサと……、イエルク、は……」

「ベレン……、それは……」


 ベレンの言葉に、二人の遺体を抱えているフロイドが身じろぎをする。何かを言おうとした彼を、アルフェがまた制止した。


「――無事です」


 彼女の背中しか見えないフロイドには、アルフェがどういう表情をしているのかは見えない。既に瞳から光を失ったベレンにしても、それは同じだ。

 だが夕日の中、力強い声でアルフェは言った。


「二人とも、無事です。怪我一つ有りません。――安心して下さい」


 それはとても明るい、溌剌とした、希望に満ちた声だ。


「そう、か…………」


 その言葉を聞いて、命の火が消えかかる直前、ベレンは僅かに微笑んだ。


「ありが、とう…………、冒険者、殿…………」


 そしてその微笑みは、彼が息絶えた後も消えなかった。

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