178.エンカウント
――何か、あったのか?
魔術士の足が止まった。
今しがた野営地から聞こえた声は、間違い無く悲鳴だった。
彼がそう確信できるのは、この前に野盗たちが襲った村で、嫌と言うほど聞かされた音と同じだったからだ。野盗同士の喧嘩沙汰で起きる怒声とは違う。声の響きに混じっていたのは、明らかな恐怖の感情だ。
何かが、野営地に現れたのか。
若い魔術士が生き延びるためには、この時点で逃げ出せば良かった。何も考えず、その時に感じた不安な予感に従って。だが彼は、止めた足を、再び前に踏み出した。
逃げ出せば良かったのだ。後ろを振り向いて、ただひたすらに、脱兎のごとく。だが彼は、本能が発する警告を、楽観的な言い訳で塗りつぶした。勘違いかもしれないからと。魔物も出ないこんな場所で、悲鳴を上げなければならないようなものに、襲われるはずなんてないからと。
生き延びるためには、逃げ出すしか道は無かったのに。
――ひょっとしたら……、ノイマルクの奴らに見つかったのか?
その可能性はあった。だが野盗の頭目は、ノイマルク兵が大勢で出動してきたら、必ず事前に察知できると言っていた。人を人とも思わない冷酷な連中だが、腕は確かだった。
ならば案外、さっき聞こえたのは、やってきた侵入者が返り討ちにされた悲鳴かもしれない。
念のために、魔術士は防衛用の幻術を展開する。己の姿を消す不可視の魔術や、発する音を弱める魔術などを取り混ぜた、並の魔術士には扱えない高度な技法だ。そうしてゆっくり、彼は野営地の中に足を踏み入れた。
静かだ。
火の始末がされておらず、松明は普通に燃えているから、野盗たちはまだ起きているはずである。
だが、起きているなら、こんなに静かなのはおかしい。彼らは常に、頭が痛くなるほどに騒がしい。酒盛りの音も、猥談に伴う下品な笑いも聞こえないのは妙だ。
どうしたと、声を出して呼びかけるのはやめた。
ここまで来れば、何か重大な異変があったことは、彼の目にも明らかだったからだ。
「――ッ!?」
魔術士は叫びかけて、慌てて口をつぐんだ。
野営地内に、うつ伏せに倒れた死体があった。人間の死体だ。しかもあれは、数時間前に彼に報酬値上げの交渉をしてきた、野盗の頭目の死体だ。頭目は脳天を割られているようで、頭から床に、ドクドクと血が流れ出ている。
やはり、ノイマルク軍に襲撃されたのだ。吐き気をこらえて、魔術士は周囲を警戒した。すぐ隣の部屋にも、三つ死体が転がっていた。この静けさは、野盗たちは既に全滅させられたということか。自分が遺跡散策に出ていた数時間足らずの間に、まさかこんなことになるとは。
野盗の頭目の死体に目を戻した彼は、奇妙なことに気が付いた。
うつ伏せに死んでいると思ったが、うつ伏せなのは、頭目の顔面だけだった。頭目は仰向けに倒れている。だが、首だけが何かの力で、百八十度ねじ曲げられているのだ。それで、うつ伏せだと錯覚しただけだ。
魔術士はごくりと喉を鳴らした。
襲撃があった時間に不在だったのは、とんでもない幸運だった。魔術士はそう思った。
死体の状況から察するに、数十人の野盗たちは、ほとんど抵抗できなかった様子だ。襲撃者は野盗たちよりもはるかに強く、そして容赦が無かったのだろう。頭目の死に方はまだマシな方で、中には、一度見たら忘れられなそうな光景が広がっている部屋もあった。
報いかもしれない。魔術士は次にそう考えた。これは、彼らのこれまでの乱暴狼藉の報いだ。そして自分が救われたのは、神の恩寵によるものだと。
――……ん?
