167.空位時代
――疲れた……。
その日の訓練を終えて、暗くなった訓練所の中を、マキアスは一人で歩いていた。
昨日、マキアスは妹のステラに、散々に嫌味を言われた。
マキアスがメルヴィナと話しているのを見て、妹は何か誤解したようだった。
なかなか家に戻って来ないから気になって様子を見に来たら、見知らぬ女の前で鼻の下を伸ばしているとはどういうことだ。帝都に帰ってきた時は深刻そうな顔をしていたのに、あれは一体何だったのか、心配して損をした。そんな趣旨のことを言われたわけだ。
自分は鼻の下など伸ばしていない。あの時はたまたまで、ほとんどの時間は訓練に集中していた。マキアスにも言い分はあったが、彼は言い返すのをこらえて、妹をなだめすかした。
家出していたステラを強引な方法で帝都に連れ戻した後、マキアスはアルフェを探すために数か月音沙汰を無くした。その甲斐あって、都市バルトムンクでアルフェを見つけたものの、冷たくあしらわれて、すごすごと帰ってきた。どの面下げてとは、マキアスが自分自身に言いたいことだ。
それに何より、ステラが怒っていた理由は、マキアスがアルフェとの間にあったあれこれを、全く説明しようとしないからだと、マキアス自身も分かっていた。
しかし昨日やってきたステラは、その話題には全く触れなかった。聞くのが怖いからなのか、それとも、兄を気遣っているのだろうか。
――多分、どっちもなんだろうな……。
それでも抑えきれないものがあふれ出し、それがマキアスにぶつけた文句へとつながった。アルフェの事に心をとらわれて、唯一の肉親をないがしろにしていた。父親代わりの兄として、マキアスに、甘んじて受け入れる以外のどんな方法があっただろうか。
特訓を中断する気は無い。しかし、五日に一度は必ず家に顔を見せる。アルフェの事も、落ち着いたらきちんと話す。それで何とか手を打ってもらって、マキアスはステラを家に帰した。
そのあと戻った宿舎には、真新しい着替えが置かれていた。同部屋の騎士が預かっていた黒焦げの物体は、焼き菓子のつもりでステラが作ったものだということも分かった。
マキアスは、苦さにむせそうになるのをこらえながら、それを噛み締めた。
メルヴィナはステラの言葉を直接聞いていないが、何かを察したのだろうか、マキアスの近くに、今日は彼女の姿は無い。灯りの少ない通路を、マキアスは一人、身体を引きずるように、うつむき加減で歩いて行く。
「マキアス!」
「テオドール……」
歩くマキアスに声をかけてきたのは、親友のテオドールだ。
マキアスはテオドールの背後にちらりと目を向けてから、口を開いた。
「今日は……誰もいないのか?」
「珍しくね」
マキアスの問いに、テオドールが苦笑する。いつもはテオドールの周りに群れている取り巻き連中が、今日はいない。そのためか、テオドールは少しだけせいせいした顔をしている。
テオドールは、マキアスの格好を見てから言った。
「訓練所か?」
「ああ、今あがったところだ」
「聞いたぞ。ヴォルクス団長に稽古をつけてもらってるんだって?」
「ああ」
「……何があったんだ?」
「ああ……」
帝都外の任務から帰ってきたマキアスが、身体をボロボロにしながらも訓練に明け暮れる理由を、テオドールも気にしている。
話すべきか、話さざるべきか、マキアスは迷ったが――
「前の任務から、俺も部下を任されただろ? 隊長って呼ばれるからには、ちゃんとしなきゃ駄目だと思ったのさ」
「……そうなのか」
結局、話さないことに決めた。
テオドールはテオドールで、色々な重荷を抱えている。友として、余計な負担をかけたくない。これは前にも思ったことだ。親友に隠し事をする後ろめたさを、マキアスはあえて明るく振舞うことでごまかした。
「やかましい副官もいるしな」
「お前の副官っていうと、カタリナさんか。ダルマイアー家の。今、彼女は?」
「休暇だよ。実家に帰ってるんじゃないかな」
神殿騎士団では、長期の外部任務のあとにはそれなりの休暇がもらえる。家に帰ろうとしないマキアスのほうが少数派なのだ。カタリナには、実家に幼い弟妹がたくさんいるという。それに囲まれて辟易している副官の顔を想像して、マキアスは少しだけ顔をほころばせた。
「まあ、俺の事はいいよ。それよりテオドール、お前の方こそどうなんだ?」
「え?」
「大丈夫なのか? その……、色々と」
マキアスは言葉を濁した。
テオドールの“家庭環境”は、マキアスのものよりずっと複雑だ。とても一口で説明できる家柄ではない。しかし平たく言えば、テオドールはこの帝国における、先代の皇帝の血を引いている。それも、かなり色濃く。
と言っても、この国に皇帝がいたのは百年も前で、それ以来ずっと空位の状態が続いていた。先帝が崩御した際に色々とあったせいだが、それはただの歴史の話だ。皇帝が存在しないのに、帝国は存在する。とにかく現在はそうなっていて、それゆえに各地で様々な問題が噴出していた。
