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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第四章 第七節
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201.幻術士ライムント・ディヒラー

 聖堂こそが、結界を司るものである。教会はそう、民に教えてきた。


 かつてエアハルトで、新しい結界を作ろうとした人間がいた。

 今はエアハルト伯となったユリアン・エアハルトの弟、クルツ・エアハルトがその人である。

 新しい結界を作るために、彼はまず新しい聖堂を建設した。そして、その中である「秘蹟」を行えば、結界が完成するのだとクルツは信じていた。いや、クルツだけで無く、エアハルトにあるウルム大聖堂の主教や、助祭長のシンゼイもそれを信じていた。だからこそ、彼らはあれだけの財や人を投入して、聖堂を建設し、秘蹟を行おうとしたのだ。

 アルフェも、結界とはそういうものだと思っていた。

 人類に安寧を与えるため、魔物の侵入を拒む神の力。教会が秘匿している儀式が、その神の力を地上に発現させるのだと考えていた。

 アルフェやクルツたちだけではないだろう。この大陸の全ての民が、今もそれを信じている。教会がそう教えてきたからだ。


 アルフェがこれまで訪れた聖堂で、彼女が目にしてきた秘蹟の間は、のっぺりとした頑健な石壁に囲まれた、狭い室だった。

 エアハルトの時には、その中央に「遺物」を収めた聖櫃があり、廃都市ダルマキアの時には何も無かった。しかし、現在の彼女が立っている秘蹟の間は、それらとは大きく様相が異なっている。

 窓の無い厚い石壁に、四方を囲まれているのは変わらない。だが、その壁面にはびっしりと、細緻な紋様が刻まれている。紋様の密度は偏執的と言えるほどで、目をこらさなければ、石壁が黒く塗られているようにしか見えない。

 そして、床には更に大きな変化があった。秘蹟の間の中央の床には、黒い穴がぽっかりと口を開けているのだ。


「…………」


 いや、一瞬穴と見えたものは階段だ。とても急な石の階段が、地下に向かって続いている。

 アルフェは失望と混乱の中、僅かに残っていた理性を働かせ、背負っていたクラリッサの死体を、イエルクの骸の隣に横たえた。

 半開きになっていた目と口を閉じてやり、寄り添うように二人を眠らせた後、彼女は床の階段を見据えた。


 幻術士ライムント・ディヒラーが、この奥にいる。

 アルフェはほとんど、何か見えない力に突き動かされるように、階段へと足を踏み出した。


 階段の中は暗いが、真の闇ではなかった。壁に点々と魔術の光が灯されており、それが辛うじて、アルフェの足元までを照らしている。

 アルフェの視界が届く限り、階段は続いていた。ふらふらと、幽鬼のような足取りでアルフェは歩いた。彼女が見ているのは、階段の先だけだ。左右の壁や天井一面にも、秘蹟の間と同じように、執拗に紋様が刻まれている事に目を配る心の余裕など、今の彼女には無かった。

 地下への階段はどこまでも続く。深く深く、まるで地の底に至るのではないかと思うほどに、どこまでも。数百段は降りた頃だろうか、明らかな人工物であった階段は、いつしか自然の洞窟を加工したようなものに変わっていた。

 アルフェの周りを囲んでいる紋様は、全て古代文字で描かれたものだ。大聖堂という覆いができる遙か昔、古の賢者たちが永い時をかけて、それをこの地に刻んだ。これらの紋様は、一つの途方もなく巨大な魔法陣であり、大聖堂の周囲を円状に取り囲むように配置された遺跡と共に、千年以上の時を経た今もなお、効力を発揮し続けている。


 この紋様が、結界というものの正体なのか。


 ――いや、違う。


 ある地点から、徐々に周囲の温度と湿度が高くなってきたことに、アルフェは気付いた。じっとりと息苦しい感覚。まるで、ノイマルク各地に湧き出る温泉を連想させる空気。手を添えた壁が暖かい。その奥から、何かがどろどろと響いている。それは暖められた地下水が流れている音か、それとも、熱で溶けた岩が流れる音なのか。


「…………!」


 薄闇の中で、アルフェは目を見開いた。

 階段のはるか奥から、小さな高笑いが聞こえてくる。


 笑いは何時までも止まない。歓喜に身をよじり、転げ回り、地面を叩きながら、何時までも何時までも続いている。

 高笑いの主は、悲願が達成された事に喜んでいるのだ。長年見たかったものが、ついに見られたのだと。ようやく夢を叶える事が出来たのだと。その笑いは、まさに狂笑と形容するに相応しかった。


