185.演技派
春が近づき、ずいぶん暖かくなってきたものの、その日はどこか陰気な曇り空で、空気もじっとりと、不快な湿り気を帯びている気がした。そんな天気の中、森を貫くように走っている街道を、ノイマルク兵四千は行軍していた。
この四千は、ノイマルク首都ブレッツェンから出発した隊だ。トリールとの戦争のさなか、首都の守りとして、また予備兵力として残されていたはずのこの兵団が、なぜ急に北上を始める必要があったのか、兵のほとんどは理解していない。
「もう少し速度を上げられんのか?」
縦に伸びた軍勢の中程で、四頭立ての馬車の上からそう聞いたのは、ノイマルク伯のルゾルフだった。彼は伯家の秘宝である黒鉄の鎧を着込んで、緋色のマントを背中ではためかせていた。乗っているのは馬車というより、まるで古代の戦車のようだ。立派に手入れされた本人の髭も手伝って、少なくとも見た目だけは、まさに威風堂々という外観である。
「申し訳ありませんルゾルフ様。何分この辺りの街道は、整備が行き届いていないので……」
そう言って詫びたのは、宮宰のイマヌエルだ。彼の言う通り、街道の石畳は穴だらけで、雑草も生え放題である。これでは馬車も兵量を運ぶ輜重も、満足に速度を出せないだろう。全く不便なことだなと、ルゾルフは鼻息を荒くして苛立った。
しかし、ノイマルク領内の街道の整備を司る行政の最高責任者は、まさに伯や宮宰のはずであるから、二人のやり取りを聞いていた御者は、これは何かの洒落か皮肉なのだろうかと首を傾げた。
ルゾルフはその後も、最前列の指揮をとっている将校をしきりに呼びつけて、行軍の速度を上げろと叱りつけた。
しかしその将校にしてみれば、目的の分からない出動の上、彼の上司である近衛兵長が、この出動の直前にいきなり任を解かれて謹慎処分を受けたのだ。兵の士気を上げろと言っても無理な話だし、なぜ俺が、どうして兵長がという彼自身の不満もあった。
「最善を尽くします!」
それでも、臣下の辛いところだ。将校は敬礼してそう返すしかなかった。
そんなわけで、いつもの指揮者の元であれば、とっくに通り抜けていてもおかしくない森の中を、彼らはのろのろと進んでいた。
それどころか、正午を回ったころ、行軍は突然停止した。
「どうした! 何をぐうたらしておるか!」
ルゾルフは、当然そうやって怒り狂う。
「前方で何かあったようですな」
宮宰はそう言うが、彼らのいる場所からその様子を確認することはできない。業を煮やして、ルゾルフは自ら最前列を見に行くと言い、宮宰はそれに従った。
軍勢の最前列は、森と森に挟まれた狭い谷に入り込んでいた。その谷を、大きな岩と、根本から引き抜かれた大木が塞いでいた。
「何だこれは!」
「落石と倒木です」
「そんなことは見れば分かる! 早くどうにかせんか!」
「そう言われましてもね……、どかしてみますが、ちょっと時間がかかりそうです」
最前列でルゾルフの相手をした兵は、飄々と肩をすくめた。
その態度に、こめかみに青筋を立ててルゾルフは怒鳴った。
「ちょっとだと? 何がちょっとだ、この愚か者が!」
「いつまでかかるのだ。はっきり答えろ!」
ルゾルフの横から宮宰が聞いた。
「ちょっとはちょっとですけどねぇ……。ま、半月もあれば」
兵が面白そうに笑うのを見て、ルゾルフの顔が、茹で蛸のように赤くなった。
誰かこの無礼者を打ち首にしろと伯が叫びそうになったのを、さっきの将校が必死に押しとどめた。
「申し訳ありませんルゾルフ様! 私から強く言い聞かせます! おい、貴様も早く謝罪しろ!」
申し訳ありませんと、どこか軽い調子で兵は言った。そしてその兵は、他の兵の中に紛れていく。将校はふと、あんな男がこの部隊にいたかと訝ったが、今は主君の怒りを鎮める方が先だった。
「お鎮まりくださいルゾルフ様。ですがご覧の通り、自然のやることです。お怒りになられてもどうしようもありません」
将校の言う通りだった。
道に迷ったとかいうのならともかく、これは純粋な自然災害だ。誰かを責めても始まらない。それよりは、さっさとこれらを片付けて、軍が通れるように整備し直すべきだった。ルゾルフも、どうにか冷静になりそれを認めた。
「だが、本当に半月かかると言うのではあるまいな」
「そんなことはありません。この規模なら、一週間……いえ、三日で片付けます」
「半日でやれ!」
ルゾルフの飛ばしたつばが、将校の顔にかかる。こいつが伯でなければぶん殴ってやるのにと、彼は内心で拳を振り上げた。
作業を始めた将校たちを、ルゾルフと宮宰はそのまま最前列で見張るつもりのようだった。後方から素早くテーブルと椅子が運ばれてきて、二人はそこに腰掛ける。大きな日よけの傘まで差し出された。
将校と兵たちは途方に暮れた。半日でやれと言われても、“てこ”を使っても動きそうにない巨石と、大人二人分の胴回りほどの太さの巨木が、見事に谷を塞いでいるのだ。別に近頃大雨が降ったわけでもないのに、何という最悪のタイミングで落石が起こったのか。人間一人が通れそうな隙間すらなく、従って、馬や輜重の通行は完全に不可能だ。これが自然のいたずらなのだとしたら、何とも念の入ったことである。
それでも、伯の直命なのだ。なんとかしなければならない。かけ声を出して押したり引いたり、つるはしで削ってみたりしながら、彼らは汗みどろになって作業をした。
