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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第三章 第八節
154/289

150.再びの遠征

三部最終章です。

少し時系列が分かりにくいかもしれませんが、冒頭の回想を除けば、時間的には149節からの続きです。

 今日も彼らは、森の中にいた。


 人里を離れた、結界の外の深い森。そこかしこから漂う魔物の気配。彼らがラトリアを脱出してから、一か月近くが過ぎた。

 青年は、己が連れ出した少女と共に、未だこの、結界外の森の中で潜伏している。

 ラトリアの城がどうなったかを知る術はここに無いが、最後の時、城の最奥まで王国兵は侵入していたのだ。持ちこたえるのは不可能だろう。


 ――クラウス、今日もまた魔物ですか……?


 銀髪の少女が、嫌そうな顔を隠さずに言った。

 携帯用の保存食は、数日前に尽きた。この森の中で食料を得る最も手早い方法は、木の実を集めるか魔物を狩ること。ただし今は冬だ。食える木の実を集めるのは難しい。

 したがって、青年が狩ってきた魔物の肉が、二人の命を繋ぐ唯一の糧だった。


 ――ご辛抱下さい。ここには魔物しかおりません。……あとは、そうですね。魔物がお嫌でしたら、こちらを――。


 ――やめてやめて! またあれでしょう。あの芋虫でしょう! それを食べるくらいなら、魔物を食べます!


 少女は嘆いている。当然だろう。何の訓練も受けていない若い娘が、魔物や虫を食えと言われればそうなるはずだ。それどころか、このひと月で少女が遭遇した過酷な体験を鑑みれば、精神に異常をきたしたとしても、何ら不思議はない。その点、この少女の瞳はまだ生き生きと輝いて、良く正気を保っている。

 

 正気。正気とは何だろうか。自分はまだ、正気なのだろうか。


 青年は自問する。彼の意識は、ここまでずっと張り詰めっ放しだった。疲労から正気を失いつつあったのは、少女よりもむしろ、彼の方だったのかもしれない。


 ――我慢して食べます……! 臭いし、苦いし、美味しくないけど……。


 少女は嫌々ながらも、魔物の肉を口に運ぶ。塩すら振らずに直火で焼いただけの魔物肉は、凄まじく不味いはずだ。

 少女は眉をひそめ、ぎゅっと目をつぶって肉を頬張る。肉を噛んで飲み下したあと、ほっとしたように胸を押さえる。目尻には、少し涙が浮かんでいる。そんな風に普通に感情を表す、ここに居るのは、普通の娘だ。


 だとするとこれは、本当にあの娘なのだろうか。


 感情を全く面に表さない、生きているのか死んでいるのか分からない、人形のような娘。それが、青年が今まで少女に抱いていた印象だ。

 それなのに、この表情の変化は何なのか。


 これは、本当にあの娘なのだろうか。


 青年は、二人が地下道から城を抜け出し、山腹の森で城から上がる火の手を見た時の、少女のタガが外れたような笑いを思い出した。

 今まで押さえつけられていた感情が解放されたような、あの、清々しいまでの笑みを。


 ――ごちそうさまでした。


 明るい声に、青年の意識は現実に戻った。


 ――……クラウス、それで私たちは、これからどうするのですか?


 少女は食後の礼をしたあと、なつっこい調子で青年に指示を求めてくる。

 この感覚も不可解だ。例えるなら、生まれたばかりの雛が親鳥について歩くように、少女は青年に盲従してきた。このひと月、ずっとそうだった。

 城が陥落するあの日まで、まともに会話をしたことすら無かったのに、どうしてここまで自分の言うことを信じられるのか。青年にはそれも分からなかった。

 もし彼女が、ドニエステの手から助けられたことを恩に感じているのなら、それこそ、見当違いもいいところだというのに。


 ――……そろそろ、追跡の手も緩んだでしょう。いつまでも、森に居る訳には参りません。どこか近場の自由都市へ。……そうですね、ベルダンが、ここから一番近い。


 ――ベルダン?


 ――ほどほどに大きな都市です。政治的にもほぼ中立ですから……。そこなら我々が目立つことも、あまり無いでしょう。


 ――ベルダン……。そこが私の、住むところになるのですか?