「…………ディヒラー」


 憎悪しか宿っていない瞳で、アルフェはつぶやいた。

 彼女の目の奥、頭の中で、また何かが焼き切れていく。薄闇の中で碧く光っていた彼女の光彩に、一点だけ、紅い色が加わった。

 段々と、アルフェの足取りはしっかりしていく。彼女の背中は、まだ乾いていないクラリッサの血に濡れ、足元には、パラディンに粉砕された鋼のグリーブの金具がまとわりついていた。

 アルフェは歩いた。誰が制止しようと、彼女自身であろうと、今の彼女の歩みを止めることは、不可能だっただろう。例え彼女の向かう先にいるディヒラーが、最高位の幻術士であり、パラディンに匹敵するほどの存在で、今のアルフェにとって勝算皆無の相手であろうとも。


 こんな怒りと憎しみは、コンラッドを奪われた時以来だった。


「ひひひひひひひひひひ!」


 そして、無限に続くと思われた階段も、ようやくに終わりが来た。


「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 アルフェの視界が開ける。百歩ほど先の地面に、無邪気に笑い、転げ回っているディヒラーがいる。

 ディヒラーはベレンの姿を精巧に模していて、それがまた、アルフェの憎しみを倍加させた。あの姿で、ディヒラーはクラリッサの胸を刺し、イエルクの喉を切り裂いたのか。


「儂は見た! 見たぞ!」


 ディヒラーは、虚空に向かって叫んだ。自分は見た。教会が秘匿してきた、この世の真実を見たのだと。そして彼は、また狂ったように笑い出す。

 彼らがいる地下空間は、地面の下とは思えぬほどに広大だった。地上にあった大聖堂が、幾百、幾千でも収まりそうな、とてつもなく巨大な空洞。天井では何かの鉱石が発光しているのだろうか、星空よりも濃い密度で、白い光が瞬いていた。

 地面の岩は黒く、確かな熱を持っている。壁面や天井から、時たま蒸気が噴き出すのも見えた。ディヒラーがいる辺りまでは、そうやって平坦な地面が続き、ディヒラーを越えた向こうには、深淵のような漆黒の闇が見えた。


「これが結界の正体か……」


 気が済んだのか、ディヒラーは、急にぴたりと笑いを止めると、感慨深そうに息を吐いた。


「皇帝家、教会、諸王国の王族。限られた者たちにしか伝承されてこなかった、これが世界の真実か……!」


 前方にある深淵に向かい、ディヒラーは祈りを捧げるような仕草をした。


「そう、これは言わば、人間たちの崇める“神”の、真の姿なのだ!」


 お前にも見えるかと、ディヒラーは突然、アルフェの方を振り返った。

 アルフェはディヒラーに向かい、足を踏み出す。近づいてくるアルフェを迎え入れるように手を広げ、ディヒラーは、彼が手にした真実というものを語り始めた。


「『結界』とは、古代の人間は、また大層な名前を付けたものだ……。しかしその仕組みは、ひどく原始的なものに過ぎなかった。――見えるだろう。感じるだろう、お前にも。それだけの魔力を有していながら、感じないはずはない!」


 ディヒラーが言葉を放つと、アルフェは自分の身体に、ひどく重たいものがのしかかったような感覚を覚えた。

 ディヒラーの幻術ではない。一瞬とは言え、何かがアルフェの脚を止めたのだ。ディヒラーが縁に立つ深淵に近づくにつれ、アルフェの脚は重たくなっていく。どうしようもない生理的嫌悪感のようなものが、胸の内で鎌首をもたげる。


「感じながら、それでも前に進めるのか……。やはり、お前は尋常の娘ではないな」


 ベレンの形をしたディヒラーの顔には、相変わらず満面に喜色が宿っている。

 ディヒラーは説明を続けた。彼は純粋に、自らが得たものを、アルフェとも共有したくてたまらないのだ。いっそ、今のディヒラーは無邪気な子供のようにさえ見えた。


「教会や王族だけでなく、かつては八大諸侯家にも伝わっていたのかもしれぬ。だが、ほとんどの記録は長い長い時間の中で失伝してしまった。……いや、そうではないな。敢えて忘れたかったのかもしれん」


