157.帝都にて
――私より弱い人に、何ができると仰るんですか?
――分かったなら、私の前から消えてください。
――目障りですから。
蔑むような冷たい微笑みを浮かべて、彼女は言った。
青年はそれを受けて、ただただ己の無力に打ちひしがれるしかなかった。
そんな風に言う彼女を、恨んだりはしない。
そんな事を言わせる自分が、ひたすらに情けないのだと。
◇
帝国の首府たる帝都には、二つの大規模な宗教施設がある。
一つは、神聖教会の総本山であるミュリセント大聖堂。もう一つが、神殿騎士団の本部である要塞ワルボルク。
百万の人間が暮らす超大都市だけあって、帝都には他にも、大小の教会や礼拝所がおかれている。しかしこの二つだけは、規模の面から言っても歴史の面から見ても別格であり、宗教施設というよりは、最早それぞれが一個の町であった。
その要塞ワルボルク内にある練兵場を兼ねた広場を、団員の詰め所目指して足早に歩いているのは、青年騎士のマキアスだ。バルトムンクから戻った彼が、旅支度を解くよりも優先して向かっているのは、その詰め所の中にいるはずの、彼の団長のところである。
神殿騎士団を束ねていると言える人間は三人いる。騎士団の頂点に立つ、第八十七代総長のカール・リンデンブルムがまず一人。そして彼の両腕とも呼ばれる、第一団長と第二団長が他の二人だ。そして今、マキアスが面会を求めようとしているのは、その右腕のほう、パラディン筆頭にして第一団長の、ヴォルクス・ヴァイスハイトその人であった。
「マキアス! ここにいたのか!」
要塞の中はひたすら広い。いくつかの区画を抜けて、一直線に団長の下に向かおうとしていたところ、マキアスはある人物とすれ違った。
「テオドール……様。お久しぶりです。本日、任務から帰還しました」
そこには、二人以外の他にも人の目があった。マキアスは、久々に顔を見た幼馴染みの親友に対して、敬った丁寧な挨拶をした。
マキアスに頭を下げられたテオドールは、目のあたりに少し影を走らせると、それでと聞いた。
「そう、君がアイゼンシュタイン卿と戻ってきたと聞いたんだ。何があったんだ。君はエアハルトに派遣されたんじゃなかったのか。どうしてバルトムンクから?」
「それは、色々と事情がありまして……」
一瞬マキアスは、テオドールにバルトムンクであったことを打ち明けようか迷った。例え身分に差があっても、テオドールはそんなことを気にしない。彼はマキアスの相談を、親身になって聞いてくれる。それに、アルフェのことはテオドールだって心配していた。
だが、テオドールの顔はどこか暗く、とても疲れている様子だ。それがマキアスを躊躇させた。帝都にいる時のテオドールは、どこに居ようとも自由になれない。彼はそういう定めを負っている。
騎士団の人間や帝国の元老をはじめ、彼とよしみを通じようとする人間は、後を絶たないはずだ。現に今もテオドールの背後には、数人の偉そうな男たちが立っている。彼らのにこにことした薄っぺらい笑いは、早くどこかに行ってしまえと、マキアスに無言の圧力をかけているように見えた。
「……いえ、ご心配には及びません。これからその件について、ヴァイスハイト団長に報告に上がる所です」
親友に、これ以上余計な負担をかけたくない。だからマキアスは、敢えてよりかしこまった態度で、胸を張って言った。
「そうか……」
団長の名前を出したことで、テオドールはいくらか安心したようだった。
「しかし、何かあったら私にも聞かせてくれ。約束だ」
「はっ!」
笑顔で念を押すテオドールに、直立して返事をし、マキアスは彼らが通り過ぎるのを待った。
テオドールを中心とする一団がいなくなってから、マキアスは小さく息を吐いた。
お前こそ、大丈夫なのかとマキアスは思った。
テオドールの周りに群がる人間が、この前に見かけた時よりも増えている気がする。
かつての皇帝の血を引いているというだけで、望むと望まざるに関わらず、権力に関心のある者たちから逃れることはできない。テオドールもまた、辛い立場にいる。
しかし、今のマキアスにとっての最優先事項は、申し訳無いがテオドールのことではない。彼は再び、最初の目的地に向かって歩き始めた。