各地の領邦は自立の機運を高めていたし、トリール伯とノイマルク伯を筆頭に、領邦ごとの小競り合いも激しさの度合いを増している。それに伴って治安の低下した場所では、盗賊などのならず者たちが跳梁していた。都市や農民の反乱が起こっている地域も珍しくない。
先年のドニエステ王国によるラトリア侵攻に対して、帝国が統一的な対応を取れなかったのも、ほとんどそれが原因である。
こうした事は、帝都に居てはほとんど分からないが、騎士団の任務で色々な地域を廻る内に、マキアスにも実感できた。
これらの問題に対処するため、新しい皇帝を選出するべきだ。
その話題は、元老院議会の中でもたまに囁かれる事があるという。
帝都を中心とした皇帝直轄領を統治しているのは、有力貴族が議員を務める帝国元老院だ。その中にも色々な派閥があるが、新帝を玉座に据えることで帝国の崩壊を防ごうというのは、誰が出した話なのだろうか。
これがどの程度具体的な動きになっているのかについては、下っ端のマキアスは想像するしかない。だが、仮に皇帝を選ぶとなった際、新帝候補の最右翼に推されるのは、目の前にいる親友だということくらいは、マキアスにも理解できていた。
「そうだね……。色々と、言ってくる人は多いな」
テオドールは、寂しげな顔で微笑んだ。
「母上にも、心配をかけている。でも何て言うか……、あまり現実味が無いんだ」
「……まあ、そうだよな」
テオドールの言う通り、皇帝など、若い二人にとっては現実味の無い言葉だった。実際に、彼らが生まれてからずっと皇帝などというものはいなかった。それでも、この国は上手く回ってきたのだ。
そう考えてしまうのは、二人が民の上に立った経験が無いからだろうか。
「もし、お前が皇帝になりたいって言うなら、俺も応援するけどな」
マキアスはテオドールを励ますつもりで、冗談めかして言ってみた。
「ははは、心強いよ。……でも、私は別に、なりたいわけじゃない。多分ね。はっきりとは、自分でも分からないが」
「……そうか」
「私に声をかけてくる元老の方々だって、都合の良い傀儡が欲しいだけだろうしね。彼らにとっては、誰でもいいんだ。私じゃなくてもいい」
そう言ったテオドールの肩に、マキアスはぽんと右手を置いた。マキアスの顔を見て、ありがとうと言ったテオドールは、そのまま続けた。
「騎士として、民のために働きたいという気持ちはある。皇帝を目指すことが、民のためになることだと言う人もいるが……、やっぱり私には、よく分からないんだ」
「気にするなよ。言わせたい奴には言わせておけ」
「……父上が生きていたら、私に何とおっしゃっただろうか?」
「……どう、なんだろうな。多分親父さんも、テオの好きなようにしろって言ったさ」
テオドールと話すうちに、マキアスの中には、アルフェの事を彼に相談しようという気持ちは完全に消え去っていた。やはり、これ以上の負担は、親友の肩には重すぎる。
――俺が強くなれば。
そして、その思いにマキアスは回帰した。
強くなれば、強くなりさえすれば、アルフェのためだけでは無い、テオドールのためにだって、自分は何かをしてやれるはずだ。
「テオ――」
少なくとも、俺はお前の味方だからと、そう言おうとしたマキアスは、通路の向こうから数人の高位騎士が歩いてくるのを見た。マキアスは、反射的にテオドールの肩に置いていた手をどけて、言葉遣いも改める。
「……いえ、テオドール様、俺は、あなたの――」
しかし、上手く言葉にできなかった。
テオドールも自身の背後を振り向き、マキアスの態度が急に変わった理由を理解したようだ。彼にしては珍しく、苛立たしそうに鼻で笑うと、逆にマキアスの肩に手を載せた。
「いいんだ、マキアス。分かってる。――ありがとう」
「……すみません」
そして、そう言ってうつむいたマキアスの前で、テオドールはぽつりとつぶやいた。
「……ベルダンの町で」
「え?」
「あの町にいた時は、楽しかったな。アルフェさんも居て――」
「おやテオドール君! 久しぶりだね」
高位騎士の声に遮られて、テオドールのつぶやきはそこで途切れた。あっという間に囲まれたテオドールは、彼らに連れ去られるように廊下の向こうへと姿を消し、マキアスは、その場に一人残された。
ベルダンにいた時は、楽しかった。
そのつぶやきが、マキアスの耳に残った。
帝都を離れている間は、己の血筋のことも忘れ、ただ一介の騎士として、自分の正義感の赴くままに振る舞っていれば良かった。
テオドールにとってもまた、あの町の日々が特別な思い出として残っているのか。あの町に居た頃のテオドールの笑顔は、今とは違って屈託の無いものだったと、マキアスも覚えている。
「…………俺が、もっと強くなれば」
マキアスは一度天井を仰ぎ見ると、宿舎に戻るのを止め、訓練所へと引き返した。




