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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第三章 第三節
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129.一滴の雫

「マリベル!」


 ネレイアが呼びかけても、届くはずがない。人間だったころのルサールカの自我は既に崩壊しており、ルサールカには相手が何者であるかすら分からないのだ。


「だめ――!」


 そう叫びながらネレイアが魔術の標的にしようとしているのは、ルサールカの前にいるアルフェである。

 いくら一族と恩師の仇でも、姉弟子として魔物として生きる苦しみを断ち切ってやりたいと願っても、己に妹弟子を手にかけることはできない。彼女はそう思って、アルフェとフロイドの協力を仰いだはずなのに。

 衝動に突き動かされたネレイアが、己の行動の意味を理解しているかは怪しかった。


「【水よ――】!」


 ネレイアとルサールカが同時に放った水撃を、泳ぐようにしてアルフェは避けた。

 既に一帯の水位は膝を越え、アルフェの腿にまで達しようとしている。流れも徐々に速くなり、このまま戦闘が長引けば、やがて全てが流されるだろう。

立ち上がったアルフェは、ルサールカを見、それからネレイアを見た。


「アルフェちゃん、だめなの! その子は人間なの! その子は私の――」

「――ッ!」


 アルフェは歯を食いしばった。ネレイアはこの魔物が人間で、自分の妹だと言っている。

突然もたらされた情報を、どう判断して良いかわからない。アルフェにとって明白なことは、ネレイアが自分を裏切ったということだけである。魔女なりの、何か事情があるのだろう。だが、彼女は自分を裏切った。そして裏切られたらどうするか、アルフェは最初に決めておいたはずだ。


 しかし後方のネレイアに構うよりも、今はすぐ目の前にいる魔物を処理する方が先決である。

容赦するつもりはない。以前に人間だったことがあろうと、今の“これ”は魔物なのだ。


「やめてアルフェちゃん!」

「――くッ!」


 アルフェの手刀はルサールカの体をわずかに外した。

 アルフェはそれを、水の流れに足を取られたからだと思ったが、ネレイアの叫びを受けて、少女の頭に思い出された傭兵団長や魔術士の少年の顔が、そのことと無関係だったと言えるだろうか。

 その真相は彼女自身も知らない。だが少なくとも、そこで生じた隙はルサールカにとっては絶好の機会となった。ルサールカが水面に手をかざし、巻き起こる渦が魔法陣を形作る。


「アルフェ避けろ! 高位魔術が――」


 ――【水底に、沈め】


 フロイドの言葉を遮り、ネレイアと同じ呪文をルサールカは詠唱した。

ただしそこに込められていた魔力は、人間の放つ魔術とは比較にならない。


 詠唱の後にやってきた一瞬の静寂と、遅れて上流から聞こえてくる轟音。山の木を一本残らずなぎ倒す勢いで、津波のような水がそこに居た全員に襲いかかる。

 アルフェも、フロイドも、ルサールカ自身の召喚したエレメンタルも巻き込んで、暴流は全てを押し流した。



 ルサールカの魔術が通り過ぎた後、その一帯にはむしろ穏やかな風景が広がっていた。

 今まで増水していた水は引き、川はまだ少し濁っているものの、元の水かさに戻っている。大量の魔力を必要とする高位魔術が、空気中の水のマナまで消費しきってしまったのだろうか。降り続いていた雨さえいつの間にかやんでいた。


 その場に残ったのは二つの影――、“水の魔女”ネレイア・ククリアータと、かつてマリベル・ククリアータだった一体の魔物。


 ネレイアがかろうじて今の波に飲まれなかったのは、彼女の腕にはめられた魔術具が、自動的に持ち主を防護したからだ。そうでなければ、彼女も助からなかった。


「……マリベル」


 いや、そもそも、今のネレイアには助かろうという気持ちさえなかった。

 恩師と一族の仇を討ちたい。妹弟子が罪を重ねるのを止めたい。しかしやはり、自分に彼女は殺せない。相反する感情を処理しきれず、ネレイアはその場に膝をついた。


「マリベル……!」


 彼女にできることは、ただ呼びかけるだけだ。

 正気を失ったルサールカがネレイアを指さして笑い、嗚咽混じりの魔女の呼びかけが繰り返される。


「ごめんなさいマリベル……! 私が、私が弱いから……!」


 両手で顔を覆って泣くネレイアの元に、ルサールカが歩み寄ろうとする。魔術でできた水の槍が、その片手に形成された。

 ここで生き延びたルサールカは、ネレイアとネレイアの所持する魔術具の力を取り込んで、さらに魔力を増すだろう。そうしてまた、気まぐれにどこかの人里が襲われる。いつか誰かが止めるまで、彼女の地獄は終わらない。