複数の砦を連ねたような構造のこの要塞は、数百年の時をかけて、増改築を繰り返されてきたのだという。その中には、それこそ食堂から商店まで、あらゆる施設がそろっている。目的の部屋の扉の前に立つと、マキアスは背筋を伸ばし息を整え、ノックをした。
「マキアス・サンドライトです。少し、お時間よろしいでしょうか、団長」
「ああ、いいよ。入れ」
気軽な声が中から響いた。マキアスが部屋の中に入ると、中央の執務机に付いていた男、神殿騎士団第一団長ヴォルクス・ヴァイスハイトが椅子から立ち上がった。
「お帰り、マキアス。任務ご苦労だったね。エアハルトはどうだった? 観光する暇は無かっただろうけど」
「団長、私は……」
ヴォルクスは、ズボンと腕まくりをしたシャツ一枚の、随分と気さくな格好をしている。執務机に軽く腰かけるような形で、彼は微笑んだ。
「どうしたんだ、そんな改まって。いつもの調子で構わないぞ」
「いや、その……、俺は……」
マキアスはうつむき加減になり、拳を固めた。ここに来たのは、ヴォルクスにどうしても頼みたいことがあったからなのに、いざ口に出そうとすると気後れしてしまう。言いよどむ部下を見てどう思ったのか、ヴォルクスはマキアスの前まで来ると、その肩をぽんと叩いた。
「……お前からの手紙は受け取った。だが済まない、丁度色んな事が重なってね。中々返事を書くことができなかったんだ。……難しい、案件だったしね」
そう言えばとマキアスは思い出した。すっかり忘れていたが、自分はバルトムンクからヴォルクスに手紙を送っていたのだ。
総長の命を受けたロザリンデ・アイゼンシュタインが、ゲオ・バルトムンクと面会したことについて報告する内容だった。その秘匿されたやり取りに、妙な不安をかき立てられたマキアスの判断だった。ゲオ・バルトムンクが、騎士団に資金を融通しようとしている事も、そのあとに知った。確かにこれらは不穏な案件だが、今のマキアスはそんなことを忘れ、完全に別の思いに気を取られてしまっていた。
「すみません、お忙しい所に……」
「いや、構わない。お前が心配するのは当然だよ、マキアス。……確かに、そんな事にパラディンを使うのは妙だ。私も聞かされていなかった。カール総長は、何を考えているのかな……」
ヴォルクスはマキアスの肩に置いていた手を離すと、少し部屋の中を歩いてそう言った。その顔は総長の行為の政治的な意図について、真剣に考え込んでいるようだった。
「……あの、団長。俺から、一つ頼みがあるのですが」
団長にこの件を相談したのは自分である。それをどうでも良いことのように話すのは不誠実だが、それでもマキアスにはどうしても、別にヴォルクスに頼みたいことがあった。恐らくこの帝国で、いや、この世界で最も強い人間である、パラディン筆頭の彼になら、きっとマキアスの願いが叶えられる。
「……ん? ウルム大聖堂の調査の事なら、心配要らない。そっちには新しく人をやったし、お前がアイゼンシュタインの命令に逆らえなかったことも理解している。全く、あの娘も無茶をするよ。……しばらく、こっちでゆっくりするといいさ。妹さんにも、顔を見せてやればいい」
「ありがとうございます。……ですがそのことではなく、もっと……、その、個人的な頼みで……」
「個人的……? どうしたんだマキアス。さっきから、お前らしくないぞ」
ヴォルクスは可笑しそうにマキアスを見ている。
決意したマキアスは、言いよどむことを止めて、きっと顔を上げ、大きな声を出した。
「団長、お願いします! 俺を強くして下さい! 俺は……、俺は、強くなりたいんです!」
◇
バルトムンクで、マキアスはアルフェに会った。
ロザリンデが突然、帝都に帰ると言い出した日の夜。マキアスがカタリナに、俺は残ると言い張った日の夜に。
カタリナには三日だけ待ってくれと言ったマキアスだったが、本当を言うと、その時の彼は、何日でもバルトムンクでアルフェを待つつもりだった。待っても来ないなら、どこまででも探しに行くつもりだった。
例えそれで、騎士の身分を棒に振ったとしても構わない。その時の彼の頭からは、最愛の妹のことすら、どこかへ抜け落ちていた。
その夜に、マキアスはアルフェに再会したのだ。
カタリナと別れたマキアスは、一度自分の宿に向かった。それから夜まで冒険者組合などを廻り、アルフェが帰ってきていないかを確かめた。しかしそれは例によって空振りに終わり、肩を落として、星の出ている深夜の道を、マキアスは宿に戻るためにトボトボと歩いた。
