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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第三章 第六節
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142.めがみさま

 対戦相手よりも先に闘場に入ったロザリンデは、砂地の中央付近に立ち、反対側から敵が入ってくるのを待った。その姿を見て、全方位から観客の喚声が浴びせられる。身分は明かさないと約束してあるから、観客たちはロザリンデがパラディンであるということを知らない。しかし純白のハルバードを携え白い騎士服に身を包んだ美しい少女は、彼らにとってこの上のない見世物だったろう。

 ロザリンデにとって、あまりにも低劣で不快な喚声。それすらも気にならず、彼女は対戦相手が出てくるはずの扉を、瞬きもできずに凝視していた。


 ――そんなに、手強い相手がいると……?


 ロザリンデは、さっきから続く己の緊張の理由を、そう考えた。


 ――しかし、パラディンとアイゼンシュタインの名にかけて……!


 ゲオ・バルトムンクに宣言したように、絶対に負ける事はできない。ロザリンデが気合い十分でハルバードを一振りすると、また喚声が上がった。

 向こう側の扉が開き始める。妙なことに、闘技場の人間ではなく、対戦相手が自ら扉を押しているようだ。


 ――銀髪……。


 はじめに映ったのは相手の髪色だ。夜空に差す月の光のような、美しく長い銀の髪。

 うつむき加減で、よろめきながら扉を押す相手の顔は、ロザリンデの目に入らない。


「――すん」


 ロザリンデの鼻に、またあの芳醇な香りが匂った。

 対戦相手は、顔を片手で覆いながら頭を振り、やはりよろめくようにロザリンデの方に向かって歩いてくる。

 体調でも崩しているのだろうか、それとも怪我をしているのだろうか。


「え……?」


 自分の手が小刻みに震えていることに、ロザリンデは気付いた。正体の分からないこの感覚。これは、何なのだろうか。

 いや、そんなはずはないと、ロザリンデはハルバードを振りかぶった。


「…………あ」


 それと同時に、対戦相手が、ゆっくりと顔を上げる。


「あ……ああ…………」


 ロザリンデの口から、奇妙な音が漏れた。

 彼女の前に居たのは、何だったのだろう。

 それは少女だ。ロザリンデと同い年くらいの、長い銀髪の少女。ロザリンデと同じ、人間の女性。

 だが、ロザリンデにとってはそうではない。彼女の目には今、一つの奇跡が映っていた。


 ――天使……? いえ……、女神、様……?


 その少女が顔を上げた瞬間、ロザリンデの視界一杯に七色の輝きが満ちたような気がした。

 そこに居たのは、愛の女神だ。

 美しい、という言葉では足りない。どんな形容詞も、その銀色の少女を表現するのに不足している。鼓動が早鐘のごとく鳴り響き、爆発的な感情がロザリンデを襲う。この感情に何という名前を付ければ良いのか、彼女は知らなかった。

 全く未知の衝撃に、ロザリンデは恐怖すら覚えて、一歩、二歩と後ずさっていた。


「さっさと始めろ!」

「ぼーっとしてんじゃねぇ!」


 野卑な罵声が飛んで、ロザリンデは我に返った。


 ――な、今、私は何を考えて……!? この方は敵! 敵です!


 ここに何をしに来たのか思い出したロザリンデは、ハルバードを構え直す。

 いつの間にか試合はもう始まっている。

 今の一瞬の錯乱は何だったのだろう。もしかしたら知らない間に、敵の心術の影響下にあったのかもしれない。だとすると、最高位魔術に匹敵する強力な支配をかけられるところだった。その規模の魔術をロザリンデに悟らせずに行使する。この相手は恐ろしい敵なのかもしれない。だとすれば、これ以上魔術を使われる前に、速攻で型を付ける必要がある。


 ――一瞬で決着を付けて……! 一瞬で……。


 ふらついていた相手はもう一度頭を振り、大きく呼吸をした。その呼吸すら、ロザリンデの鼻孔にかぐわしいものとして突き刺さる。

 きっとした表情で構えを取った相手と、ロザリンデの眼が合った。ロザリンデを敵として認識した相手の瞳は闘志に燃えていて、それは何とも、何とも……


 ――……きれい。


「――ッ!? 違う! 違う!」


 ロザリンデは突然大声を出した。

 思考が全く自分の思い通りにならない。油断すると精神支配が進みそうになる。何という厄介な相手だろう。人間だと思ったが、セイレーンのように心を支配してくる魔物だということもあり得る。

 そんな事を考えていると、ロザリンデの目の前にいる女神が口を開いた。


「よろしくお願いします」

「……え?」


 女神に声をかけられたロザリンデの心臓が、一際高く跳ねる。

 そして女神は、砂地を蹴ってロザリンデの胸の中に飛び込んできた。



「あれは……、あれはあいつじゃないか!! アルフェだ!!」


 同じ時間、カタリナやゲオ・バルトムンクと共にいたマキアスは、我を忘れて叫んでいた。貴賓室のバルコニーの直下に見える闘場でロザリンデと向かい合っているのは、紛れもなく彼が追ってきたあの少女だ。