「全く腹立たしい。このままではいつになったら、あの不届きなパラディンの元に着けるのか分からんな」
「仰るとおりです」
兵たちが悪戦苦闘しているのを見物しながら、ルゾルフと宮宰は語り合っている。
「しかしあのパラディンめ、トリールの女狐に味方するばかりでなく、あのように悪し様に伯を罵る書簡を送ってくるとは……。何と忌々しいことでありましょうか」
「今思い出しても腸が煮えくりかえる! やはり教会の奴らは鼻持ちならん!」
「全くです」
どうやらルゾルフは、エドガー・トーレスからの書簡を受け取り、その内容に腹を立て、軍に移動を命じたようだ。
しかし、彼らが話題にしているパラディンの書簡というものが、本物であるのか、あるいはそもそも現実に存在していたのか、それは分からない。彼らが何かに“のせられている”のだとしても、それを確かめる術はなかった。
「女狐といい、教会といい、エアハルトの若造といい、鼻持ちならん連中ばかりだ!」
ルゾルフは地団駄を踏んだ。とにかくルゾルフにとって、ここ最近は腹の立つことばかりだったのだ。
トリールとの領土紛争は、筆頭将軍のベレンが尻込みをするばかりで、一向に埒があく気配が無い。教会と神殿騎士団は、やれ寄進の要請だの、やれ領内を調査させろなどと、無遠慮な要求ばかりしてくる。今ほど話題になったパラディンからの侮辱には、わざわざルゾルフ直筆で、総主教と神殿騎士団総長宛に、反論の手紙を送り返してやったくらいだ。
そしてもう一つ腹が立つと言えば、ノイマルクの東にある、同じ八大諸侯のエアハルトのことだった。
先代が死に、新しいエアハルト伯となったユリアンは、三十にもならない若造のくせに、伯としての先輩である自分に挨拶の一つもしてこない。それもルゾルフには十分腹立たしいことだったが、それだけではない。
「ユリアン・エアハルト。あの若造のやっていることは、人さらいと同じだ!」
ルゾルフはテーブルに拳を打ち付けた。その音と、人さらいという物騒な単語を聞きつけて、兵の何人かが様子をうかがうように目を向ける。宮宰はまたもや、仰るとおりですと頷いた。
ユリアンは、まだ先代の喪が完全に明け切らないというのに、やたらと派手な政策を打ち出して民草の人気取りをしていた。だが、新しいエアハルト伯が、自分の領内で何をやろうと、それはルゾルフには関係ない。勝手にやれという感じだった。
しかしあろうことか、ユリアンの影響力は、いつの間にかノイマルク近隣の諸領邦にまで広がっていた。これまでノイマルクに媚びへつらう態度を取っていた中小の領主共が、どいつもこいつも、こぞってユリアンのご機嫌を伺うようになったのだ。
それどころか、既に幾つかの領邦は、実質的にエアハルトの属領と化していた。有り得ないほどに素早い勢力拡大ぶりだ。ユリアンはきっと、伯に就任するずっと前から、この事態を想定して根回しを続けていたに違いない。
さらにその影響力は、ついにノイマルク内部にまで及び始めている。どんな場面でかと言うと、今のノイマルクでは、北東部からの流民の流出が止まらない。そしてその流民たちは、一様にエアハルトを目指しているのだ。
「そのことですが、やはり、エアハルト軍がわざわざ辺境まで出て、我が領からの流民を迎え入れていることが分かりました。指揮しているのは、エアハルト伯の秘書のオスカー・フライケルです」
宮宰の報告を聞いて、忌々しいとルゾルフは怒鳴り散らした。
流民とは、生まれた土地を無責任に投げ出して、主君である領主の下から逃げ出そうとする者たちのことである。そんな下民たちなど、どこへなりと行き、いっそ結界の外で魔物に喰われてしまえと思うルゾルフであったが、それをユリアンが保護して連れて行くとなれば話は別だ。これは立派な人さらいである。さっき彼が叫んだのは、そういう事情だった。
「見ておれ! 女狐をひざまずかせたら、次はあの若造だ!」
気ばかり逸るものの、現実の彼らは、落石程度に足止めを食らっている。そのことがまた、ルゾルフの苛立ちを倍加させた。ルゾルフはまたテーブルを殴りつけた。
「まだ終わらんのか……」
昼過ぎに始まった落石の撤去作業は、夕方近くになっても終わらなかった。その頃にはルゾルフは怒鳴り疲れて、ぐったりと椅子に腰掛けていた。
この街道を諦めて迂回しようにも、別の道がある地点まで引き返すには時がかかりすぎる。作業は明日までもつれ込むのか。そう思われた頃合いに、奇妙な人間が現れた。
「……あの、もしや、街道を通れずにお困りですか?」
娘である。そして妙なことに、いわゆる侍女が着るような黒い服とエプロンをしている。その娘は、森の中から出て来たように見えた。
なぜ侍女が? なぜ森から?
兵たちはざわめいたが、娘の余りの美しさに、一瞬で目を奪われてしまったルゾルフの耳には、その声は入らなかった。
娘はルゾルフを見つめながら、潤んだ瞳、清楚な声で、ささやくように言った。
「私、抜け道を知っているのですが。地元の者しか使わない、森の中を抜ける道です。……よろしければ、ご案内いたしましょうか?」
「おお、これは渡りに船だ! ありがたい!」
ルゾルフが否やと言うはずはない。彼は一も二もなく娘の申し出を了承した。
娘は微笑みを浮かべ、どうぞこちらへと、街道脇の森を指し示した。
ところでこの娘とは、当然のごとくアルフェであり、街道を塞いでいる落石は、当然彼女の仕業であった。




