160.冬ごもりをする少女
香草やキノコ、木の実を詰めた籠を持って、アルフェは冬の山を歩いている。
冬山と言っても、帝国の中部以北には、余程標高が高い山で無い限り雪は降らない。アルフェのいるこの山は、丘に毛が生えたようなこぢんまりとしたもので、頂上にも木が生えている。
紅葉して落ち葉を落とす木もあったが、多くは常緑の広い葉を持った木だ。アルフェがそれらの木々の間を、さくさくと足音を鳴らして向かっているのは、人里ではなく、山中にある野営地である。
野営地に戻ると、彼女は収穫してきた戦利品を、干すために吊したり、塩の中に漬け込んだりして、保存できるよう処理をした。
その野営地は、アルフェがいつもの冒険の時に設営するような簡単なものと違い、長期の滞在を意図した、しっかりとした造りになっている。三方を崖に囲まれた手頃な広さの空き地には、計三つのテントが建てられており、馬のために柵の囲いまで用意してあった。
秋の終わりにバルトムンクを出発したアルフェは、冬の終わりの今になるまで、ノイマルク北方の結界外にあるこの山に籠っていた。
理由はもちろん、鍛錬のためである。
コンラッドの仇の素性がはっきりとした今、自分に決定的に足りていないのは、強さだけだとアルフェは思っていた。
彼女が世界一強いと、今もって信じている師の命を奪った相手を殺すには、今よりずっとずっと強くならなくてはいけない。それこそ、バルトムンクで出会ったパラディンにも勝てるくらいに。
アルフェが野営地を設営したこの場所には、もともと魔獣の巣があった。
数ヶ月前、この地にやって来た当時のアルフェよりも、格段に強大な相手だったが、それでも彼女は勝った。例のごとく、傷だらけになりながら。
今再戦すれば、その魔獣とはかなり有利に戦えるはずだ。常人の基準では計り知れない、驚異的な速度でアルフェは成長している。
それでもアルフェ自身は、中々強くなれない自分に対して、もどかしさを感じていた。彼女がこの近辺の魔獣に、片端から喧嘩を売っているのは、鍛錬以外に、そういう苛立ちも少しは関係していた。
彼女が廃都市の大聖堂で共闘した、魔女のネレイアとオークのグラムとは、バルトムンクで別れた。
ネレイアは水路で帝都まで移動し、そこから彼女の国に向かう交易船に乗せてもらうつもりだと言っていた。順調にいったのなら、今頃はもう故郷に到着しているかもしれない。
グラムはバルトムンクの近くにある、滅びたオークの集落に残った。いずれそこから移動して、他の部族に合流することになるかもしれないが、今は気の済むまで、一人きりであそこで暮らしたいのだそうだ。
今の彼女に付き従っているのは、剣士のフロイド一人だけである。
そのフロイドは現在、単独で山を下り、近くの都市まで行っている。コトブスという名前のその小都市には冒険者組合の施設があるので、アルフェはフロイドを定期的にそこに派遣し、物資の調達や情報の収集を行わせていた。
廃都市で再会し、今は敵方に居る大公家の臣下であったクラウスが、アルフェと連絡を取ろうとすれば、各地に居る情報屋組合の構成員を通して手紙が届くはずだ。その都合もあって、鍛錬のため、完全に人里の事を忘れて山に籠るということは難しかった。
「これでよし、と」
熾火にかけた鍋に下ごしらえをした野草を投げ込むと、手を払いつつアルフェは立ち上がった。これは夜まで、どろどろになるまでひたすら煮込む。できあがるものはかなり苦いが、健康に良いと本に書いてあった。
野営地の三つのテントは、アルフェとフロイドがそれぞれ一つずつ、食料などの置き場として残る一つを使っていた。そしてアルフェのテントには、かなりの冊数の本が置かれている。情報屋のゲートルードの言では無いが、知識を得ることも、自分にとって不可欠な修行だと、アルフェは思うからだ。
それに、もともとアルフェは本が好きなのだ。まだ大公領が健在で、アルフェがラトリアの城にいた時、彼女は部屋で図鑑などの本ばかり読んでいた。
そもそも、アルフェの部屋には本の類いは一冊も置かれていなかったのだが、あの塔には誰も使っていない秘密の書庫があって、部屋から抜け出した時、偶然それを見つけたアルフェはこっそりと――
――【思い出すな】
「つ……」
目の奥に鋭い痛みが走り、アルフェは顔半分を軽く手で押さえた。
またこれだ。故郷ラトリアにいたころの記憶を掘り進めようとすると、アルフェは酷い頭痛に襲われる。
最近は、ラトリアの事を少し思い出そうとしただけで、頭の中で制止する声がする。その「声」がはっきりと聞こえるようになったのは、自分にかけられているという心術が、強まっているからだろうか。それとも逆に、弱まっているからだろうか。
声によって認識が歪められていると、今でははっきり自覚できる分、どうやら後者のようだとアルフェは考えていた。
アルフェがラトリアを離れて約三年。どんなに強力な術でも、永遠ではない。もしかしたら、解呪の方法を探すまでもなく、この記憶の混乱はいつか解消されるのかもしれない。
その奥には、いったい何があるのだろうか。
