196.心の赴くままに
トリール軍が南下を始めたという報告が、前線から入ってきた。アルフェたちはその報告を、グロスガウ砦で聞いた。これまでは散発的な小競り合いしか行われてこなかったが、いよいよ両伯軍の戦力が、正面からぶつかり合うことになる。
ベレンたちが危惧したように、これまでノイマルクに友好的だった中小の諸侯は、伯の破門をきっかけとして急速に態度を硬化させた。トリールに援兵する諸侯も増え、単純な兵力で見ても、ノイマルクはかなり不利になってしまっている。
ベレンは完全装備で、兵を率いて前線に出た。あの男が本気で剣を振るえば、一万までの軍勢となら一人で渡り合える。ノイマルクは、それでどうにか兵力差を埋めるしかない。しかし、トリール側にもライムント・ディヒラーという化け物がいるという状況は変わっていない。アルフェにも、ノイマルクの勝算は薄いように見えた。
「俺たちはどうする?」
人気の無くなった砦の食堂で、フロイドがアルフェに尋ねた。
トリール軍南下の情報が入ってから数日経った今日も、アルフェとフロイドの二人は、相変わらず砦で待機していた。
ベレンは既に前線に到着し、両軍の主力は、領境近くの川を挟んでにらみ合う形になったという。衝突が始まれば、勝敗を問わず、両軍に甚大な被害が出るだろう。いや、前線とここの距離を考えれば、もう衝突は始まっているのかもしれない。
「ベレン将軍が、私に何かを頼んでくることはありませんでした」
アルフェは、がらんとした厨房に目を向けながら言った。
本格的な開戦を前に、ベレンがアルフェに対して、前線に立ってくれと頼んでくる事は無かった。今のベレンにとって、アルフェたちは喉から手が出るほど欲しい戦力であるにもかかわらず。何も言わず、ベレンは進発していった。
では、それはどうしてか。
「――私は、戦争そのものに深入りする気はありません。どちらかの軍の側に立って、相手の兵を殺すというのも、やりたくはありません。……始めに私がそう言ったのを、将軍は覚えているのでしょうね」
「……覚えていて、守ろうとしている。律儀な奴だ」
「私の気持ちは、今も変わっていません。戦争は、やりたい者たちでやればいい。私の目的とは、何の関係も無い。冒険者の仕事の範疇であると判断したことだけ、私は引き受ける」
「ああ」
口ではこう言っているが、もしもベレンが頼んだら、アルフェはベレンに力を貸したのだろうか。前にルゾルフの軍を引き返させたように、殺しを伴わない陽動くらいなら、引き受けたのではないだろうか。
それは分からない。ただ、今のアルフェは、ベレンに付いていくでもなく、依頼が無いからと言ってこの地を去るでもなく、こうして砦で待機している。
「パラディンは、動かないのかな」
ここにいる以上、話題はどうしても戦の話になる。フロイドがつぶやくと、どうでしょうかとアルフェが首を傾げた。
少なくとも、キルケル大聖堂にいるはずのエドガー・トーレスが、何か動きを見せたという報告は、まだこの砦には届いていない。
「パラディン殺しの調査は無事に終わったんだ。ベレンは約束を守った。神殿騎士団がベレンと対立する理由は無いだろう」
動かないのかと言ったのは自分のくせに、フロイドはパラディンが動かない理由をつぶやき始めた。もしかしたらこの男は、そうする事で安心したいのかもしれない。
「……ですが今のベレン将軍は、破門者です」
アルフェが指摘する通り、フロイドの論理は、ほんの十日前までは正しかった。
要求に従って、ベレンはエドガーにノイマルク領内を調査させた。約束は果たされたのだから、神殿騎士団にノイマルクを攻撃する道理は無い。例え調査の結果、新しいことが何も分からなかったにしてもだ。
だが、今はその時とは状況が違っている。破門者を討伐するのは、神殿騎士にとってこれ以上無い大義名分だ。アルフェの反論を受け、フロイドは苦い顔をした。
「……その通りだ。この破門が、トリール伯とライムント・ディヒラーが打った、次の策なんだろうな。この上にエドガー・トーレスが前線に出てくれば、ノイマルクにとっては駄目押しになる。……策という意味では、ノイマルクはトリールにずっと上を行かれている」
「ですが、卑怯だとは思いません。仮に卑怯だとしても、それが戦いでしょう。それらの策をかわすことも、将軍や伯の役目だったはずです」
「……ああ」
「今、我々がやることはありません」
アルフェは自分自身の意志を確かめるように、はっきりとした声で言った。
「依頼が無いのです。依頼が無い以上、冒険者は自分のため以外には働きませんから」
「……仮にだ。もし依頼が有れば、ベレンのために命をかけて戦うか?」
「……報酬が、それに見合ったものであれば考えます」