その道の途中で、ごく普通に、当たり前のようにアルフェが歩いていた。多分、冒険から戻ったばかりだったのだろう。ベルダンにいた頃、マキアスが見たままの格好で、彼女は歩いていた。
あまりにも自然だったので、マキアスははじめ、それが彼女だと気付かなかったほどだ。アルフェの方も、マキアスがこんな所にいるとは思っていなかったはずだ。二人はすれ違ってから数歩歩いて、同時に振り返った。
「…………アルフェ?」
「…………マキアス、さん?」
その声を聞いて、マキアスの中に、ベルダンに居た頃の彼女の記憶が鮮やかに蘇った。
およそ二年ぶりだった。アルフェは少し背が伸び、大人っぽくなっていた。
しかしそれは間違い無く、あの町から突然に姿を消した、あの銀髪の少女だった。
ようやく会えた。
無事に生きていてくれた。
あふれ出す気持ちで、マキアスは胸が一杯になり、二の句が継げなかった。
「どうして、ここに」
先に口を開いたのは、アルフェの方だった。
アルフェは目を一杯に見開いて、信じられないものを見たという表情をしている。当然だろう。マキアスが探しているなど、彼女は想像もしていなかったに違いない。
その蒼い瞳もやはり、ベルダンに居た時と全く同じだ。そしてベルダンに居た時と同じ声でかけられたその問いに対して、マキアスはただ――
「アルフェ!」
彼女の名を呼び、駆け寄った。
「……!?」
マキアスにも、自分がどうしてそんな事をしたのか説明できない。だが無意識のうちに、マキアスはアルフェの細い身体を抱きしめていた。
無事だったんだな、生きていたんだなと何度も叫びながら、マキアスは彼女の背中と頭に手を回し、爆発する感情のままに少女を抱きしめた。
アルフェは少し身体をこわばらせたが、抵抗しなかった。ただ何が何だか分からずに、彼女はマキアスにされるがままになっていた。彼女の名前を呼ぶ度に、腕の中で少女の身体が震えるのが、マキアスには分かった。
「帰ろう! 俺と一緒に!」
「…………え?」
一番大きな激情が通り過ぎても、まだマキアスは興奮していた。今度はアルフェの両肩を掴むと、食い入るようにその目を見つめ、マキアスは叫んだ。
「帰ろう! あいつらが……、リアナたちだって待ってる!」
どうして自分がここにいるのか、そういった説明の全てを省いて、なぜアルフェがここにいるのか、そんな事情も全く聞かずに、ただ感情に流されるまま、彼はアルフェの肩を揺らした。
「帰るんだ! ベルダンに! 俺は……、俺はお前を連れ戻しに来たんだ!」
「私を……?」
「そうだ!」
「……どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか!」
一緒に帰ろう。お前の家はあそこだろう。
言っているうち、なぜかマキアスは、自分の目に涙がにじむのを感じた。
「アルフェ! アルフェ!」
「……」
アルフェはマキアスに肩を掴まれたまま、うつむいて押し黙った。
引き結ばれた小さな唇が、細かく震えている。
少女の肩に、自分の指が強く食い込んでいるのに気付いて、マキアスは慌ててその手を離した。
「……アルフェ」
それでも彼は、呼びかけることを止めない。
どうしてアルフェがあの町から姿を消したのか。それは今もって分からない。だが、アルフェは帰りたがっている。それが間違い無いことだと、彼女の姿を見たマキアスには、確信できたからだ。
「アルフェ……!」
マキアスの呼びかけに応じるように、アルフェは顔を上げた。
ベルダンに居た時のような笑顔が、彼女の表面を通り過ぎたような気がした。しかしそれは一瞬で、彼女は次に、泣き始める前の子供の様な顔をした。それをこらえると、最後に彼女は、とても苦しそうな顔をしてから、どこまでも冷たい、荒んだ表情になった。
「アルフェ……?」
「……どうしてあなたが、こんな所に居るんですか」
聞いた者を凍らせるような、冷ややかな声だ。
アルフェは軽く腕を組んで、少し目をそらしつつ、皮肉な笑いを口の端に浮かべた。
「連れ戻しに来たと仰いましたが……、まさか、私を探していたんですか?」
「そうだ!」
「……っ」
アルフェはまた苦しそうな顔になったが、今度はさっきよりも素早く、冷たい表情に戻った。
「なぜ?」