あまりに凄惨な光景を目撃したせいで、ほとんど放心していた彼の耳に、人間の声が届いた。声がした方角に、ぼんやりと顔を向けてからしばらくして、魔術士の全身に鳥肌が立った。
襲撃者は、まだ野営地の中にいる。その可能性に、彼は今さら気付いたのだ。
解けかけていた防御魔術を、彼は慌てて結び直した。しかも、さっきよりも念入りに。そして声がした場所を目指して、そろそろと歩み出した。
ここに、彼の二つ目の過ちがあった。
この時点でも、彼が逃げ出すことは、もしかしたら可能だったかもしれない。少なくとも、敵が居る場所に自ら向かうことだけは避けるべきだった。
彼が修めてきた魔術は幻術であり、相手に接近しての直接戦闘には向いていない。優れた幻術士は、まず安全な場所に身を置いて、姿を見せぬようにしつつ、周到に相手を幻の中に誘い込む。今の彼のように、不用意に自分から距離を詰めるのは、悪手と言わざるを得ない。
彼は、魔術の扱いには秀でていても、そういう狡猾さには長けていなかった。それが、彼がこのような所で、こんな任に就かされている一因でもあったのだが。
いざとなれば、自分には高位魔術だって使える。そういう油断もあっただろう。ともかく、彼は襲撃者の会話がはっきりと聞こえ、その姿が見えそうな位置にまで、自分から進み出てしまった。
驚くべきことに、襲撃者は大規模な兵団ではなく、たった二人の人間だった。
「こいつは何なんだ?」
「さあ?」
男と女。後ろ姿が見える。後ろで一本にまとめられた女の銀髪が、松明の光を反射して、やけに輝いている。
「うひひ……」
「笑ってるぞ」
「……気味が悪いですね」
「人間、こうはなりたくないもんだ」
そして、襲撃者のいる部屋にはもう一人の人間がいた。喜ばしいと言えるかどうか、だが、あれは野盗の生き残りだ。
魔術士が散策に出て行く前、頼まれて幻術をかけてやった男だ。その野盗はまだ幻術の効力下にあるようで、突っ立ったまま幸せそうな笑みを浮かべ、たまにピクピクと痙攣している。意志が弱い人間には幻術がかかりやすいとは言え、これほど長時間、初歩の幻術にかかりっぱなしだとは思わなかった。
襲撃者の二人は、野盗の様子を薄気味悪そうに観察している。これは幻術でしょうかと、娘が言った。
「そうかもな。殺してきた中にいなかったから、ここは外れなのかと思ったが……。やはり、例の魔術士はここにいるのか」
自分のことを言っている。魔術士はびくりと身を震わせ、無音で魔術を詠唱しだした。
「ではなぜ、仲間に幻術を? 仲間割れ?」
警戒を新たにしたように、娘が周辺を見渡す。すっと通った鼻筋に、艶やかな唇。異様な程の美貌だ。この状況下において、それは物語に出てくる夜魔のようにすら感じられた。
もう少し角度がこちらを向けば、娘の瞳が、不可視になっているはずの魔術士を捉える。そうなる前に魔術を放とう。魔術士が決意した瞬間、男が娘に声をかけ、娘は再び魔術士に対して後頭部を向けた。
「どうでもいいさ。で、これはどうする」
「ああ、そうでしたね」
男が言った“これ”とは、幻術にかかっている野盗のことだ。
「無抵抗のようです。敢えて命を取ることも無いと思いますが」
魔術士は、妙にほっとした。抵抗しなければ命は取らない。それは、話し合いが可能だということでもある。会話を主導しているのが年若の娘の方なのは違和感だが、声の感じは、粗暴でも威圧的でも無い。いざとなったら降伏すれば、生き延びることができるのだ。
だが――
「まあ念のため、殺しておきましょうか」
――え?