「さっきと、少し言っていることが違うな」
フロイドは苦笑いした。
アルフェはさっき、戦争そのものには深入りしないと言ったばかりだ。
「そうでしたか? ……でも、ベレン将軍はきっと、頼んでは来ないでしょうね」
「ああ。あいつは律儀な奴だからな」
二人はこのまま、戦いが終わるまで、ここでその成り行きを見守るつもりなのだろうか。さらに数日の時が経っても、彼らは砦の中に居た。
ノイマルクが敗れるにしても、それは単なる戦の結果に過ぎない。誰にも頼まれない以上、自分たちは動かない。アルフェとフロイドが心の整理をつけようとしていたところに、新しい報告が入った。
「冒険者の二人はいるか!」
食堂に駆け込んできたのは、いつもベレンの側にいた文官だった。この文官は、いつもこうして、慌てて走り回っている気がする。
「大変だな、あんたも。水でも飲むか?」
「そんな事を言ってる場合じゃ無いんだ!」
息を落ち着けるように勧めたフロイドの言葉を、文官は一蹴した。この文官にとって、ノイマルクは生まれ育った故郷である。それが危機にさらされているのだ。本質的に部外者のアルフェたちとは、どうしても温度差がある。
「俺たちに、何か用か?」
「ベレン将軍が大変なんだ!」
フロイドにつかみかかる勢いで、文官はわめいた。
この血相の変え方は、エドガー・トーレスかライムント・ディヒラーが、ついに前線に出て来たのか。ベレンは彼らと戦って、既に不幸な結果になってしまったのか。
「違う! 将軍が、将軍が前線から消えた!」
突然の話に、アルフェたちは耳を疑った。ベレンが前線から居なくなった。それは一体どういうことか。息を乱しながらも、文官は説明を続ける。次の文官の言葉に、二人は同時に顔色を変えた。
「クラリッサ様とイエルク君――将軍のご家族も、お屋敷から消えた! あいつらに、トリールに攫われたんだ! 将軍は、ご自分でお二人を取り戻すつもりなんだ!」
◇
「何だと……? どうしてそうなった」
そう聞き返したフロイドの声には、明らかに怒気が籠っていた。文官は、フロイドのシャツの胸を掴んで揺らした。そうしながら、文官は自分を責める言葉を吐き出した。
「私たちが愚かだった。将軍に言われずとも、私たちがご家族の身辺を警戒するべきだった。あいつらは始めから、将軍だけを狙っていたんだ。将軍さえいなければ、我々が無力だと知っているから――」
「落ち着いて事情を話しなさい」
アルフェが横から言った。狼狽えていた文官は、少女の凜とした声を受けて、どうやら落ち着きを取り戻した。
彼の説明によると、ベレンは周囲の誰にも事情を告げず、忽然と陣から姿を消したそうだ。それとほとんど同時に、リーネルンの町に居るはずの将軍の妻子が、何者かに攫われたという知らせが入った。
何があったのか。この状況を照らし合わせると、答えは一つだった。トリール伯がベレンの妻子を誘拐し、陣中のベレンに、何らかの方法でそれを伝えたのだ。ベレンはきっと、単独でその救出に向かったのだろう。
「……ベレン」
文官にシャツを掴まれたまま、虚空を見てフロイドがつぶやいた。ベレンの中でどういう葛藤が有ったのかについて、彼に推し量る術は無い。だが、将軍としての責務より、騎士としての誓いよりも、ベレンはそちらを選んだのか。
ベレンの妻子がどこに連れ去られたのかについて、情報は無い。少なくとも、ノイマルク領内ではないはずだ。最後に将軍を見た兵の話によれば、将軍がトリール方面に向かった事は間違い無い。だが、トリールと言っても広すぎる。首都のムルフスブルクか、それ以外の別の場所を目指しているのか見当もつかないと、文官は涙を流しながら言った。
「トリールにとっては、ノイマルク伯よりもベレン将軍が最大の脅威だった。将軍さえいなければ、トリールの勝利は確実になる。それはその通りでしょう。だから将軍個人を狙って、今回の罠を仕掛けてきた」
ぼんやりとするフロイドと、その胸にすがるようにして泣く文官。そんな男二人を余所にして、澄んだ声で、アルフェが状況を分析し始めた。
男たちは、二人して彼女の方に顔を向けた。
「そう、これは罠です。将軍と正面からぶつかり合えば、トリール兵にも大きな犠牲がでる。ライムント・ディヒラーでも、戦って勝てるかは分からない。パラディンも、思う様には動かない。だからトリール伯は、より犠牲の少なく済む方法を考えている」
トリール女伯の立場になって、アルフェは思考していた。ベレンの妻子が攫われたことや、ベレンが軍を置いて消えたことについて、今は何かの感情を差し挟んでわめいたところで、時間の無駄なだけだ。