「なぜって……、お前がいなくなったからだ! どうしてお前が、あの町から居なくなったのかは知らない! でも俺は……!」
何かあったのなら教えてほしい。俺に、お前の力にならせてほしい。マキアスの言葉に込められた熱に反比例して、アルフェの反応は薄くなっていく気がする。だからマキアスは、あえて避けていた質問を、アルフェに投げかけた。
「お前の師匠は、どうしたんだ。一緒じゃないのか?」
「……お師匠様は、亡くなられました」
「……!?」
「……殺されたのです」
あの非常識な強さの男が死んだ。それも、誰かに殺された。彼らの道場の有様を見て、その事は半ば予想していたマキアスだったが、改めて彼女の口から聞かされると、驚きを禁じ得ない。そしてそうであるならば、今のアルフェの様子に納得がいった。
彼女はあの男のことを、誰よりも敬愛していたのだから。
「そうだったのか……。……済まない。肝心な時に、俺たちが町を離れていたから――」
「あなたがいたら、どうにかなったと?」
マキアスは心臓に釘を打ちこまれたような気がした。確かに、どうにもならない。あの男が殺されるような状況で、自分一人がいたところで、きっと何もできなかった。だからさっきの彼の台詞は、慰めにも言い訳にもなっていない。
「でも……! それでも、何かお前の力になれれば……」
「不要です」
「え……」
「不要だと言いました」
そしてアルフェが、己の肩を掴んでいたマキアスの胸を、とん、と片手で軽く押した。
軽い動作に見えたのに、マキアスは急にバランスを崩されて、その場に尻餅をついてしまった。抵抗しようと思っても、きっと不可能だっただろう。
「アルフェ……?」
見上げるマキアスを、アルフェは相変わらず腕を組んだまま、凍る瞳で見下ろしている。
「マキアスさん、あなたには何もできません」
蔑むような冷笑を浮かべた彼女は、ゆっくりと言い聞かせるように、マキアスに言った。
「そもそも、私より弱い人に、何ができると仰るんですか?」
弱いお前にしてもらう事など、何もない。
「わざわざ探して下さったのは、ご苦労様でした。――ですが、余計なお世話です」
余計なことをするな。
「第一、私には、あの町に思い入れなどありませんから。私は冒険者です。冒険者は決まった町に住まないのが普通ですから。だから、リアナちゃんとリオン君のことだって…………」
アルフェはそこで初めて言いよどみ、それでも言葉を続けた。
「気まぐれで、引き取っただけです。もう忘れました。だから私は、あの町に戻りたいと思ったことなど、ありませんから」
「……やめろ」
早口に並べ立てるアルフェの前に跪く格好で、マキアスは血がにじむほどに拳を握りしめていた。
「私があの町に居たのは、ほんの短い間です。忘れて下さい。私のような得体の知れない者など、はじめから居なかったのも同じで――」
「やめてくれ!!」
真夜中の町に響き渡るほどの大声で、マキアスはアルフェの言葉を遮った。
「……怒りましたか」
やはり蔑んだ目をして、アルフェは言った。
確かに、マキアスは怒っていた。だが、マキアスが怒っていたのは、彼女に対してではない。他ならぬ、自分自身に対してだ。
「なら、私の前から消えて下さい。……目障りですから」
アルフェは、マキアスを怒らせて突き放すために、わざと辛い言葉を選んでいる。これらの言葉が彼女の本心で無いことは、マキアスにはよく分かっていた。
これが本心なら、どうして今の彼女のように、蔑んだ目の端から、涙を流す事があるだろうか。これ程に震えた声を出すことが、あるだろうか。
何もできない。
彼女より弱い自分は、彼女のために、何もしてやれない。
今の自分は、彼女を無闇に苦しめているだけだ。
それでも、何か力になれると思っていた。いや、そう思い込む事で、目をそらしていた。
だがしかし、彼女を襲った理不尽は、マキアスではどうにもできないものなのだ。
だからこそ、彼女はこうやって、細い身体を精一杯に大きく見せて、冷たい言葉を吐いている。ただただ、マキアスを巻き込まないように。何のことは無い、今のマキアスは彼女を守る立場ではなく、彼女に気遣われる立場なのだ。
「…………分かった」
うつむき、唇を噛み締めて、マキアスはその言葉を絞り出した。
己の無力が、よく分かった。
マキアスはできるなら、調子に乗って彼女の前に出てきた自分の顔を、思い切り殴り飛ばしてやりたかった。
