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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第四章 第一節
166/289

158.小競り合い

 打ち合う鉄の響きと人の叫びが、晩冬の原野にあふれている。

 刃と刃がかみ合う音、斬られて叫ぶ声、肉ごと鎧を踏み潰すような馬蹄の響き。

 これは、戦場の音だろうか。


 八大諸侯のノイマルク伯とトリール伯、その二人の領地は、皇帝直轄領から見て東方に位置する。さらに東にあるエアハルト伯領ほど大きくはないものの、北のトリールは漁業と北方諸国との交易で、南のノイマルクは東部地域の鉱物産出で、それぞれ栄えた由緒正しい名家である。

 しかしこの二つの領邦は、至極仲が悪かった。

 ノイマルク伯家とトリール伯家が仲違いを始めたのは、昨日今日の話ではない。言ってしまえば、両家の仲の悪さはこの帝国の伝統である。

 不和の根本的な原因がどちらにあったのか、それは歴史の中に埋もれて、今となっては判然としない。だが、トリール領民に聞けばノイマルクの田舎っぽさを侮る言葉が出るし、ノイマルク領民に聞けばトリールの腹黒さを批判する言葉が出る。おとぎ話や芝居の中でまで、トリールとノイマルクは敵同士として登場することが通例となっていた。

 そういう意味では今回の紛争も、歴史のあらゆる場面で争い続けてきた両者にとって、それほど珍しい出来事とは言えなかったかもしれない。


 今現在、数百人規模の部隊が小競り合いを繰り広げているのは、両伯領の境界の、ほぼ東端に位置する原野だ。戦っている両部隊のほとんどが歩兵で、少数の騎馬が混じっている。

 戦っている本人たちは必死なのだろうが、広大な原野の中において、数百人は点にも満たない。滑稽な争いを続ける人間たちを俯瞰してあざ笑うかのように、既に上空には、死肉をあさる魔物が何羽も旋回していた。


「退却だ! 退却!」


 一人の男が、馬上からそう叫んだ。彼はノイマルク側の部隊長だ。

 一時間ほど前、領境を巡回していた彼の部隊は、同じように巡回任務を行っていたらしいトリール側の部隊と遭遇し、戦闘になった。対峙した時の兵はほぼ同数だったが、今は明確に、ノイマルク側が押され始めている。

 隊付きの魔術士の腕が相手よりも劣っていたのか、それとも部隊長の指揮が悪かったのか。理由はともかく、いたずらに兵を減らす前に撤退を選択するのは、指揮官として当然の判断だった。――それに、彼だって死にたくはない。

 しかしこちらが退く気配を見せれば、トリール側はすかさず追撃してくるだろう。そうなれば、一番近い砦まで、何人たどり着けるかは分からなかった。


「退却の鐘を鳴らせ! 早くしろ!」


 既に乱戦になりかけている。このままでは、その撤退の機会すら失う。部隊長はあせり、副官を怒鳴りつけた。

 しかし、その副官が彼の近くに見当たらない。どこに居るのかと探したら、遠く後方を一目散に走っている。

 早々に部隊を見捨てて逃げ出した副官の判断は、ある意味正しいようにも思える。だがしかし、ここが結界の外だということを忘れてはならない。軍勢から十分に離れたところで、副官は上空から飛来した腐肉漁りに浚われた。

 空の上で首を折られた副官を見て、ざまあ見ろと部隊長が思ったのも束の間、目の前まで迫っていたトリール兵の矛が、彼の乗っている馬の前脚を突いた。


「ぐ――ぶふぉッ!?」


 倒れる馬からもんどり打って振り落とされ、部隊長は地面に右肩を強打した。敵の指揮官を捕縛して金星を挙げようと、目の色変えたトリールの兵卒たちが彼に群がってくる。槍を捨てて左手で短剣を抜きながら、部隊長は色々と覚悟を決めた。

 するとそこで、


「魔獣だあッ!!」


 トリール側から声が上がった。


「後方から魔獣! でかい! 迎撃態勢!」


 魔獣とは迷惑な乱入者だが、頭を地面に押さえつけられ、首筋に刃を当てられた部隊長にとっては幸運だった。彼は拘束が緩んだ隙を突いて、死に物狂いで立ち上がる。そこに敵を蹴散らして、部下が数名駆け寄ってきた。