「はいはい」
チンという鍔鳴りの音しか、魔術士には聞こえなかった。男と娘のどちらが何をしたのかさえも、彼には分からなかった。ただ、二人の前に立っていた野盗の首は気が付いたら両断されていて、気色の悪い笑みを顔面に残したまま、頭部がずるりとテーブルの上に落ちた。
「では、あとはこれをやった魔術士だけですね。どこに居るのでしょう」
目の前の死体が、首から天幕に向かい血を噴き出しているというのに、娘はそんなことに気を止めた様子もなく、くるりと振り返った。まだしも剣を持った男の方が、憐れんだ目で死者を眺めていたくらいだ。
正面を向いた娘の衣服には、おびただしい返り血。それに、なぜ今まで気が付かなかったのだろう。その両腕は、肘くらいまで血まみれだった。
これは、人間じゃない。
衝動に突き動かされた魔術士は、ありったけの魔力を駆使して陣を展開した。
唐突に発生した濃い霧が、周囲を包む。霧は魔力を帯びていて、そこに入った者を幻の世界に運び去る。今しがた二人に殺された野盗にかけたような低級魔術と違い、非常に高度な術式を編み込んだ高位魔術だ。
幻と侮ってはならない。高位魔術ともなれば、その幻は実体を伴っている。誰しもが持つ後悔や過去への憧憬を刺激する、幸福の影。霧の力は判断力をも奪うため、ひとたび囚われれば脱出は困難だ。そして、この幻はやがて取り込まれた者を苛み、死に追いやる。
「ん……?」
自分のまぶたが強制的に下がるのを感じたか、男は眉間を押さえた。
「どうかしましたか? フロイド」
「……いや、何でもない。ただ、ちょっと目眩が……」
首を振りながら男は言ったが、その時は既に術中にある。
「……エルウィン?」
「は?」
ここに居ない人間の名前を、男は呼んだ。あの男にとって、その名前は大きな思い入れのあるものなのだ。
「どうして、お前が……。そんな、はずは」
「……なるほど」
頭に手を当ててふらつく男から、娘は目を離した。その視線は、本格的に見えない敵を捜索している。なぜかあの娘には、幻の霧が効果を発揮していない。防御魔術をまとっているようにも見えないのに、どうしてなのか。
目を皿のようにして、娘は再度四方を見回す。大丈夫だ、気付かれはしないと魔術士は心に念じた。不可視の上に、音すらも遮断しているのだ。気付かれるはずがない。
娘の目線が、魔術士の視線と結び合わさり、そして何も無かったかのように通り過ぎて行く。やはり気付かれなかった。気付かれるはずが……。
――!?
ぐりん、と、通り過ぎたと思っていた娘の瞳が戻ってきた。
そして見ている。見えないはずなのに、魔術士の方をしっかりと。
偶然だろうか。こちらを見ているようでいて、それでも娘が動かないのは、気付いていないからのはずだ。しかし、確実に凝視されている。何なのだ、これは。何だ、あの娘は。
怖い。足が、その場に縫い止められてしまったように動かない。
魔術士は勇気を奮い起こし、魔法陣を書き換えた。そうすることで、魔力の霧の性質に、微妙に変化を加えていく。娘自身に幻が効かずとも、まだ方法はあるのだ。
「ぐ……」
そうだ、片割れの男の方を利用すれば良い。男の見ている幻を、より悪意のある、敵意を呼び起こすものに変化させる。
「エルウィン……、俺は……違うんだ! ……違う! お前が、こんな所に、いるはずは」
男の右手が、剣の柄に伸びていく。
「……! き、みは――」
男が、誰か女の名前を口にしたと思った瞬間、またチンという鍔鳴りの音がした。
師のライムント・ディヒラーと違って、見せる幻の内容までも仔細に操り把握する技量は、魔術士には無い。だが、魔術士が男に見せたのは、男にとって許せない光景だったはずだ。そしてその光景は、男の仲間である銀髪の娘の位置に重ねられている。
さっきの音は、男が剣を抜いた音だった。目にも留まらず野盗の首を落としたそれが、相変わらず魔術士の方を凝視している銀髪の娘に向かって行き――
止められた。
男の剣先は、娘の左手の人差し指と中指、そして親指に挟まれて、娘の首筋に届く前にびたりと静止している。娘はやはり魔術士の方を見たまま、男に顔も向けていない。
「……しっかりしなさい」
そんなあやふやな剣では、何も斬れない。首を刎ねるなら、しっかりそのつもりで振り抜け。そんな風に、娘は低い声で男を叱りつけた。
「…………あなたらしくないでしょう」
最後に、ぶっきらぼうな調子で、娘はそう付け加えた。男は脂汗を流しながら、少し呻き、幻を振り払うように頭を振った。娘が剣先から指を離しても、その刃はその場でカタカタと震えるだけで、再び娘に斬りつけようとはしない。
「……もしもし?」
娘が、魔術士に向かって声をかける。
魔術士は、何かに心臓を捕まれた気がした。
「そこに、いますね?」
見つかった。
その刹那、魔術士は発動寸前にしておいた術式に魔力を送った。十数本の魔力の弾が、様々な軌道から娘に向かって飛んで行く。専門ではない系統の魔術も、この魔術士くらいになればある程度は使いこなせる。これが直撃すれば、少々手強い魔物でも、確実に穴だらけにできる。
しかしこんな魔術では、“あれ”はきっと殺せない。
本能で悟った魔術士は、魔術の発動と同時に後ろを向いて、つんのめるようになりながら逃げ出した。




