114.臣下
空がまだ明るくなりきらない時刻、アルフェはバルトムンクの北西門を出発して魔物狩りに向かった。
大渓谷の底にあるこの都市は、その東西を切り立った崖が、南北を分厚い城壁が塞いでいる。城塞都市と呼ばれるだけあって、バルトムンクを囲む壁は、アルフェがこれまでに見たどの町のものよりも高く頑丈に見えた。
南北の城壁は都市の中心を流れるレニ川にまたがって築かれており、アルフェが通った北西門は河の左岸に位置している。普段ならこの時刻でも河を行き交う船の姿を見ることができたはずだが、最近の雨のせいでレニ川も荒れており、河の上に船影は一つも無かった。
「……」
「……」
街道を進むアルフェの前を、剣士のフロイドが歩いている。しかし二人の距離は遠く、言葉を交わすこともない。
一見しただけでは彼女たちが道連れかどうか迷うほどだ。
そもそも、どうしてアルフェと命の取り合いをしたフロイドが彼女に従っているのか。そこには一応の経緯があった。
あのアンデッドに囲まれた聖堂で、死闘の挙句にアルフェはこの男に勝利した。
しかしアルフェは、この男にとどめを刺さなかった。
いや、刺さなかったというよりも、忘れていたと言った方が正しい。
勝負が決した直後に、アルフェにとってはこの男の生き死によりも遙かに重要な事態が起こった。その後も雇い主であるクルツの生存確認など、気にするべき事が山のようにあったから、フロイドのことは、いつの間にか彼女の脳裏から完全に消えていたのである。
それでも、瀕死のままあの場所に放置してきたのだ。後からそういえばと思い出してた時も、多分死んだのだろうと思っていた。
だからフロイドが再び姿を見せた時、彼女はそれなりに驚いた。
エアハルト伯領を出て、しばらくしてからアルフェの前に現れたフロイドが、どうやって彼女の行く先を嗅ぎつけたのかは知らない。
だが、また自分の命を狙ってきたのかと思い、アルフェが今度こそ間違いなく息の根を止めてやろうと思ったところで、彼は予想外の行動を取った。
――俺を、連れてってくれないか。
殺気を帯びたアルフェの指先が、そう言ったフロイドの首元で静止していた。
彼の目は真っ直ぐに少女を見つめ、その上やけに澄んでいた。あれほど凶暴にアルフェを襲ってきた男から、その時にはもう敵意を感じなかった。
フロイドの首の皮に触れたアルフェの中指に、たらりと赤い滴が伝った。
――頼む。
フロイドの右手は、剣を収めたままの鞘を握っている。彼はそれをアルフェの方に差し出した。
アルフェはフロイドの首元から自分の指先を離さないまま、ちらりとその鞘を見た。
これは聖堂で戦った時、この男が使っていた剣だ。最後にアルフェが鍔元から刀身をたたき折った。修復した様子もないし、その時間もなかったはずだ。引き抜いてみないと分からないが、多分折れたままなのだろう。
頼むと言ったきり、フロイドは何も言わない。彼の行為がどういう意味を持っているのか、アルフェには分からなかった。
この男はユリアン・エアハルトに雇われていた暗殺者だ。
どうしてこの男が、標的であったはずのクルツではなく、アルフェの方を執拗に狙ってきたのか。その理由は知らないし、それがどうしてこんな場所でこうしているのかも知らない。しかし少なくとも、この男は分かりやすいくらいにアルフェの敵対者だったのだ。殺さない理由が無い。
立ち塞がる者はねじ伏せて進め。自分の内なる声にうなずいて、アルフェはそのまま彼の喉笛を貫こうとした。
だが――
――……。
その瞬間、彼女の脳裏に浮かんだものは何だったのだろう。
自分が手にかけた傭兵隊長の骸と、その傍らで嘆く少年の姿か。それとも、死に際に満足そうな笑みを浮かべ、己の腕の中で崩れていった師の姿か。
とにかく、アルフェは動けなかった。
――殺さないのか?