「上官! ご無事ですか!?」

「魔獣はッ!?」

「あっちです!」


 部下の示した方向を見ると、二本の角が生えた巨大な猿のような魔獣が、二つの部隊のすぐ近くで荒れ狂っていた。兵たちの間に見るからに動揺が走り、戦闘どころでは無くなってきている。


「固有種!? この数じゃどうにもならんぞ!」


 それは、彼も今日になるまで見たことがない魔獣だった。どこかの森か山に住んでいたものが、冬で餌が不足し、平地に迷い込んできたのだろうか。

 空気を震わす咆吼が、魔獣から発せられる。仮にこの場にいる二つの部隊の力を合わせても、勝算皆無だと理解するには十分な圧力だ。あれが突っ込んでくれば、それだけで戦場は滅茶苦茶になる。

 いつの間にか、空を飛んでいた腐肉漁りたちの姿は無い。あの魔獣を恐れて、素早く逃げ散ってしまったのか。


「じょ、上官! 指示を――!」


 動揺した部下が部隊長に命令を求める。しかし彼は、呆然と立って、魔獣が荒れ狂う様を眺めていた。

 そうやって冷静に見ると、どうやら魔獣は人間たちを襲いに来たのではなさそうだった。魔獣は怒り狂った様子で、手当たり次第に地面を叩き付け、“何か”を振り払おうともがいている。


 ――た、戦っている……?


 魔獣の巨体があまりにも目立つので見落としていたが、魔獣よりも数段小さな銀色の何かが、魔獣と正面から戦っているのだ。


 ――オオオオオオオン!


 魔獣が振り下ろした巌のような拳が、その何かに止められた。かと思うと、振り下ろした魔獣の拳の方が、耳障りな音と共にひしゃげてはじける。見ていた兵の全てが、驚愕に一歩後ずさったほどだ。


「う……」


 嗤ったと、部隊長は思った。

 魔獣と戦っている銀色の何かが、悲鳴を上げた魔獣を見て笑った。

 トリール兵もノイマルク兵も、その戦場にいた全員が、敵を殺そうとする手を止めて、魔獣と何かの戦いに見入っている。

 追い詰められているのは、魔獣の方だった。今また、何かの攻撃を受けて、魔獣の巨体が宙に浮いた。


「え……? ――わああああ!」


 そして魔獣の身体は、トリールの部隊のすぐ近くに墜落した。地響きを立てながら大地を滑った魔獣の周りを、蜘蛛の子を散らすように兵が逃げ惑っている。


「上官、今のうちです! 退却しましょう!」

「――!」


 部隊長は我に返った。部下の一人が、彼の身体を激しく揺すっている。魔獣の乱入は異常事態だが、確かに、撤退にはまたとない好機を得たと言える。

 退却だと、彼が改めて叫ぼうとした時、兵たちがトリール側を指さして騒ぎ出した。


「こ、こっちに来るぞ!?」

「逃げろ!」


 地面に倒れた魔獣は、無傷の方の片腕を使って身体を起こすと、自分が戦っていた何かに背を向けて、両軍の真ん中を突っ切るように走り始めた。

 なりふり構わない逃走だ。対軍級の魔獣がこんな風に怯えて逃げ惑う光景など、そうそう拝めるものではなかった。

 逃げる魔獣の周りを、さらに兵たちが逃げる。武器を放り出し、他の者を押しのけて逃げようとする者。魔獣の圧に当てられて、放心し立ち尽くす者。恐慌状態に陥った馬たちも駆け回り、戦場の混乱は、もはや収集がつかない。


 ――ああ、ぶつかる。


 魔獣がこのままの軌道で走ってくれば、その直線上に、自分たちがいる。妙に静かな思考で、部隊長は確信した。今日は厄日だ。

 避けようと思っても、常人に避けられる速度ではなかった。このままいけば自分たちは、馬車に轢かれるよりもずっと無惨なことになるだろう。俺の死体は細切れになって、家族の元には届かないんだろうなと、部隊長は諦めた。