「マリベル……」


 ルサールカの前にひざまずいたネレイアの前髪から、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。


 ごめんなさいと、彼女がもう一度謝ろうとしたその時――


「ネレイアさん」


 横から、アルフェの声がした。


「ア、アルフェちゃん……」

「ネレイアさん、もう一度聞きます」


 どうやってあの暴流から生き残ったのか、どうしてここに戻って来たのか、そんなことは、今は些末な問題である。

 それよりも、裏切り者の自分を前にして、戻ってきたアルフェは何を言おうとしているのか。


「私は、今からこの魔物を倒します」

「――っ」


 ネレイアが見た彼女の瞳には、怒りの炎ではなく、澄んだ光が宿っていた。


「あなたの依頼だからです。私は、冒険者ですから」

「……私は――」

「もう一度聞きます、ネレイアさん。……私がやって、いいのですか」


 アルフェの右拳には、うねるような魔力が集まっている。

 ネレイアがうなずけば、きっとアルフェは次の瞬間、一撃でルサールカを消し飛ばしてしまうだろう。そんなアルフェの問いに対して、ネレイアは答えた。


「…………だめよ」

「……」

「だめなの、アルフェちゃん」

「……ネレイアさん」

「この子は私の、妹だから」


 だから――


「私が、止めてあげないと」


 その言葉を耳にしたアルフェの身体から、闘気が消えた。


「……マリベル」


 もう一度ルサールカを直視し、ネレイアは妹弟子の名前を呼んだ。彼女は心の中で、恩師の面影にも呼びかける。


「……【許して】」


 その言葉と共に、ぱきりと音を立てて、ネレイアの魔術具にはまった碧い宝玉が割れた。

 ネレイアの一族が永い時をかけて溜め込んできた水のマナが、宝玉のひび割れから猛烈な勢いであふれ出す。


「せめて、私も一緒に」


 何が起ころうとしているのかは分からない。しかし、ネレイアとルサールカを包むように描かれた立体的な魔力の法陣は、周囲に甚大な被害を及ぼす禁術の域に達した、最上位魔術の発動を意味している。

 事態に気付いたルサールカが逃れようとしても、その時間はもうない。


「先生……。一族の技をここで絶やす私を、お許し下さい」


 そしてはじけた一滴の雫が、凄まじい光と音を立てて、辺りを包んだ。






「それにしてもイコ、お前もよく助かったな」


 山を下りながら黒い馬に話しかけているのは、剣士のフロイドだ。あの山津波に飲まれなくて幸運だったと、彼は馬の首筋を軽く撫でている。そう言う彼自身、生き残れたのは幸運だった。上手い具合に木にしがみつけなければ、どこまでも流されてきっと死んでいただろう。


「あんたは大丈夫か?」

「問題ありません。軽傷でした」


 フロイドの質問に答えた銀髪の少女は、その言葉通り何の問題も無さそうに彼らの後ろを歩いている。


「ま、そうなんだろうがな」


 そう言って前を向いたフロイドの目には、またぐずり出しそうな雲を抱えた空が映っている。ルサールカを倒しても、この雨模様には何の影響もなかった。やはり魔女が言ったとおり、これはただのよくある天候不順なのだろう。


「それにしても……、どうしてだ?」

「何がですか」

「いや、どうしてこの魔女に、とどめを刺さなかったのかと思ったのさ」


 馬の背中には、気を失ったままのネレイアがくくりつけられている。濡れ髪の水は拭き取られて、まるで疲れて眠っているような表情だ。


「こいつは裏切り者だぞ?」


 裏切ったら、始末するんじゃなかったのか――。フロイドの顔はアルフェからは見えなかったが、その声は彼女を咎めているようには聞こえなかった。


「……何となくです」


 アルフェはそう言ってはぐらかした。実際アルフェにも、自分がネレイアを殺さなかった理由は分からなかった。裏切り者を殺すどころか、ネレイアの最後の魔術が発動した瞬間、アルフェは危険を冒して彼女をそこから助けたのだ。


「……それに、報酬ももらっていませんでしたから」

「そうか」


 面には表さないが、アルフェの内側では、まだ思考が渦巻いている。

 ネレイアを思いやるならば、あの魔物と死なせてやるべきだったのかもしれない。いや、自分に裏切り者を思いやる理由はない。でも、ならばどうして助けたのだろう。やはり死なせてやるべきだった。それとも、殺すべきだったのか。

 一体自分は何をしたいのだ。いい子ぶったところで、リグスだって、自分は殺してしまったのだ。そんな自分が、今更――


 ――お前は、優しい娘だ。


「――え?」

「ん? 何だ?」


 足を止めたアルフェを、フロイドが怪訝な顔で振り返っている。

 今、心の中で聞こえた声は、誰の言葉だったか。


「い、いえ」

「そうか。それじゃあ、さっさと町に帰るとしようぜ」

「はい」


 これで良かったのだろうか。目覚めたネレイアが、どう思うかは分からない。


 でも、良かったのかもしれないと、アルフェは思うことにした。

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