 ――はい。


 この少女の様変わりは気になるものの、青年にとって、主目的は別にあった。彼には彼の、果たさなければならない目的があるのだ。そのためには、やらなければならない事が山積している。何とか森を出て、都市に腰を落ち着ければ、少しは動く余裕ができるだろう。

 そうと決まれば、この森から町までなんとかして移動しよう。町に着いたら身分も何もかも偽装して、空き家の一軒でも借りよう。情報を集めて、彼らが、彼女たちが、奴がどうなったのかを確かめて……。


 ――クラウス、何を考えているのですか?


 そうだ、この少女の名前も、そのままだと当然まずい。青年は少女の名を呼んだ。


 ――アルフィミア様。


 ――何ですか?


 ――これから私たちは、平民に成り済まさなければなりません。そのために、今からは……、そうですね、アルフェとお名乗り下さい。私もそうお呼びします。


 これなら平民風に聞こえるだろうという名を、彼は即興で考えた。


 ――アルフェ……? ……新しい名前?


 ――お嫌でしょうが……。


 ――アルフェ……。


 しかし彼の予想に反して、アルフェというその名前を口の中で反芻したあと、少女はあどけなく微笑んだ。


 ――いえ、気に入りました。私はこれから、アルフェ、ですね。






 オークの捜索から帰ってきた翌日、フロイドは雇い主の異変に一目で気がついた。


「どうかしたのか」


 多分、彼でなくともすぐに気がつくだろう。そのくらい、その日のアルフェはいつもと様子が違っていた。


「……何でもありません」


 もの凄く不機嫌だ。無表情に見えて感情の起伏が大きい娘だが、今日の彼女はフロイドが知る中では、かつて無いほどに不機嫌である。

 それに加えて、彼女にはもう一つ大きな外見上の変化があった。


 ――……赤いな。


 目の周りが、薄暗い空き家の中でも一見して分かるくらいに、赤く腫れている。

 これは涙の跡だろうか。しかし、余程泣いてもこうはならない。何となく疲れて眠そうに見えるのは、一晩中泣き明かしたとでもいうのだろうか。だが、まさかこの鉄のような娘が。フロイドがそう考えていると、アルフェは唐突に言った。


「そろそろ、この町から移動します」

「うん?」

「長居をし過ぎました」


 昨日町に帰ってきたあとに別れて、それから今朝までの短い間に、彼女に何が起こったのだろう。

 しかしフロイドも、この娘の突然の思いつきにはかなり慣れてきた。雇い主の意向でもある。特に反対せずに言った。


「分かった。別に俺はいつでも動ける。特に荷物は無いからな」

「やり残したのは、あの大聖堂の魔獣の件だけです。再戦の準備をします。今度は念入りに。あれを倒したら、もうこの町には戻らないつもりでいなさい」

「了解」


 反対する気は無いが、どうしてこんな急に動く気になったのだろうか。

 だがこの主の思惑など、どうせ考えてもフロイドには予測が付かない。アルフェの言うところの“念入りな準備”をするつもりで、フロイドは踵を返した。


「…………い」


「ん?」


 背中に声を掛けられた気がして、フロイドは振り返った。

 しかし気のせいだったようだ。アルフェは木箱の上に膝を立てて座り、その膝に顔を埋めている。


「……」


 ちょっと待ったが、アルフェから、言葉は何も出てこない。フロイドは空き家の扉を開き、路地に出た。


「ごめんなさい」と、彼女が誰かに何かを謝ったように思ったのは、やはり気のせいだったようだ。



 翌朝、彼らは都市バルトムンクの門前で集合した。

 廃都ダルマキアの大聖堂へ、再びの遠征だ。前回と同じように荷車のような馬車を仕立て、それを黒馬のイコに繋いだ。積み込んだ食料なども、量は多いが前回と同じ。荷物の中で明らかに違うのは、鋼の手斧が二本含まれていることだ。


