176.幻術使い
今晩はとアルフェたちに向かって言ったきり、イエルク少年はドアの側で立ち尽くし、うつむいたままもじもじと両手の指を絡ませている。
「……どうしました?」
「あの――」
助け船を出すようなアルフェの問いかけに対して、イエルクが意を決し放った声は上ずってしまい、そこで言葉はつっかえた。
「あの、ちち、父上は――」
しかし彼は、もう一度勇気を振り絞った。この見るからに内気な少年が、わざわざ一人で客間を訪ねて来ているのは、父上、つまり、彼の父であるベレンの話を、直接二人の口から聞きたかったからなのだろう。
アルフェはふと、昔の思い出と目の前の少年を重ねた。
ベルダンでアルフェが引き取った姉弟のうち、弟のリオンが彼くらいの年齢だった。いや、アルフェがあの町から逃げ出して、もう二年以上が経過しているから、リオンはこの少年より、かなり成長しているはずだ。
「お父さんの事を、聞きたいのですか?」
アルフェは優しく微笑んだ。一瞬前まで、野盗を皆殺すだの何だのという物騒な話をしていた娘と、同一人物とは思えない。少なくとも表面上、それは完璧な“優しい微笑み”だった。
「――! ……あの」
だが、アルフェに笑顔を向けられたイエルクは、少しびくりと震えると、フロイドの方に顔を向けた。
幼子の瞳に浮かんでいたのは、何だったのか。それは、年上の女性に対する照れとも、見知らぬ人に対する気恥ずかしさとも、また違った感情だった。そして、少年のその感情を受け取ったのはアルフェだけだ。フロイドには、それが見えていなかった。
アルフェは口元に微笑みを浮かべたまま、静かに言った。
「フロイド」
「ん?」
「この子の、話し相手をしてあげてください」
「俺が……? あんたは?」
「明日に備えて休みます。寝室の用意も、できているでしょうから。くれぐれも、この子に変なことを教えないように」
アルフェは軽口らしいものを叩き、立ち上がると、フロイドとイエルクを残して客間を出て行った。
翌朝、ベレンの妻クラリッサに見送られて、アルフェたちはリーネルンを発った。もう起きているはずだが、イエルク少年は見送りに出てこなかった。
フロイドがベレンへの手紙を受け取ると約束したので、帰り道にはまたこの町を通ることになる。クラリッサは、その事についてしきりに礼を言っていた。
「クラリッサさんが、何か?」
馬車の中で、アルフェは疑問に思っていたことを尋ねた。フロイドは、ベレンの妻の前では、妙に礼儀正しく振る舞っていた。昨日も、今朝もそうだった。だが出発してから、彼の顔は妙に苦々しく不機嫌だ。
「……」
「答えたくなければ、別にいいです」
フロイドが答えようとしないので、アルフェは目をつぶった。
「……少し」
昔の知り合いに、似ていただけだ。口の中で消えたフロイドのつぶやきは、アルフェにはそう聞こえた。
少しの寄り道のあと、アルフェたちは野盗が出没するという一帯に到着した。ここまで案内してきたノイマルク兵には、野盗の根城とおぼしき遺跡の場所だけ教えてもらって、近隣の村で待機するように指示を出した。足手まといがいても、邪魔なだけだ。
「敵の数は?」
機嫌を直したらしいフロイドは、改めて剣を確認しながら、アルフェに聞いた。
「確認されているのは三、四十人の集団です。全滅させるのに、それ程手間はかからないでしょう」
「何だ、それっぽっちか。二人で来る必要はあったのか?」
「ベレン将軍の要請ですから」
「“取りこぼし”が無いように? あいつは本当に、野盗が敵の工作員だと考えているのか」
アルフェはこくりと頷いた。
二人は、街道とも獣道ともつかないような、冬枯れの下草に覆われた道を歩きながら、昨晩イエルクが入ってきた事で中断した話の続きをしている。
「念が入っているのかいないのか、よく分からんな。そんなに気になるなら、自分の麾下にやらせればいいだろうに」
「それができないから、私たちに頼んでいるのでしょう。……将軍も、色々と難しい立場のようですね」
「それはまあ、分かる。あいつも色々と大変だ」
自分たちでは手の回らない諸問題を、ベレンはアルフェたちに丸投げしている。その中でもベレンは、ここに出る野盗が特に重要度が高い案件だと考えているようで、アルフェとフロイド、二人の出動を要請してきた。
彼がそうする理由は、野盗たちを背後で扇動しているのが、トリールかもしれないという疑いだ。では、その野盗たちが、トリールに扇動されているという根拠は何か。アルフェたちの話題は、その事になった。
