174.待ち人、来たりて
――他に専門があるってのに、治癒術まで習得したいってのは、やっぱりメルヴィナさんは勉強家なんだな。
北の大陸から、わざわざ帝都に留学しに来ているだけのことはあると、マキアスは心の中で納得し、感心した。
一口に魔術と言っても、その有り様は地域によって様々らしい。
マキアスは魔術の専門家ではないし、訓練所の座学も不真面目に聞いていた。だから人に説明できるほど、魔術理論にも魔術史にも詳しくない。しかし帝国で支配的な理論では、魔術を大まかに、変性術や召喚術、治癒術などの体系に分けている。
誰かの傷を癒したいと願えば治癒術に頼るし、何かを壊したいと思えば破壊術を使う。不安定で不確実な、世界に満ちるマナの流れを操って、“魔術”という、人間が望む形で発現できるようにしたのは、何よりも先人たちの知恵と工夫のお陰、教会流に言うならば、“神の恩寵”である。
原始的な魔術は、行使したら何が起きるか分からない、膨大な目のあるサイコロのようなものだったと聞くから、今の時代は便利になったものだ。誰でも気軽に行使できる訳では無いが、魔術は人間社会の至る所に取り入れられている。
しかし、そのせいでと言えば良いのか、膨れ上がった魔術知識の全てを常人が理解しきるのは、現実的には不可能になった。それで出てきたのが、取捨選択の必要性である。
理論化・体系化されたとは言え、魔術の行使には、魔力の枯渇や暴走などの大きな危険が伴う。生半可な知識で魔術を使っても、ろくなことにはならない。加えて知識だけでなく、身体が魔術行使の感覚を覚えていないと、これまたろくなことにはならない。
マキアスの家系が治癒術に特化してきたように、一つの魔術体系に特化するのか、それとも、複数体系の魔術を広く浅く習得するのか。魔術を扱う者は誰でも、自分の才能と相談しながら、どちらかを選ぶ必要があった。
ヴォルクスに客人として迎えられるからには、メルヴィナは相当優秀な術士のはずだ。しかしそうは言っても、新たに治癒術まで習得したがるというのは、勉強熱心以外の何物でもない。そんな風にマキアスは思った。
以前、ふとした拍子に、マキアスはメルヴィナと約束した。マキアスの特訓の合間に、彼女に治癒術の手ほどきをすると。
そして、今日はたまたま、その“合間”の時間があった。
「約束しておいて何ですけど、本当に俺でいいんですか? 教会にはもっと優秀な人が――」
「……いえ、お願いします」
メルヴィナは相変わらずか細い声で喋っているが、その顔は真剣だ。彼女が真剣なだけに、不用意な約束をするべきではなかったかなと、マキアスは思った。術士として自分よりもずっと優れているに違いない彼女に、自分が治癒の手ほどきをするなど、分不相応な気がする。
それに、神聖教会には治癒の専門家が山ほどいる。彼女が教会の人間なら、そちらに教えを請うた方が良いのではないか。今さらながら、マキアスはそんな風に考えたのだ。
「……不出来な生徒だとは思いますが、どうか――」
メルヴィナが深々と頭を下げる。彼女の言葉は懇願に近い。そこまでされると思っていなかったマキアスは、ひどく慌てた。
「ちょ、止めて下さい! 分かりました、分かりましたから」
本当に、並々ならぬ熱意である。諦めて手ほどきする以外、道は無いだろう。
「じゃあ、やってみましょうか。まずは基本から――」
「……」
マキアスの説明を、メルヴィナは食い入るように聞いていた。普段のうつむきがちな、生気に乏しい表情とは違い、顔を上げ、目を一杯に見開いている。
そうして始まった治癒術の訓練は、マキアスの特訓の隙間時間に行われる、ごく短いものだった。だが、やはりメルヴィナは優秀な術士なのだ。何度かそれを繰り返すうち、彼女はすぐに、初歩的な治癒術を使えるようになった。
「いや、凄いですね。普通、こんなに早くできるようになりませんよ」
「……ありがとうございます」
マキアスの称賛を、メルヴィナは一礼して受け止めた。
試しにということで、マキアスがヴォルクスに叩きのめされてできたアザの一つを、メルヴィナが癒して見せたのだ。と言っても、完全ではない。少し痛みが引いた程度だが、これだけでもたいしたものだ。メルヴィナが本格的に学べば、きっとマキアスなど敵わない腕前になるだろう。
そう言えば、昔似たようなことがあったと、マキアスは思い出した。
幼い時、妹のステラが治癒術を使い始めた時のことだ。マキアスが七歳くらい、ステラが四歳くらいだった。両親が死ぬ直前で、マキアスは父から直接治癒術の手ほどきを受けて、張り切っていたのだ。
その時のマキアスは調子に乗って、両親に内緒でステラに治癒術を教えた。四歳というと、普通魔術に触れるのは危険とされる年齢だ。
しかし、ステラは治癒術に関しては天賦の才を持っていて、あっという間にマキアスよりも上手に術が使えるようになった。兄の面目を潰されたマキアスは、幼いながら大層へこんだ。だから彼は、両親のような治癒士ではなくて、剣の腕を鍛えて騎士団入りを目指そうとした。
「俺には魔術の素養が無いから、メルヴィナさんが羨ましいです」