「お前の言いたい事は、よく分かったよ。アルフェ」
「う……」
地面に向けられているマキアスの目には、その時の彼女が、どういう表情をしているかは映らなかった。
「……困らせて、すまない」
アルフェと目を合わせないように、マキアスはゆっくりと立ち上がった。油断すると、きっと涙が落ちてしまう。そんな無様を、これ以上彼女の前で晒したくない。
この無力感をどうにかするには、結局のところ、強くなるしか無いのだ。何も言わずとも彼女に頼られるくらいに、少なくとも彼女の横に並べるくらいに、強くなるしか。今の自分には、彼女が流す涙を拭う資格すら無い。
「悪かった」
「あ……」
だからマキアスは、アルフェの顔を見ることなく歩き出し、彼女の横をすり抜けた。
「すまない」
力になれなくて、すまない。無力な男で、申し訳無い。生きていてくれた。今はそれでいい。だから今は、せめて君を困らせないように、黙って去ろう。
でもきっと、次に会う時までにはきっと、君のために戦えるよう、強くなるから。
◇
強くしてくれといきなりマキアスに頼まれて、ヴォルクスは顔から笑いを消した。重々しい声で、彼はマキアスに言った。
「……お前は別に、弱くはないよ、マキアス。若手の中ではマシなほうさ。別に焦らなくても――」
「お願いします団長!」
マキアスは深く深く頭を下げている。ヴォルクスが断れば、それこそ地に額をこすりつけんばかりの勢いだ。
「何か、心境の変化があったのかな?」
「……訳は、どうか聞かないで下さい」
「……ふうん」
碧い目を細めて、ヴォルクスはマキアスの表情を観察している。
パラディン筆頭に個人指導を頼むなど、マキアスのような下級貴族出身の下っ端騎士には、普通は許されない。だが、今のマキアスにはこの方法しか思い浮かばなかった。
「ま、いいよ」
しかしヴォルクスは、案外と気軽な調子でそう言った。
「団長……!」
「若い頃は誰でも、強くなりたいと思う時があるものさ」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
久しぶりに喜色で顔を輝かせ、マキアスは心の底から礼を言った。
「だが、厳しいぞ。それなりに覚悟してくれ」
マキアスは苦笑いした。
ヴォルクスは何でもないように言っているが、彼の“厳しい”や“それなり”は普通の基準ではない。訓練所時代に、ヴォルクスが“楽勝だ”と言った訓練で、テオドールとマキアスは数回死にかけた。
だが、望むところだ。
「決して弱音は吐きません! 必ず期待に応えます!」
「別に期待はしてないさ。でもまあ、パラディンにもいくつか空席がある。それを狙えるくらいには、強くなってもらおうか」
ヴォルクスの本気か冗談か分からない発言に、マキアスは苦笑いを引っ込めた。
特訓は明日からだと言われて、マキアスは礼の言葉を繰り返しながら、ヴォルクスの執務室を引き下がろうとした。
「……誰でも、強くなろうとする、か。……あいつも、そんな感じだったのかなぁ」
部屋を出る瞬間、ヴォルクスがやけに感慨深げに言った言葉が、マキアスの耳に残った。だが、扉を閉めると、そんなことも忘れた。とにかくこれで、目の前が開けた気がする。ヴォルクスの教えを受ければ、間違いなく強くなれる。そうして少しでも早く、あいつに追いつく。いや、あいつを追い越すんだ。彼の頭は、そのことで一杯だった。
バルトムンクを発った時の彼とは真逆に、希望に満ちて意気揚々と、マキアスは要塞内にある自分の部屋に戻ろうとした。
「……ん?」
しかし、ヴォルクスの執務室から百歩も行かないうちに、マキアスは妙なものを見た。
彼とすれ違うようにして、ヴォルクスの部屋に向かって歩く女だ。
「……珍しいな」
思わず、そんな言葉が口を突いて出た。
女っ気の少ないヴォルクスを、女性が訪ねること自体珍しい。しかしヴォルクスはパラディン筆頭、本人にその気は無くとも、帝都の女性からすれば憧れの的である。そういう事もあるのかと、そのこと自体については、マキアスは特に気に止めなかった。
彼が珍しいと言ったのは、その女性の特徴的な容姿である。
「黒い髪の人間なんて、帝国にいるんだな……」
祭司服のようなローブを着たその女性は、まるで夜の闇のように、黒く長い髪をなびかせていた。