 そう言うと、ディヒラーは急に、結界と魔物の関係について、アルフェに問いかけた。どうして魔物が結界に入ることができないか、お前は知っているかと。


「お前も経験したことがあるだろう。強力な魔獣の縄張りには、弱い魔物は恐れて入ってくることができない。魔物というのは、人間よりもはるかにそういったことに敏感なのだ。結界とは、そういった魔物の習性を利用した、酷く原始的なものなのだ」


 魔物と比べて、人間を含めた結界の中にいる動物は、比較にならないほど魔力が薄い。魔物たちが当たり前に感じている魔力の流れを、そういった動物たちは感じ取ることができない。


「だから、人間は結界の中で暮らせる。魔物が恐れて近寄ろうともしない場所に。足下に、それよりもはるかに強大で、恐ろしいものが眠っていることを知ろうともせずに」


 ここでアルフェが深淵に近寄って、その奥に目をこらしたら、何が見えたのだろうか。

 何も見えなかったに違いない。この深淵はそれほどに深く、闇が全てを覆い隠している。だが、その奥に存在する「何か」については、感じ取ることができたかもしれない。


「大地を揺らし、海をも断ち割ると謳われた古の巨獣たち。神とも呼ばれた、力と災厄の象徴。それが、各地の大聖堂の下に眠っているものの正体だ。大聖堂の周辺に張り巡らされた巨大な魔法陣は、彼らを鎮め、眠らせておくための人間の工夫なのだ」


 この深淵の底には、他の魔物を全く寄せ付けぬ程に強大な魔獣が、幾千年もの間眠り続けている。

 ここまでの結論を述べたディヒラーの声は、むしろ静かで、穏やかだった。


 ディヒラーの独白は続いた。

 結界に神秘的な力など何も無い。神が人間の居場所として結界を与えたという、教会の教義はただの偽りだと。人間は魔獣のねぐらの上に都市を築き、浅ましい日々の生活を営んでいる、一種の寄生虫のようなものなのだと。


「――この巨大な存在を前にすれば、人間がどれだけ卑小な生き物か分かるだろう。幻術を極めたと言われる儂ですら、彼らの前ではゴミ屑にも満たない。彼らこそ、儂が見たかった真実だ。この世で唯一、うつろわぬものと呼べる存在だ。彼らこそ永遠である! 彼らこそ、我らが崇めるべき存在なのだ!」


 そこまで言ってから、娘よと、ディヒラーはアルフェに優しく呼びかけた。

 アルフェの姿は、既にディヒラーの手が届きそうなところにある。アルフェは立ち止まった。


「今のお前が抱えている、儂に対する憎しみも、怒りも、悲しみも、全てはうつろって消えていく幻のようなものだ。あの親子の互いを思う心とて、悠久の存在の前では取るに足らない。――お前には、それが理解できるはずだ」


 アルフェに出会ったあの時、一目見て気付いたと、ディヒラーは言った。


「お前には素質がある。お前は、道を究めるために、他の全てを捨て去ることが出来る人間だ。自身の目的のためならば、他はどうでも良いと思える人間だ。――儂と、同じように。だから儂は、お前に、この光景を見せてみたいと思ったのだ。お前ならばあるいは、儂の思いが理解できるかと思ったのだ。――娘よ、娘よ! 儂と共に、真実を探求してみる気は無いか? 我々は、似たもの同士だ! だからこそだ! 娘よ! 儂と共に、儂と同じように!」


 熱烈に訴えかけてから、狂ったディヒラーは言葉を止めた。


 アルフェは何も答えない。

 ただ、その身体に、莫大な魔力が収束していく。

 彼女の顔面は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、獣のように牙をむき、全身が小刻みに震えている。


 彼女の中にある思いは一つだけだ。


 憎い。


 許せない。


 どうしてもお前が許せないのだと。


「………………残念だ。……お前も、儂を理解してくれないのだな」


 本当に残念そうに、ディヒラーは悲しい顔でうつむいた。同時に、二人の周囲の空間に、無数の高位魔法陣が展開されていく。

 その中で、アルフェの憤怒の咆吼が、地下全体を揺らした。

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おじいちゃんが少女に告白して理解されないと悲しみ怒る図 悪さをしなければ参謀になれたかもしれないのに
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