「…………え?」


 しかし魔獣の逃走は、部隊長たちに届く前に中断した。

 魔獣はびくりと痙攣したように身体をこわばらせると、一度天を仰ぐようにしてから、ゆっくりと地面に身体を横たえた。

 目から凶暴な光が消え、穏やかな表情になっていく。


「…………し、死んだ……?」


 数分後、部隊長の側でつぶやいたのは、敵方であるはずのトリール兵だった。

 トリール、ノイマルク関係なく、そこにいた全員が、安堵の息を漏らしていた。


「たす、かった……のか?」


 やったぞと誰かが声を上げ、ざわめきが戦場に広がっていく。


「やった! はははは! 俺たち助かったぞ!」

「どうなるかと思ったぜ!」


 小山のような魔獣の死体を取り囲んで、さっきまで殺し合っていた両陣営は、そんなことを忘れて無事を喜び合っている。

 戦闘の再開を言い出す雰囲気でもなくなった。この場は痛み分けということで、両者撤退すればいいのではなかろうか。恐らく多くの者が、その思いを共有していた時に――


「あ、“あれ”は、どこに行った?」


 死骸を見上げたまま、ノイマルクの部隊長はそうつぶやいた。

 魔獣と戦っていた、銀色の“あれ”の姿が見当たらない。


「え? “あれ”?」

「戦ってた……?」


 再び、兵たちは不安そうなざわめきを漏らす。

 魔獣がひとりでに息絶えるはずが無い。この魔獣は何かに追い詰められて、そして死んだのだ。部隊長には確かに見えていた。しかし大半の兵士には、巨大な毛むくじゃらの魔獣がひたすら暴れ回る様子しか、目に映っていなかったらしい。


「そんなもの、いたか……?」

「わ、分かんねぇ……」


 そうやって口々に言い合うほどである。

 だが少しずつ、そう言えば何かが魔獣を弾き飛ばしたのを見ただとか、逃げる魔獣を何かが追いかけていた気がするといった発言をする者が増えていった。

 そして彼らの発言内容には、ある共通点があった。


 “銀色の”何かを見た。


 そんな風に。


「銀色……?」


 部隊長自身も、確かに見た。小さな銀色の何かが、魔獣の足下で動いていた。

 それが恐らく、魔獣を死に至らしめたのだ。


「そ、そう言えば俺、ここに来る前、聞きました」


 年若いノイマルク兵が、つっかえながら声を出した。周りの全員が、彼に注目する。その彼曰く、ここに来る前に駐留した農村で、奇妙な噂が流行っていたのだそうだ。


「あそこに、山がありますよね」


 若い兵士が指さし、皆が顔を向けた方に、確かに山がある。

 山と言っても小さなもので、山頂までこんもりと木で覆われた、ひっくり返した椀のような形をした山だ。確か、バーヌ山と呼ばれている。


「最近あそこに、とんでもない魔物が住み着いたんだそうです」


 怯えた村の老人たちが、兵士に伝えた所によると、あそこには以前、山のヌシとでも言うような強大な魔物が住んでいたのだそうだ。

 そして、ある日それに取って代わって、さらに強力な別の魔物が住み着いた。


「別の魔物……だと?」


 部隊長は、死んでいる魔獣を見つめた。こいつの事を言っているのか。だが違うようだ。若い兵士はさらに続けた。


「新しいヌシだそうです。人間くらいの大きさの、ですがとても凶暴な。あり得ない速さで動き、獲物をどこまでも追って、喉を食いちぎるのだそうです」

「お、俺も聞いたぞ。その魔物が、銀色だって」


 銀色。またその単語だ。

 話が怪談じみてきたが、つまりここで死んでいる魔獣は、その銀色に殺された。

 ではその銀色は、一体どこに行ったのか。疑問はまた、そこに戻る。


 兵士たちは見るからに不安な表情をして、きょろきょろと目を動かし、自分の周りの顔を確かめた。いつの間にか、己の隣にいる男が、その銀色に置き換わっているのではないかと考えて。