「…………ふう」
痛みが引くと、アルフェは服の袖で額の汗をぬぐった。この寒い気温にもかかわらず、濡れた肌着が背中に張り付いて気持ちが悪い。
アルフェは火にかけた鍋をちらりと見た。これが煮えるにはまだ時間がかかる。それに夕食より先に、この濡れた服を着替え、身体を洗ってしまいたい。少し荒れた息を、深呼吸で整えた彼女はそう考え、入浴の支度を調えた。
入浴と言っても、わざわざ焚き火で湯を沸かしたりする必要はない。この野営地にはなんと、贅沢にも天然の温泉が湧いているのだ。
ノイマルク領の周辺は、温泉地として知られている。実際、アルフェがここに来る前に立ち寄ったいくつかの町でも、多くの温泉宿が営業していた。ノイマルクの地下には、地面の熱によって温められた湯の脈が張り巡っているというのは、これも本で得た知識である。
この山にまでそれが湧いていたのは、単なる偶然だ。しかしアルフェも歴とした女性である。好きな時に入浴が可能で、戦う際にも身体の汚れをそれほど気にしなくて良いというのは、思いもかけぬ幸運であった。
温泉は、野営地の背後にある崖の中腹、周囲の木の背丈よりも高い場所に、岩からしみ出すようにして湧いている。人間が浸かれるように地面をえぐり、ぐるりと石を積んだのはアルフェだ。鍛錬の合間、そんな事に精を出すアルフェを、フロイドはやれやれといった表情で、しかしどこか面白そうに眺めていた。
――あんたもいっぱしに、そんな事を気にするのか。意外だな。
そう皮肉を言っておいて、場所が整ってからは朝、昼、晩と欠かさず温泉に浸かっているのだから、あの男もいい気なものだ。
そのフロイドは人里に居て、多分今日も帰ってこない。髪を後ろで縛り、服を全て脱ぎ捨て白い肌を露わにすると、アルフェは行儀悪く、どぼんと湯の中に飛び込んだ。
「は~…………」
凍えた皮膚にしみこむような温かさである。両手両脚を目一杯に伸ばしたあと、アルフェは鼻の下まで湯に浸かって目を閉じた。脳天だけが冬の空気にあたって冷やされ、とても心地良い。
ここは魔物が出る結界の外であるが、そんな事も忘れそうになる。
もっとも、ここを巣にしていた魔獣を倒して以来、並の魔物はアルフェを恐れ、この山に近寄ろうとすらしてこないのだが、とにかく、雑音の多かったバルトムンクの町よりも、ここの方がまだくつろげるとアルフェは考えていた。
数十分ほど湯に浸かり、身体を芯まで温めると、アルフェは温泉の縁に腰掛けた。彼女ののぼせた、なめらかな肌からは、白い湯気が立ち上る。崖下からは、そんな彼女の裸身が丸見えだろうが、今は誰の目も気にする必要がない。
ぼんやりと景色を眺めると、山裾の向こうには、先日アルフェが兵たちの小競り合いに巻き込まれた荒野が広がっていた。
ノイマルク伯とトリール伯が、戦争をしている。
そのことは、アルフェも冒険者組合などで耳にしていた。だがまさか、自分が実際に両軍の戦闘場面に出くわすとは、彼女は想像していなかった。ノイマルクとトリールの領境は東西に長く、アルフェがいるのはその端も端だったからだ。
正直、戦争に興味は無い。争いたければ、好きにすればいいと思う。今回のように、八大諸侯同士が正面から戦うのは珍しいことだとしても、帝国内ではここの他にも、様々な領邦が始終角を突き合わせている。
傭兵のように、冒険者が戦争で兵隊働きをすることは多いが、今のところ、アルフェはそういう仕事をするつもりがなかった。だから、次にまたああいう事があったら、場所を移ることも考慮しよう。風景を見下ろしながら、アルフェは思った。
――ノイマルクの、ベレン・ガリオ将軍……。
この戦争の中で、アルフェの心を引くものがあるとすれば、ノイマルク家臣団の中でも最強と呼ばれる、その名前くらいだ。あとは、トリール伯に仕える幻術士のライムント・ディヒラーか。
折角この地に居るのだから、パラディンに並ぶという彼らの実力を実際に目にしたい。そしてあわよくば、手合わせをする機会が欲しいとまで思う。
どちらかと言えば、アルフェはライムント・ディヒラーよりも、ノイマルクのベレン・ガリオに関心があった。ユリアン・エアハルトには劣るものの、この将軍も、大剣を振るって戦場で一騎当千の働きをするのだという。
人間と戦うのは、魔獣を相手にするのとは勝手が違う。アルフェが最終的に殺したいのは人間なのだから、人間相手の戦闘経験がもっと欲しい。この野営地で同じ相手――フロイドとばかり試合をしていても、中々新しい“発見”が無い。だからどうにかして、もっと強い相手と――
「――くしゅん!」
アルフェの思考は、彼女自身の大きなくしゃみによって中断させられた。考え事に夢中になって、全身がすっかり元通りに冷たくなってしまっている。アルフェは自分を抱きしめて一つ震えると、再び湯に身体を沈めた。
「ふむ……」
彼女がどんなに物騒な事を考えていても、湯の力がそれを洗い流していく。思考は溶けて、アルフェはぼうっとした気分になった。
結局、彼女が湯から上がったのは、それからさらに一時間ほど経ってからだ。




