128.ルサールカ
川岸の砂利の上に、娘がいる。
薄い服を着た、濡れた髪の美しい娘だ。
その娘は川辺で、無邪気に微笑みながら髪をとかしている。
娘の両の素足は、涼しそうに川の流れに晒されている。川遊びをする少女がいると、見た者がそう思ってもおかしくない。
吐く息が白くなりそうな冷たい雨がふっておらず、その川が黒く濁った濁流でなければの話だが。
「ルサールカ」
突然後ろから名前を呼ばれ、娘はその笑顔を声の主に向けた。
「……ルサールカ。私を、覚えている?」
娘の目の焦点は合っていない。顔に浮かべた無邪気な微笑みは、やがて狂気じみた笑いに変わっていく。
「……そう」
ルサールカに声をかけた女、ネレイアは周囲に魔力を張り巡らせた。
「……あなたが私を憶えていなくても、私は、あなたを許せないの。先生の……、ククリアータの名にかけて、あなたをここで、倒します」
噛みしめるように放った言葉の一つ一つが、魔力の籠った呪文となる。
「【水底に、沈みなさい】!」
突如、川の流れが方向を変えた。自然にはあり得ない軌道を描いて、濁流がルサールカを襲う。笑顔のまま、魔物はその水に飲み込まれた。
しかし、水の魔力の塊であるルサールカには、水を用いた攻撃は通用しない。
まるで飛沫をかけられた子どものように、魔物はいかにも面白そうに喜んでいる。
「くっ。なら――」
ネレイアの両腕にある魔術具が碧く輝き、空中の雨水を一点に集めていく。
「【水よ、穿て】!」
極限まで圧縮された水が、一筋の線となって、ルサールカの額をめがけて飛んだ。
――うふふふ。
ルサールカが手をかざすと、その前でネレイアの攻撃は停止した。魔物は逆にその水を集めると同じようにネレイアに向かって撃ち返す。
ざん、と短い音がして、水が通った後の石が割れ、奥で林の木が倒れた。ルサールカの魔術がネレイアに直撃しなかったのは、魔物が適当に、狙いを定めず攻撃を放ったからだ。
戦う前から分かっていたことだったが、ネレイアの魔術は、どれも魔物に通用しない。無念そうな、哀しそうな顔をしてから、魔女は叫んだ。
「……アルフェちゃん! フロイド!」
私がもっと強ければ、誰にも頼らずに済むほど強ければ。でも――
「――お願い! ……先生の、皆の仇をとって」
後ろで様子を見ていた二人が、何も言わずにネレイアの前に進み出る。アルフェは無表情に、フロイドは戦いを楽しんでいるかのような笑みを口の端に浮かべて。
拳を固め、剣を構えて、既に二人とも臨戦態勢をとっている。
「本当にいいんですね」
念押しするように、アルフェがネレイアに尋ねた。その言葉の後ろを、フロイドが引き取る。
「俺たちがやって、いいんだな」
「…………ええ」
唇を噛みしめたネレイアは、震えながらうなずいた。
「分かりました」「承知した」
アルフェとフロイドは、同時に前へ走っていた。
本気になって迎撃するべきだと感じたのだろう。笑いを止めたルサールカの魔力を受けた水が、砂利から染み出て周囲に幾つもの水球を作る。そして十数個の水球から、先ほどと同じような水の線が一斉に放たれた。
死角からも放たれた多角度の攻撃を、アルフェもフロイドも最小の動きでかわした。かわす動きを反撃につなげ、アルフェの蹴りがルサールカの側頭、フロイドの剣がルサールカの脇腹に迫る。
しかし薄い水の膜が、二人の攻撃を阻んだ。この水妖の魔力にかかれば、薄板一枚ほどの厚さもない水が、あらゆるものを拒む盾となる。
水の膜はみるみるとかさを増して、アルフェの脚とフロイドの剣を取り込もうとした。もちろんそうなる前に離れているものの、自らは一歩も動かないまま、多彩な魔術で二人を相手にするルサールカはさすがと言えた。
ただでさえ強力な魔物が、川辺という地の利を得、雨という天の利を得ればこうなるのか。
ネレイアは気が抜けたように立ち尽くしたまま、二人の人間と一体の魔物の戦いの成り行きを見守っている。
アルフェの拳が水球をたたき落とし、フロイドがルサールカを守る水の膜を切り裂く。 彼女の目からは、二人は苦戦しながらも、確実に魔物を追い詰めているように見えた。
――きゃあ!