 マキアスの記憶にあるよりも背が伸び、全体的に少し大人っぽくなってはいるが、あの銀の髪は遠目からでも間違えようがない。


「た、隊長……!?」

「やっぱりこの町に居たのか! やっぱり――」

「隊長! ちょっと落ち着いて下さい! まずいですよ!」

「え――? あ……」


 バルコニーから乗りださんばかりにしていた彼を、ゲオ・バルトムンクが冷たい視線でにらみつけている。それをカタリナが制止した。


「何をわめいているのだ」

「い、いえ、申し訳ありません。ちょっと――、アイゼンシュタイン様の相手が、知っている人間だったもので」

「ふむ……?」


 ゲオ・バルトムンクは、マキアスの行動にそれほど気を悪くした訳ではないようだった。それよりも、と彼は聞いた。


「そのアイゼンシュタインは何をしているのだ」


 アルフェと相対したロザリンデは、ハルバードを振りかぶったまま一歩、二歩と後退している。開戦の合図が行われても、相手に打ちかかろうという気配すら見えない。


「やはり、パラディンとは名ばかりか。儂にはあの娘が、臆しているようにしか見えん」


 ――……た、確かに。どうしてだ?


 マキアスは思った。

 アルフェは強い。およそ二年前に彼女と出会った時のマキアスは、彼女の正体不明の強さに驚かされてばかりだった。

 しかしそれでも、ロザリンデはアルフェよりも圧倒的な強さを持つ天才だ。この空白の期間にアルフェが成長していたとしても、パラディンを上回る強さを身につけているとは思えない。

 だが、ロザリンデはアルフェに打ちかかることに躊躇している。まるでアルフェを恐れているかのように。


「しかし、メリダ商会の戦士も女とは……。何を見せられているのだという気分になるな」


 この賭け試合を手配し、上手い具合にロザリンデを誘導して己の手札にしたのは自分だろうに、それを棚に上げてゲオ・バルトムンクは嘆いた。


 ――……女? アルフェが女だから? まさか。


 バルトムンク侯の言葉を聞いて浮かんだ想像を、マキアスは否定した。

 ロザリンデは確かに男嫌いの女性びいきだが、そのために任務をおろそかにするということはしない人間だ。必要があれば女とも戦う。

 アルフェの方も、妙な雰囲気を見せている。闘場に入ってきたとき、妙に気だるそうというか、頭痛でもするかのように頭を抑えていた。

 中々戦闘を始めようとしない二人に業を煮やし、観客席から罵声が飛び始める。


 ――そんな事よりも、アルフェ。俺はようやく、お前を見つけたぞ!


 マキアスは腰に差した短剣の鞘を強く握りしめる。

 観客の声に目を覚まされたように、頭を振ったアルフェが構えを取り、猛烈な加速でロザリンデとの距離を詰めた。



「ぐぅ……!?」


 ロザリンデが敵の攻撃をまともに受けたことなど、どれだけぶりだっただろうか。

 銀髪の少女の拳が、ロザリンデの腹にめり込んでいる。

 その攻撃が、見えていなかったのではない。むしろ手に取るように、ロザリンデには相手の動きが読み取れた。それでもかわせなかったのだ。


「せいッ!」


 ハルバードの柄を使って、ロザリンデは自分から相手を引き剥がす。はじかれた敵は、大きく後方に跳んだ。


 ――不覚を取りました……! でも、次は!


 少女の一撃は、ロザリンデの動きにほとんど影響を与えていない。

 そして今の一回で、ロザリンデは相手の動きはほぼ見切った。同じように突撃してくるなら、それに合わせて完璧なタイミングでハルバードの斧部分を振り下ろせる。


 ――でも……、でも……。もしも……。


 だが、ロザリンデには自信が無かった。

 何の自信だろうか。それは、ハルバードを振り下ろして、相手を殺さないという自信だ。

 敵が普通の対戦相手なら、それこそ男が相手なら、死んでも構わないという気持ちで遠慮無く迎撃することができただろう。必ずしも殺す必要が無いとは言え、殺しても構わないのがこの試合のルールなのだから。


 だがもしも、もしも手元が狂って、この少女の首を刎ねることになったら?


 そんな事は許されない。なぜ許されないかは分からないが、絶対に許されない。

 それどころかロザリンデは、この少女の磁器のような肌一筋さえ、傷つけるのは畏れ多いと感じていた。

 なぜなら、この少女は“特別”だからだ。


「く……! 一体私に、何をしたのですか……!?」


 完全に意味不明だ。初対面の相手の事を、なぜ特別だと考えるのか。

 ロザリンデはこの思考の支離滅裂さを、心術による精神支配だとも考えた。しかしそういった魔術に対する防御訓練だって、ロザリンデたち神殿騎士は積んでいる。抵抗する余地も与えずに心を操る魔術など、今まで見たことも聞いたこともなかった。


「何を……? とは、何ですか?」


 不可解に眉をひそめる表情でさえ、無上のものと思ってしまう。さっき殴られた腹部の痛みさえも愛おしい。

 武器も何もかも放りだして、その胸に飛び込んでしまいたくなる。

 これで何もされていないはずがあるだろうか。


「とぼけるのもいい加減に……!」


 ロザリンデはハルバードを握る手に力を込める。

 これ以上、この敵を直視する事は危険だった。

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