こんな台詞も、あの頃には素直に言えなかった。
「……先生の、お陰です」
「いや、先生ってのは――」
くすぐったいからよしてください。そう言おうとしたマキアスは、メルヴィナの目が笑っているのに気がついた。これは、彼女なりのからかいなのだ。意外と茶目っ気のある娘なのかもしれない。
「はは、そうですね。まあ、妹も俺のお陰で伸びたようなもんですからね」
メルヴィナに、ステラに、そしてアルフェ。あとは、ロザリンデなどもそうなのか。自分の身近には、自分より優れた才能を持つ女性が多い気がする。
しかし、そうだからと言って、腐ったり後ろ向きになったりするような時期はもう過ぎた。色々なものを助け守るために、自分は強くならなければならない。
「……そうだよな」
「……え?」
「いや、メルヴィナさんに負けないように、俺も頑張らないといけないと思って」
そう言ったマキアスは、この黒髪の娘に、少し前向きな気持ちをもらったのを感じていた。
そんな事があり、マキアスにはメルヴィナという女性が、少なくとも悪い人間ではないと分かったのだが、それでも彼女には、依然として不思議な部分が多かった。
騎士団でマキアスの特訓を見学している時以外の彼女は、自分の勉強をしているようだ。ヴォルクスがそう言っていた。他には、彼女は頻繁にヴォルクスの部屋を出入りして、何かを話している様子がある。
帝都における彼女の後見人はヴォルクスだから、それは自然なことなのかもしれない。しかし、ヴォルクスの側にこれ程近づいた女性というのは、相当に珍しい。二人は何か特別な関係なのかと、勘ぐってしまいそうになるほどに。
――まさか親戚……じゃないよな。
一瞬思いながら、マキアスはすぐにその想像を打ち消した。
二人は、髪色はもちろん、肌の感じや顔立ちも違いすぎる。ヴァイスハイト家の縁者に、ああいう娘がいたとも聞いていない。それに、親戚なら親戚だと、ヴォルクスは言うはずだ。ならば、一体どういう関係なのか――
――っと。こんなこと考えるは良くないな。
騎士団本部を歩きながら、マキアスは苦笑いを浮かべた。別にマキアスは、メルヴィナの素性に不審を抱いた訳でも、ヴォルクスに何か疑いをかけるつもりが有る訳でも無い。これまで騎士団で与えられた任務が、調査や査察などの調べ物ばかりだったので、それが少し、習い性になってしまったという所だろうか。
「失礼します!」
そんな事を考えながら、マキアスがヴォルクスの執務室に入ると、今日もメルヴィナがそこにいた。
「――じゃあメルヴィナ、そういう事だ」
「……分かりました」
「頼んだ。――やあ、マキアス。おはよう」
ヴォルクスが、にこやかな笑顔をマキアスに向けた。
「おはようございます、団長。……すみません、お取り込み中でしたか?」
「いいのさ。もう終わった」
同意するように、メルヴィナが会釈する。
「それじゃ、行こうか」
「はい! よろしくお願いします」
ヴォルクスがマキアスを促した。二人はこれから、訓練場で手合わせする予定だ。相変わらず一方的に叩きのめされるだけだが、マキアスがヴォルクスの前で立っていられる時間は、日に日に長くなっていた。
「そろそろ少し厳しい訓練に移りたいな。今日は最後まで、倒れないでいてくれると嬉しいね」
「……善処します!」
「ふふ。……ああ、そうだ」
ヴォルクスは、部屋に残るつもりらしいメルヴィナを振り返った。
「彼は、いつ到着する予定だ?」
――彼?
とは、誰のことか。マキアスはメルヴィナを見た。ヴォルクスの問いかけを受けて、メルヴィナの表情が陰ったのが分かった。
「……」
「いつだ?」
「……数日中には。……帝都に向かうという文が、先日、届きました」
「よし。――久しぶりに会えるね。調べ物の結果は、どうだったのかな。良い報告を聞けるといいが」
「……」
「君も待ち遠しいだろう」
「……」
マキアスに思い当たるのは、一人だけである。メルヴィナがここでずっと待っていた人物が、帝都に到着する日が近いということだろう。彼ということは、男だ。
「行くぞ、マキアス」
「あ、は、はい」
メルヴィナを部屋に残したまま、ヴォルクスは扉を閉めた。
その日の手合わせで、マキアスはやはり途中で倒れたものの、格段に良くなったとヴォルクスに褒められた。
その後、マキアスが久しぶりに家に帰って妹のステラの顔を見たり、休暇から復帰したカタリナと会ったりしているうちに、数日が過ぎた。そして、まるで季節が逆戻りしたかのように寒いある日に、メルヴィナが待っていた男と、マキアスは初めて顔を合わせた。
どんな男が現れるのかと思っていたら、それは、ごく普通の男だった。
「初めまして。マキアス・サンドライトです。よろしく」
「こちらこそ、初めまして」
マキアスやメルヴィナと、それ程年齢も変わらない。どこにでも居そうな、地味な男。それが第一印象だった。
メルヴィナと初対面の時と同じように、マキアスはその男と、ヴォルクスの執務室で引き合わされた。
「しばらくこちらで、お世話になります。クラウスと申します」
その青年は、そう名乗ると丁寧に頭を下げた。