「本気であのオークを戦力に数える気か?」

「はい」

「後ろから刺されても知らんぞ」

「鏡を見てから言いなさい」


 アルフェの様子は、いつも通りに戻っている。

 隠れ家も何もかも、全てを引き払ってアルフェは出てきていた。言葉通り、この町にはもう戻るつもりは無い。必要なのはゲートルードが握っている情報くらいだが、各地の情報屋との特別な符丁は教わった。


「あなたの準備はいいですね」

「いや、まだだ。ちょっと待ってくれ」


 全て荷物は積み終わった。準備はいいかとアルフェが聞いたのは形だけだったのだが、フロイドはそう答えた。

 だから何かを取りに戻るという訳でも無く、彼は腕組みをしたまま立っている。馬のイコがぶるりと身体を震わせ、前脚で足下の地面を掻いた。


「何をもたもたしているのですか?」


 早く行くぞという思いを込めて、荷台の上に仁王立ちしたアルフェが言った。

 それを聞いたフロイドは肩をすくめ、腕組みを解いた。


「……来ないか。ま、それもあいつの勝手だな」

「来てるわよ」

「お」

「あなたは……」


 アルフェとフロイドが声の方に振り向くと、そこには“水の魔女”のネレイア・ククリアータが、艶めいた微笑みを浮かべて立っていた。


「久しぶりね、アルフェちゃん」


 黒いとんがり帽子と、身体の線が浮き出たドレス。魔女は相変わらず魔女だった。

 どうしてと言う前に、アルフェはフロイドをきっとにらみつけた。ここにネレイアが居るのは、この男の差し金に間違いないのだ。


「魔物を使うんだ。裏切り者の魔女くらい使っても構わんだろ」


 アルフェの台詞を引き合いに出しつつ、ぬけぬけとそう言うと、フロイドは御者台に飛び乗った。

 ネレイアの方は真っ直ぐとした瞳でアルフェを見ると、真摯な態度で彼女の名前を呼んだ。


「アルフェちゃん」

「……」

「私はまだ、あなたにあの時のお礼を言ってないから。……その代わりに、一度だけあなたのために戦わせて」


「早く乗れ」


 無言で魔女を見つめるアルフェの代わりに、フロイドがネレイアを促した。


「フロイド……! 何を勝手に……」

「ありがとう、アルフェちゃん」

「……私にお礼を言われても困ります。……もう、好きにして下さい」


 アルフェは文句を言うのを止めた。荷物の隙間に挟まると、ふてたようにそっぽを向く。その向かいにネレイアが膝を折って座り、フロイドは馬を歩かせ始めた。


「今からどんな敵と戦いに行くのか、分かっているのですか」


 街道を走ってしばらく経つと、アルフェはネレイアに問いかけた。彼女がバルトムンク屈指の冒険者だとしても、あの強さの魔獣と戦った経験は無いだろう。軽い気持ちで付いて来て、いざ敵を目の前にした時に取り乱されては困る。


「フロイドから聞いたわ」


 馬車の揺れを感じながら、事も無げにネレイアは言った。

 まさかこの魔女は、ルサールカとの戦いで死ねなかったから、他に死に場所を求めているのだろうか。そう言えば、いつも付けていた腕の魔術具を、今の彼女は身につけていない。


「……宝珠は壊れてしまったの。先生の形見だったのだけれど。マリベルにあげたと思って諦めるわ」


 アルフェの視線に気がついたネレイアが、寂しく微笑んだ。

 ネレイアの一族が溜め込んできた水の魔力を放出して、あの魔術具は力を失った。修復することは不可能なのだという。


「あれを失って、今の私の力は、前よりも落ちている。でも、あなたの役に立ちたいの」

「……報酬は?」

「前払いで受け取ったわ」


 アルフェは目だけで、御者台にいるフロイドの後頭部を見た。


「……ネレイアさん、あなたは死にたいのですか?」

「いいえ、死にたくないわ」


 ネレイアはきっぱりと言った。


「マリベルを止められたら、死んでもいいと思っていたけれど……。今は死にたくないの」

「……」

「あなたへのお礼が終わったら、故郷に帰ってみるわ。皆の弔いも、改めてしたいから」

「そうですか」


 ふるさとに思いをはせている様子のネレイアに対して、アルフェはそれ以上何も言わず、マントにくるまって横になった。

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