「あ……」


 呆けたような声を出して、一人が魔獣の死骸を見上げた。

 つられて他の者たちも、次々に顔を上に向ける。

 よく見ると、茶色い剛毛に覆われた死体の頂点に、何かが座っている。

 銀色の髪に、白い肌。それはまるで人間の娘のようだ。しかし人間の娘がこんな所にいるはずがないし、人間の娘がこんなに美しいはずがないから、きっと魔物に違いない。

 魔獣の死骸を玉座のようにして、銀色の魔物は、不愉快そうに矮小な人間たちを見下ろしていた。


「――怒ってるんだ、あれは」

「え?」

「ヌシだとかなんとか、お前らが好き勝手、あれこれ言うからだよ」


 部隊長の傍らには、いつの間にか、腕組みをした男が立っている。トリール兵でもノイマルク兵でもない。男はまるで、そこにいるのが当たり前のような口調で言葉を続けた。


「だがな、自業自得だ。お前もそう思わないか?」

「え?」


 突然男に水を向けられて、部隊長は戸惑った。


「な、何が……」

「俺は忠告したんだ。こっちに逃げたら、厄介なことになるから止めとけってな。いつもは目立ちたくないとか言ってるくせに、いざ戦いとなると我を忘れるんだからな。――で、予想通り魔獣を倒したはいいが、お前らに囲まれて動けなくなった。そうかと思えば、魔物扱いされてふてくされる……。こんな魔獣を素手でぶちのめせば、魔物扱いくらいは自業自得さ。なあ?」

「え、な」


 なあ、と気安く同意を求められても、部隊長にはどう反応して良いのか分からない。彼は口から奇妙な音を出した。

 腰に剣を差したこの男は、あの銀色の魔物について語っているのだろうか。部隊長は男に向けていた目を、死体の上にいる銀色に戻した。

 銀色は、さっきよりもさらに不愉快になったように感じる。座ったまま頬杖を突いて、そっぽを向いていた。


「ま、俺はあれを引き取ってくから、お前らは好きに続けてくれ。悪かったな、邪魔して」


 男に言われて思い出した。自分たちははじめ、戦争をしていたのだ。周囲の地面には、両軍の兵士の死体も何十と転がっていた。


「聞こえてるんだろ! 降りてこい!」


 男に声をかけられて、銀色の魔物は死体の上で立ち上がると、軽く跳躍した。

 ふわりと宙に浮いた身体が、部隊長たちのいる所までみるみると近づいてくる。かなりの高さがあったはずなのに、銀色は音もなく着地すると、人語を喋った。


「指図しないでください」

「分かった分かった……。で? どうする?」

「帰ります」

「この魔獣は?」

「持って帰りたかったのですが……、人が多いですね。一旦置いておきましょう。あとで毛皮と角くらいは回収します」

「はいはい」


 人間と同じような姿形で、人間と同じ言葉を喋る。これはひょっとしたら、魔物ではなく人間の娘、なのだろうか。薄手のシャツに短いズボンという、冬場にしては軽装の、戦場にしたらあり得ない格好の娘が、男にあれこれ命令している。

 銀色に光って見えたのは、この娘の髪だったようだ。馬の尾のように結わえられた長い銀髪が、娘の後頭部で揺れていた。


「お邪魔しました」


 ノイマルクの部隊長に目を向けると、娘はぺこりと礼をした。

 夢と現実の境目が分からなくなってきた部隊長は、返事をするでもなく、ただ目を丸くしているだけだ。

 部隊長に背を向けた娘は、男を引き連れて、先ほど話題になった山の方向に向かって歩き始めた。取り囲んでいた兵たちは、娘が近づくと自動的に道を空ける。


「また妙な二つ名が付くぞ。良かったな」

「黙りなさい」


 部隊長の耳には、最後に彼らのそんなやり取りが聞こえた。

 そして奇妙な二人がいなくなったあと、両軍の兵はどちらからともなく、何かに化かされたかのような顔をして、すごすごと自分たちの兵営の方へと引き返していった。

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