「――!?」
今、フロイドの剣が肩をかすめたルサールカが、叫び声を上げたようにネレイアには聞こえた。
「……だめ。――だめよ」
青ざめた彼女のつぶやきは、前線で戦う二人には届かなかった。
よろめいた魔物に、フロイドが追撃をしかける。手強くはあるが、このまま行けば勝てると、彼は確実な手応えを感じていた。
フロイドの刃を瞳に映し、恐怖に歪むルサールカの顔は、まるで本物の人間のようだ。しかしこれも魔物の擬態に過ぎない。水の柱が剣筋を逸らしたせいで、直撃させることはできなかった。だが、フロイドが斬りつけた魔物の腕から流れるのは血液ではない。透明な水のような液体が、魔力と共に傷口からこぼれ落ちていく。
「うおッ!?」
急に横合いから叩き付けてきた濁流が、フロイドの体を押し流す。横転するが、彼はすぐに立ち上がった。
そこで気付いたが、わずかの戦闘で、周囲は全く様変わりしていた。広い砂利場だった川辺は、自然な増水によるものか、それともルサールカの魔術によるものか、溢れた水で満たされている。その水位はフロイドのすねくらいまであった。
「ちぃ!?」
こんな芸当もできるのかと、フロイドは驚いた。水柱を上げて召喚された三体のウォーターエレメンタルが、彼の行く手を阻んでいる。
「それはお前に任せます!」
アルフェの声が耳に入る。了解したと言う間もなく、エレメンタルの渦のような腕がフロイドを襲う。足下に満ちた水のせいで、避けにくいことこの上ない。
「これしきのことで――!」
だがこの程度の敵、ものの数ではない。瞬く間に切り払ってやろうと、フロイドは牙をむいた。
アルフェの方は、エレメンタルに足止めされたフロイドと交代する形で、ルサールカを攻め立てている。水の線撃を放つ水球は、既に全てたたき落とした。ルサールカが新しくそれを作ろうとしても、そんな暇は与えない。
未だにとどめを刺せていないのは、足場が水に変化したせいでアルフェの速度が落ち、逆にルサールカが自由に移動できるようになったからだ。
水面には渦が巻き、アルフェの移動をさらに困難にしている。その上、ここは元々川縁だったのだ。水の濁りで分かりにくいが、この足下はどこかで深い川になっている。それを警戒しようとすると、アルフェの行動には若干のためらいが出た。
しかし、ルサールカの抵抗も長くは続かない。やがてアルフェは魔物を追い詰めた。
怯えるルサールカの顔がはっきりと見える。それはまるで人間のようだ。しかもどこかで見た顔、そう、この魔物はまるで、アルフェたちをここまで連れてきた女性とどこか似て――
「――だめよ!!」
魔物の顔に気をとられていたからか、それとも、“その方向”からは攻撃が来ないと思い込んでいたからか。アルフェは、背中から襲ってきた水撃に肩を貫かれた。
「ぐぅ!?」
吹き出した血が水に混じる。それを見て、エレメンタルと交戦しているフロイドが怒鳴った。
「ネレイア!? 貴様、何を考えてる!」
そう、アルフェを攻撃したのは、彼らの依頼主であるネレイア・ククリアータだ。
「だめ! やっぱりだめ! だめなの!」
「血迷ったな!」
「マリベル! 私は、私は――!」
「マリベル……!? 何を――!?」
「その子は――、その子は私の妹なの!!」
痛みで揺れたアルフェの視界に、魔術を唱えるルサールカとネレイアの姿が映った。
◇
ネレイアが語った、彼女の故郷の話は本当だった。水の魔術を修めた者たちが集まっていたことも、孤児を迎え入れて魔術士として養育していたことも。そして彼女の故郷と恩師が、ルサールカによって滅ぼされたことも。
しかし、ただ一つネレイアがアルフェたちに語らなかったことがある。それが、ルサールカの正体だった。
ネレイアには、彼女が七歳の時に村に迎え入れられた妹弟子がいた。名前を、マリベルという。
マリベルは、ネレイアと同じ孤児であり、ネレイアと同じ恩師の家で育った。血は繋がっていなかったが、師は二人を娘のように、二人は師を母のように、そして弟子同士はお互いを姉妹のように思っていた。
マリベルの魔術の素養は、姉弟子のネレイアよりもはるかに秀でていた。ネレイアも、それを妬ましく感じたことはある。しかしただ一人の、かけがえのない妹なのだ。姉として、彼女の才能を喜ぼう。そんな風に考えていた。
ネレイアが属した一族は、いわば魔術を伝えるための、閉じた世界の一族だ。村での思い出は、決して楽しいことばかりではなかった。だが孤児だったネレイアにとって、そこで与えられた家族という存在は、何にも代えがたいものだったのだ。
――マリベルが、魔力に呑まれた。
あの日、息の絶えかけた恩師が遺した言葉を、ネレイアは信じることができなかった。
魔術士は、マナに寄り添って生きる存在だ。その魔術士が、マナに呑まれて魔物に変容する。ごくごく稀にそういうことがあるのは知っていた。だがしかし、他ならぬ自分の妹弟子がそうなり、一族と師を皆殺しにしたなどと、どうして信じることができただろうか。
見送る者のなくなった村を出て、ネレイアは冒険者となった。村を滅ぼした魔物の影を追うために。魔術を磨き、恩師の仇を取るために。
だが本当は、ネレイアはその魔物の正体が妹弟子ではないことを確かめたかったのだ。
それでも、現実は無情である。ある、自分の一族と同じように滅ぼされた村で、ネレイアは真実を知った。
一族を滅ぼした魔物、ルサールカ。それは師の言葉通り、水の魔女の堕ちた姿であり、ネレイア・ククリアータの妹弟子、マリベル・ククリアータのなれの果てだった。




