14.師匠と弟子の経済的状況
深い深い森の中、息を切らして少女が走る。枝に引っ掛けた服が破れるのも、葉で切れた頬から血が流れるのも構わずに。呼吸が乱れ、肺が破裂しそうになっても、彼女はただひたすらに足を動かす。
考えることは一つだけだ。――あの化け物は、まだ自分を追ってきているのだろうか。
この少女は今日、たった一人で森に入った。糊口をしのぐために、薬草を採取しようと考えたからだ。
幸い薬草を発見することは出来たが、そこで恐れていた事態が起こった。哀れな少女は、魔物――ゴブリンと遭遇したのだ。
森で採れる貴重な薬草は、高く売れる。それは、こういう危険性があるからだ。
浅はかだと、他人が彼女を笑うのは簡単だ。しかしここが危険な魔の森であることは、少女にだって分かっていた。分かっていても、そうせざるを得なかった。なぜなら、彼女のような小娘を雇ってくれる店など、あの町のどこにもない。こうでもして稼がなければ、待っているのは飢えと死だった。あるいはどこかの人買いに売り飛ばされて、奴隷にでもなるのだろうか。
少女としては、他に方法は無かったのだ。
――助けてっ! 誰かっ、助けてっ!
叫びを上げようとするが、声は喉から出てこない。そもそも、こんなところに人が来るはずは無いのだ。死にたくないなら、とにかく足を前に出さなければ。
どこをどう走ったかも分からない。ついに力尽きて、少女は地面にへたり込んだ。ぜえぜえと激しく息をつく。心臓がのどから飛び出しそうだ。だが、しばらくそうしていても、ゴブリンは襲ってこない。
――たす……かった?
何とか振り切ることができたのか。
ようやく動悸が収まり、ほうと息を吐いた少女は、勇気を出して顔を上げ、辺りを見回した。魔物は――いない。しかしその代わり、彼女は今の自分が置かれた状況に気が付き、戦慄する。
「ここは……、どこ?」
周りにはただ、どこまでも暗い森が広がっている。
哀れな少女は、森の奥に迷い込んでしまった。
◇
――……どちらの方でしょう?
その日、道場に通ってきたアルフェは、自分の目の前に広がっている光景を理解できずに戸惑っていた。
いつも通り、早朝の道場には彼女の師匠、コンラッドがいた。だが、普段と違うのは、今日はもう一人いるということだ。それも、若い女性である。この道場に通い始めてから、彼女がここでコンラッド以外の人間を見たのは、これが初めてだった。
まあそれはいいだろう。闘うことしかできなさそうなコンラッドにも、交友関係というものはあるはずだ。非常に意外ではあるが、納得しようと思えばできる。
それよりアルフェが驚いているのは、どうしてコンラッドが床に這いつくばっているのか、ということだった。
アルフェのお師匠様は額を床にこすり付けて、稽古場の奥にいる女性に向かって平伏している。女性は腕を組みながら仁王立ちし、上からコンラッドを見下ろしていた。
「すみません大家さん! 家賃は……、その……、もう少し待っていただけないでしょうか……!」
コンラッドは、いつもの傍若無人な彼は思えないほど丁寧な口調で、女性に謝っている。
――なるほど、そういうことですか。
今の台詞で、アルフェにはお師匠様が置かれている状況が完全に理解できた。
――情けないです、お師匠様。
と同時に、心の中で嘆く。あの女性はきっと、この道場の建物の大家なのだろう。しかしその割には若く見える。年のころは二十過ぎだろうか。コンラッドよりもそれなりに年下だろう。つり目が少しきつそうな印象を与えるが、長い赤毛の彼女は中々の美人だった。
「コンラッドさん、またそれですか……。もう半年分は溜まってますよ? ……まあ、それは『今は』いいのです。私が怒っているのは、別のことです」
底冷えのするような女性の声に、コンラッドがびくりと身体を震わせた。
「あの庭は……、どういうことですか? ずいぶんと見晴らしが良くなったようですが」
女性の言葉に従って軒先を見れば、庭の奥の塀が無残に崩れている。あれはアルフェが初めてここに来た日、お師匠様が破壊した跡だ。コンラッドの震えが、がたがたと大きくなってきた。