「将軍が受けた報告によると、野盗の中に、魔術士が混じっていたということです」
「魔術士……? ……ライムント・ディヒラー?」
魔術士という単語からフロイドが連想した名前は、トリール伯の下にいる高名な幻術士だ。ノイマルクにベレン有りと言われるように、トリールにはディヒラーが居る。ベレンに対抗する戦力として呼び寄せられたパラディン、エドガー・トーレス以外に挙がるのが、その老魔術士である。
フロイドのつぶやきを、アルフェは目で肯定したが、彼は腑に落ちない様子だった。
「ディヒラーか……。事実なら確かに問題だが、パラディンに匹敵するとかいう魔術士が、まさか盗賊の真似事じゃあるまい。ただの食い詰め魔術士じゃないのか?」
いくら魔術士が希少とは言え、それだけで敵方の手が入っていると判断するのは、いささか早計ではないか。それがフロイドの意見だった。
魔術士はある意味、世の中で最も明確な実力主義がまかり通る職業である。魔術士として身を立てようと志し、競争に負けて落ちこぼれる者も多い。
そういった者は、どこかの領邦で魔術士としての地位が得られ無い場合にも、なまじ魔術が使えるという自負があるせいで、他の仕事が手に付かない。そういう半端な魔術士が、盗賊にまで身を持ち崩すという事例はあった。実際、アルフェがこれまで戦った魔術士は、大半がそんな輩だ。
「もちろん、ただの偶然ということもあり得ます。少なくとも、ディヒラー本人ではないでしょう」
フロイドが言ったことは、アルフェとて承知している。出発前には、彼女もベレンに、似たような疑問をぶつけた。
「ですが、気になる点が一つあります。その野盗の中にいた魔術士は、高位魔術を使用したそうです」
その時に、ベレンから返ってきた答えがこれだった。
簡易な術式で即席に発動できる下位の魔術と異なり、何らかの手段で魔法陣を展開することで発動する、高位魔術。それを行使できる者が、理由なく野盗の一員に甘んじているということは、流石に考えにくい。世の中に、実践的な魔術を使用できる人間は百人に一人、その中で高位魔術を扱えるのは、さらに千人に一人。そう言われるくらいなのだから。
「高位魔術……。なるほどな、それはベレンにしたら見過ごせないか」
「はい。ライムント・ディヒラーの弟子か何かが、秘密裏に派遣されているというのが、将軍の推測です」
「ふん……、ディヒラーと言えば幻術だ。なら、その弟子も幻術士なんだろうな」
「可能性は高いでしょうね」
主要な魔術体系の一つ、幻術。そこに有るものを無いように見せたり、無いものを有るように見せたりする魔術である。
姿を変えたり消したりする、離れた場所に虚像を創り出す等々、幻術を用いて可能なことは多岐にわたる。戦闘で普遍的に用いられる、眠りをもたらす魔術なども、幻術に属している。相手の記憶や感覚に働きかけ、過去や未来の心象を見せることができるなど、心術に近しい要素もある。
幻術が見せるものは、実体の無い虚像と侮ってはならない。敵の立ち位置が数歩ずれた場所に見えるだけで、戦闘には大きな支障が出るし、極限まで高まった幻術は、視覚だけでなく、他の五感にも働きかける。
ディヒラーほどの大魔術士となれば、創り出す幻影は現実と何ら変わりない。彼は最上位魔術を駆使し、その幻影を万人規模の軍全体にかけることも可能だ。
アルフェは、頭の中で幻術士と遭遇した際の戦い方を思い描く。
師のコンラッドも言っていた。幻術に限らず、視覚に干渉したりする敵に対抗する際には、見えるものに頼らないことが重要だ。そして、魔力の流れを注意深く読み取らなければならない。さらに大切なのが――
――勘だ!
――か、勘ですか? お師匠様、もっと具体的な方法は……。
――取りあえず、手当たり次第に片っ端から殴るという方法もおすすめだな!
「――幻術士が相手だとして」
フロイドの声を聞いたアルフェは、知らぬ間に少し緩んでいた口元を引き締めた。
「あんたならどう戦う?」
「……そうですね。一番は、術を使われる前に潰すことです」
機先を制する。それは幻術のみならず、魔術全般への基本的な対処法である。
リスクを考えるなら、寝込みを襲うなどして不意を突き、魔術を行使される前に息の根を止めてしまえばいい。魔術士は、魔術がなければただの人だ。
しかしあえて、アルフェは言った。
「ですが、正面から行きましょう。良い機会ですから」
「鍛錬の――か?」
「ええ」
「熱心なことだ」
フロイドがやれやれと笑う。
遠目に見える丘の上には、二人が目指す遺跡群の陰があった。