「これまでもそうでした。自分たちの損失が少なく済むにはどうしたらいいか。それだけをトリール伯は考えてきた。御家族を連れ去った先を、伯は将軍に知らせたはずです。……それは、トリール軍が展開されている位置とは、無関係の場所のはず。怒り狂った将軍が、まかり間違って自軍に暴れ込んでくれば、大量の損失は免れないから」
ましてや、自分の居城にベレンが乗り込んでくる事を、女伯は望まないはずだ。自らの身に危険が及ぶことは、徹底して避ける。これまでの策略から、アルフェには、そういう女伯の性質が見えていた。
「……では、どこに将軍を導けばいい? どこを戦場にすれば、トリールの被害が最も少なくなる?」
アルフェは沈思黙考した。
女伯がベレンを一人で呼び寄せたのは、孤立した彼を確実に仕留めるためだ。だが、ベレンはパラディンに匹敵する戦士である。トリールの最高戦力であるディヒラーでも、一人では彼に勝てるか分からない。そう、ディヒラーだけでは。
「エドガー・トーレス……」
その名前を思い浮かべて、アルフェは女伯の思考が理解できた気がした。
パラディンのエドガー・トーレスと、ベレンが戦う場面を作り出すためにはどうしたらいいか。ベレンには、できるだけ不利な状況で戦って欲しい。パラディンには、できるだけ思う存分戦って欲しい。
ベレンがノイマルク伯に連座して破門宣告を受けたのは、その前振りの一つだ。
「キルケル大聖堂?」
アルフェは目を鋭くしてつぶやいた。
トリールとノイマルク領の狭間にある教会領。そこにある大聖堂に、エドガー・トーレスは滞在している。
破門宣告を受けた男がここに殴り込む事態になれば、どうなるか。エドガー以下の神殿騎士は、最大限の力を持って抵抗するに決まっている。そして十中八九、ベレンに勝ち目は無い。さらに万が一ベレンが生き残ったとしても、教会に牙をむいたという汚名は隠しようが無い。
では、ここまでの推測が正しかったとして、それで自分はどうするのか。アルフェは自問した。
ベレンや彼の妻子を助けてくれなどと、誰もアルフェに依頼していない。何の利益も出ない上に、自分の個人的な目的とも関わりが無いのだから、アルフェが動く理由は無い。この戦争もベレンのことも、アルフェには関係ない。それなのに、この世で最も警戒が厳重な場所の一つに、のこのこと出かけるのは愚の骨頂だ。
「そう、私には、関係ない。あの人たちの生き死になど、私には関係ありません」
アルフェはつぶやいた。
その瞬間、妻や息子について語るベレンの姿や、自分を歓迎したクラリッサの姿、化け物を見るような目で自分を見てきたイエルクの姿が、アルフェの脳裏に閃いた。
だけど、と彼女は言った。
「私は冒険者です」
フロイドと文官が、呆然とアルフェを見ている。文官の方に眼を合わせて、アルフェは問いかけた。
「あなたは、私たち二人を探していましたね。……何のためにですか」
それでようやく、文官は自分が何をしにここに来たのかを思い出した。
彼は藁にもすがる思いで、この二人の冒険者に、将軍を助けてくれと頼むつもりだったのだ。
しかし、こうやって冷静になった今、改めて考えると馬鹿な話だ。この娘よりもずっと年上の屈強な将校たちや、はるかに学問を重ねてきたはずの自分たち文官ですら、何も良い案が浮かばなかったのに。
どうしてこんな冒険者風情に、将軍を助けられると思ったのだろう。いや、そもそもどうして自分は、男の方では無く、この娘の方に顔を引きつけられているのか。
「わ、私は――」
瞬かない碧い瞳が、文官を見ている。それがまるで、ためらっている彼に、勇気を出せと責め立てているかのようだ。
将軍はこの冒険者たちを信頼していた。だから自分も、信じたいと思う。ごくりと喉を鳴らしてから、文官は口を開いた。
「どうか――、どうか、頼む。将軍を」
「――引き受けました」
文官が「助けてくれと」と言い切る前に、アルフェは承諾の返事をした。依頼ならば仕方が無い。依頼ならばやむを得ない。冒険者は、依頼さえ有ればどこにでも行くし、どこへでも行けるのだ。
だからアルフェは、ベレンたちを助けに行く。
「フロイド! すぐに準備をしなさい。これから私たちは、キルケル大聖堂に向かいます。ベレン将軍とその家族を、ノイマルクまで連れ帰る。そのために、道を塞ぐ者は誰であろうと排除します」
「――――!」
「報酬は、ノイマルク伯から貰いましょう。あの鎧でも剥ぎ取れば、十分にお釣りが来ます」
冗談か本気なのか、アルフェは真顔でそう付け加えた。
「フロイド、分かったなら返事をしなさい」
来ないなら置いて行く。だが、お前も来るのだろう。フロイドには、アルフェの目がそう語っているように見えた。
「――承知しました!」
フロイドの返事は、いつもと少し違っていた。