「この家を貸した時も、無断でこのような形に改装するし……。この塀は、いつからこうなっているのですか? 聞いていますか、コンラッドさん」
「は! い、いえ……。これは、ちょっと、その、様々な事情がありまして……」
平伏したまま挙動不審になるコンラッドの前で、女性が大げさなため息をついた。
「……はぁ~。とにかく、あなたには誠意を見せてもらいたいですね。店賃でも修理費でも何でもいいですから、少しはお金を納めてください。……今すぐとは言いませんから。じゃあ、後日またうかがいます。よろしくお願いしますね」
ははぁと答えたコンラッドが、さらに身体を小さくした。女性は平伏するコンラッドをそのままに、道場の入り口に歩み寄ってくる。
「あら? あなたは――」
「あ、お、おはようございます」
入り口にたたずんでいるアルフェに気付くと、女性はいたずらな顔で微笑んだ。そして彼女は、挨拶をしたアルフェにぱちりと片目をつぶると、そのまま道場を出て行った。
「――ふう、何とかやりすごしたな」
数分後、身を起こしたコンラッドが、やれやれと額の汗をぬぐった。そこにアルフェが声を掛ける。
「……ぜんぜんやりすごせてないじゃないですか」
「うぉぉっ! いたのかお前は! 声くらい掛けんか!」
「あの状況で、ですか? ……お師匠様、あの方に借金をしているのですか?」
心なしか、アルフェの声は低く冷たい。ばつが悪そうにコンラッドは言い訳した。
「しゃ、借金というほどのものでは……。……少しだけ家賃が、ほんの少しだけ、滞っているだけだ」
「どのくらい?」
「憶えとらん」
「……ふぅ。お師匠様、だめですよ借金は……。きちんとお金は返してください」
師に向かって、こんこんとアルフェは諭した。まずい場面を目撃してしまったが、それでも彼はアルフェにとっては強くて頼れるお師匠様なのだ。あまり情けない真似はして欲しくない。
それに、お金のやりとりはちゃんとしなければならない。
「……わ、わかっている。見くびるな! しっかり金は返す! ……だから、そんな目で見るな!」
弟子のじとりとした視線に、流石に耐えきれなくなったか、コンラッドはわめいた。
「お師匠様も働かれたら良いんですよ」
「人聞きの悪いことを言うな! ちゃんと働いとる!」
「そうだったのですか?」
両手を口に当て、アルフェがまあと驚きの声を上げる。
「わざとらしく驚くな! こうやって道場を経営してるだろうが!」
確かにそうだが、門下生はアルフェだけしかいない。アルフェも銀貨二枚の月謝はきちんと払っているが、それだけで大の男が生活できるわけがないではないか。
「しかし私一人では、お師匠様を養いきれません……」
「そういう誤解されそうな言い方はやめろ! 俺はお前のヒモではない!」
「――? ヒモって何ですか?」
「……細かいことは気にするな!」
アルフェとコンラッドは、道場の中央で向かい合って座っている。いつもの鍛錬を始める空気でもないので、アルフェはお師匠様の家計を立て直す方法を思案し始めた。
「ここは初心に立ち返って、新しい弟子を勧誘されてはいかがでしょうか」
「それができれば苦労はない……」
痛いところを突かれて、コンラッドが渋い顔をする。
今までだって、アルフェの他にも自分の技を人に教えようとしたことはある。だが、誰も彼のようにはこの技術を使いこなせなかった。
アルフェが例外、異常なのだ。この娘の成長は、まさに神がかり的とも言える。コンラッドが教える技を次々と吸収し、数か月前にはウサギも倒せなかった娘が、今は立派に冒険者稼業をこなしている。アルフェと同じような拾い物が、そうそうその辺りに転がっているとは思えなかった。
「では、私と一緒に冒険者になりませんか? お師匠様ほど強ければ――」
アルフェは名案だという風に手を叩いた。
実力的に、コンラッドはアルフェが知るどんな冒険者よりも強い。単純に魔物を倒したりする依頼ならこなし放題だ。
「冒険者? 冒険者か……。うーむ」
「お嫌ですか?」
「ん……、まあな」