フロイドの首から手を離したアルフェは、彼の問いかけを無視してその場を歩き去った。
しかしその後も、フロイドはしつこくアルフェの行くところに現れるようになったのだ。
◇
「出たぞ」
「……ええ」
軽く回想に浸っていたアルフェの意識を、フロイドの声が引き戻した。アルフェの前を歩いていた彼は、立ち止まって剣の鞘を握っている。
敵が出たと彼は言っている。まだ姿は見えていないが、アルフェにもそれは察知できていた。
「ワーグですね」
「大きい群れだが、どうする?」
「わざわざ戦う必要は無いでしょう」
そう言うと、アルフェは身体の中にある魔力の栓を少し開けた。彼女を中心に、闘気が放射状に発散されていく。
「……行ったな。お見事」
茂みや岩の陰に隠れていた二十ほどの気配は、音も無く去った。
ワーグは狼型の魔獣で、群れで狩りをする。知能が高く、非常に狡猾な魔物なだけに、明らかに勝てないと判断した相手に自ら挑みかかるほど無謀ではなかった。
「やはりただの“狼”じゃ、あんたにはかなわんな」
その言葉が自分をからかっているように聞こえたので、アルフェはフロイドをにらみつけた。
肩をすくめたフロイドだが、この程度のことはやろうと思えば彼にもできただろう。
この剣士は、例えば正式なエアハルト伯となったユリアン・エアハルトのような超人にはかなわなくとも、アルフェと互角の力は持っていた。前回アルフェがこの男と戦った時も、ほんの少し状況が違えば、敗れたのはアルフェの方だったかもしれない。
そのフロイドが、“あんた”とアルフェを少し敬った言い方で呼ぶのは、この男がアルフェに雇われているからだ。
金を払うからアルフェの目的のために協力しろ。何度目かにフロイドがアルフェに接触してきたとき、それを彼女の方から持ちかけた。
◇
――報酬は支払います。
ある村を襲った魔物と戦った時だった。手強い二頭の魔獣が村を狙っていて、アルフェが一頭を倒すまでに、どうしてももう一頭によって村に被害がでる。そんな状況下で、丁度そこにフロイドがいたのだ。
――金はいらない。この剣を受け取ればいい。そうすれば、俺はお前の指示に従う。
再びフロイドから差し出された鞘を見て、アルフェは初めて男の行為の意味に思い当たった。
剣を捧げて命令に従う。それはまるで、主君と臣下、王と騎士のありようである。
アルフェとの死闘に敗れたから、この男はアルフェに従おうとしているのか。言っている意味は分かったが、その行動原理は不可解なままだ。だからアルフェはもう一度繰り返した。
――報酬を支払います。
その時の彼女には、この男をずっと連れ歩く気など一片もなかった。しかし金ずくで一度きりなら、使うことも許されるだろうと考えたからだ。
――……分かった。“今は”それでいいだろう。アルフェ、あんたは今から俺の雇い主だ。……それはそれとして、俺が使えそうな剣はあるか?
やはり折れていた剣に代わり、アルフェはフロイドに適当な剣を買い与えて、二人は別々に魔獣を討ち果たした。
――な、俺は役に立つだろう?
アルフェが預けた剣を返しながら、フロイドは言った。役立つから連れて行けと言いたげな顔をしていた。
十人規模の冒険者でも手こずりそうな魔獣を倒した彼は、衣服のあちこちをかすられているが、大きな傷は負っていない。――確かに、役立つのは間違いあるまい。
しかしこの男は、信用ができなさすぎる。
第一、フロイドがどうしてアルフェに付いてこようとしているのかも分からないままだ。
例えば自分より強い人間に仕えたいというのであれば、ユリアン・エアハルトの配下にいるのが最適だったろうに。アルフェがそう聞くと、フロイドは言った。
――それに答える前に、一つ聞きたい。あんたは、あの時の魔術士たちを探しているのか?
フロイドが指しているのが、“あの男”とメルヴィナの事であるのは明白だった。
――……その顔は、やはりか。……あれと戦うつもりか? あんなものに、勝てると思っているのか?
先に質問したのはアルフェの方だったのに、フロイドはそうやって矢継ぎ早に問いを投げかけてくる。
――勝ちます。
この男に気にされる筋合いの事ではないと思ったが、報酬のついでにアルフェは答えた。
――そうか……。
そうつぶやいてからしばらくの間考え込むと、フロイドはまた口を開いた。
――ユリアン・エアハルトには金で雇われていただけだ。頼まれていた仕事も、結局俺が果たしたんじゃないが、一応終わった。
フロイドが言う、“ユリアンに頼まれた仕事”というのは、もちろんクルツの暗殺だろう。
そのクルツはもう死んだ。彼はアンデッドの群れに飲まれて、死体の場所すら判明しなかった。
クルツの死因は死霊術士のメルヴィナが召喚したアンデッドであり、フロイドがユリアンの依頼を果たしたというのとは少し違う。だが、それでも間違いなくアルフェにとっては失敗した仕事の話だ。それを考えると苦い顔になるのが、自分でも分かった。
――だから、次の雇い主を決めるのは、俺の自由だ。
――……質問の答えには、なっていないと思いますが。
フロイドは笑った。自嘲のようにも見える笑みだった。
――どうしてかな。正直俺にも良くわからないんだ。……でも、俺はあんたに仕えたいってことさ。
――……好きにしなさい。
アルフェが承諾したのは、その時の仕事で少し考えを変えたからだ。
一人では手が足りない事も多い。戦うこともそうだが、特に情報を集める時などはそう思う。
自分以外の人間が使えればと考えた事は、以前からあった。フロイドの実力は折り紙付きだし、後ろ暗い仕事をしてきたこの男ならば、アルフェが知らない情報に触れることができるのかもしれない。
この男が信用できない存在であるのは変わらない。――だがアルフェにとっては、むしろその方が良いのかもしれない。
アルフェが信用したいと思っていたリグスでさえ、最後にはアルフェを殺そうとし、彼女に殺されたのだ。なら他の人間になど、はじめから期待しない方がいい。
今この男を雇ったとしても、この男はいつか裏切り、再びアルフェの命を狙うだろう。それが事前に分かっているだけ、下手に信用できそうな人間よりもましなのかもしれない。
そんな自虐的とも言える思考が、彼女の中にあった。
――私の目的のために働けば、報酬は出しましょう。
自分は金で動く男を雇うだけだ。もし刃向かったり寝首を掻こうとしてくるのなら、その時こそ息の根を止めればいい。それもまた修行になるだろう。そうして、アルフェはフロイドが己に付いてくることを認めたのだ。