しかしコンラッドは言葉を濁した。気乗りしない様子で無精髭に覆われたあごをいじくっている。どうやら彼は、あまり冒険者というものに良い印象を持っていないようである。思いつきを却下されたアルフェは、珍しくむくれた。
「わがままなお師匠様ですね」
「……ぐ、お前も言う様になったじゃないか」
弟子にやり込められながらも、彼女を見て、コンラッドは心の中で思った。
――まあ、いい傾向なのかもしれんが。
お師匠様お師匠様と慕ってくれてはいるが、実のところこの娘は、初めのころ、彼にほとんど心を開いていなかった。慇懃な振る舞いと言葉の奥に、いつも見えない壁を作っていた。それが最近は、少しだけ薄れてきたように感じる。
コンラッドが、ここに来る前のアルフェの事情を尋ねたことは無い。最初は純粋に興味が無かったからだが、彼が今もって彼女の過去を知ろうとしないのは、むやみにそこに踏み込むべきではないと考えているからだ。
この娘の物言いや所作を見れば、元は卑しい身分でなかったということはすぐに悟れる。それがどうしてこんな所で、冒険者などをやっているのか。
――何か、事情があったのだろうが。
本人が語らぬ限り、それは聞くべきことではない。口には出さねど、それがコンラッドの信条だった。自分だって、語りたくない過去のことなど、無闇に他人に触れられたくはない。
「お師匠様、聞いてますか? お金、ちゃんと返さなきゃだめですよ?」
「うむ……、分かっとる」
コンラッドがそんな事を考えているとはつゆ知らず、アルフェはさっきから彼に説教を続けていた。それに曖昧な返事をしつつ、彼は思った。
――確かに、これ以上、情けないところを見られたくないしな。
冒険者に気乗りがしないのは本当だが、弟子を幻滅させるわけにもいかない。自分も少し、金策の方法を考えるか。そう決めて、コンラッドは勢いよく立ち上がった。
「まあ、それはそれだ! 今日も鍛錬するぞ!」
「本当に分かってもらえたのでしょうか……」
◇
――やっぱりお師匠様は、お金に困っているのでしょうか?
道場を出てからもアルフェは考えていた。今のコンラッドに、ろくに収入が無いのは予想できていたが、あれではまともな貯えもなさそうである。
貧乏は辛い。アルフェはそのことを、身をもって知っている。
幸いにして、今のアルフェには余裕があった。一ヶ月ほど前にレイスを討伐した報奨金が、まだ手元に残っているからだ。
先日、町に近い街道沿いに強力なアンデッドが住み着き、アルフェは偶然一緒になった騎士たちとともに、これを退治した。
交易路でもある街道の危険を排除するに際して、ベルダンの商会所は、その討伐に大きな賞金を掛けていた。その金は、即席パーティーを組んだ騎士二人と折半してもまだ大金で、アルフェの懐を大いに潤したのだった。
――金額によっては、私が援助して……。――いえ。
そう考えそうになって、アルフェはやめた。
確かに、コンラッドには鍛えてもらった大恩がある。それに家賃はともかく、道場の塀が壊れたのは、アルフェとも無関係とは言えない。
しかしコンラッドも大人の男、年若い女性から情けを掛けられるなど、紳士の誇りが許さないだろう。また、弟子が師に施しを行おうなどとは、差し出がましいにもほどがある。だからアルフェの方から金を支援したいとは、口が裂けても言うべきではない。
実際にコンラッドがそう考えるかは、はなはだ疑問だったが、とにかくアルフェはそう判断した。
それにもし、嬉々として差し出した金を受け取られてしまったら、今現在もぐらついているアルフェの師に対する評価は完全に崩壊してしまうだろう。彼にはなんとか、自力で殿方の甲斐性というものを見せてもらいたい。
うら若き女性に平身低頭で謝っていたコンラッドの姿を思い出して、アルフェはまたむくれた。
「それよりお仕事ですね」
とにかく今のコンラッドの惨状を見てもわかるように、金と言うものはもしものときのため、いくらあっても困らないのだ。そう思って、アルフェは今日も手ごろな依頼を探しに、冒険者組合に向かって坂を下りて行った。
――……?
しかしその日の組合には、なぜか不穏な空気が漂っていた。カウンターの奥で、組合の職員たちが真剣な表情で話し合っており、普段は酒盛りしている者が多い冒険者たちも、珍しく完全に出払っている。
「――! アルフェか! いいところに来たな」
はげ頭の職員が、入り口に現れたアルフェに気付くなりそう言った。タルボットだ。
アルフェは既に、このベルダンの冒険者組合ではちょっとした有名人になっている。
危険な森やアンデッドの沼地に単独で踏み込み、素材を採取してくる美しい少女。先日は二人の聖騎士と組んで、レイス討伐まで成し遂げてしまった。実際に彼女が戦っている現場を見た者はいないが、その実態は若いながら凄腕の魔術士なのだとまことしやかに噂されている。
当初はアルフェが依頼をこなすたびに、苦虫を噛み潰したような顔をしていたタルボットも、すっかり彼女を一人前の冒険者として扱うようになっていた。
「何かあったんですか? タルボットさん」
「ああ。実は町の娘が一人、行方不明になった。昨日の話だ」
「……! 事情をお聞かせください」
タルボットのその説明だけで、アルフェにはこの場に漂う緊迫した空気の理由が理解できた。にわかに表情を引き締めた少女に、タルボットが説明を始める。
「娘の年は十、鳶色の瞳、茶色の髪を三つ編みにしている。名前はリアナだ。居なくなったのを知らせに来たのは弟。泣きながら、姉が森に行って帰ってこないと言っているそうだ。衛兵の詰め所から、組合にも連絡が回ってきた」
タルボットは前置きも余計な修飾も省いて、要点をつかんで事件の内容をアルフェに伝えた。さらにその話の続きを、別の職員が引き取った。
「通報を聞いて、俺たちが娘の家に行ってみたんだけど……、家にいるのはその弟と、酒びたりの親父だけでさ、話が全く要領を得なかったんだ。かろうじて弟から聞き出せたのは、姉貴が金を稼ぐために、薬草を採りに森に入ったってことだけだ」
「森――、南の森ですか?」
「ああ」
換金できる薬草が採れる森というと、ベルダンの周囲にはそこしか無い。どこかで聞いたような話である。
その森には薬草もあるが――、それ以上に魔物が出る。
「親父は近所でも有名なごくつぶしだが、姉のほうは評判の良い、賢い娘だったそうだ。しかし、賢いといっても十歳の娘だ。早まって危険な森に入っちまったっていうのは……、十分に考えられる」
「今は動ける冒険者を集めて、捜索隊を出しているところだ。……だがちょうど、別件があってな、出せる人数が限られてる。――すまないが、お前も行ってくれるか?」
真剣な表情で頼むタルボットに、アルフェは力強くうなずいた。
「本当に助かる。それに、一人で行ってくれってわけじゃない。今、ちょうど……、ああ、来たな」
タルボットがカウンター脇の階段に目を向けた。二階から降りてきたのは、アルフェも見覚えのある二人の青年だ。
「げっ……、俺たちと組む冒険者ってのはお前か」
「アルフェさんじゃないですか! 久しぶりですね」
「お久しぶりです、テオドールさん、マキアスさん」
アルフェはその二人に丁寧な挨拶を返した。二人の青年とはもちろん、騎士のテオドールとマキアスである。彼らは遍歴の騎士だと言っていた気がするが、まだこの町に留まっていたようだ。
「その様子だと、話を聞いたんだな」
二人のうち、焦げ茶の髪をした青年、マキアスがそう言った。
「私たちも事情を聞いて、これから森に向かうところです。今、上で森の魔物について調べて来ました」
金髪の青年、テオドールが続ける。
「事態は一刻を争う。アルフェさんも同行してくれるとなると、心強いんだが」
テオドールはアルフェに言った。マキアスは黙っているが、その眼差しには期待の色が見える。少女はそれに応えてうなずいた。
「もちろんです。南の森なら、私もある程度は知っています。急いで準備します」
少女が一人で森に入る。どれだけ追い詰められてのことだろうか。同じ経験をしたアルフェには、そのリアナという娘の思いが分かる気がした。しかもその少女は、アルフェよりもずっと幼いという。
――独りで森にいるのは、怖いですから。
誰かが行ってやらなければならないだろう。アルフェは森の中にいる少女を思って、きつく拳を握り締めた。




