100.木陰
穏やかな午後、弱い風がさわさわと梢を鳴らし、木漏れ日が揺れている。
聖堂が建設されている草原には、あちらこちらに林が点在している。そして陣の側にもひとつ、三百歩四方ほどの小さな林があった。
その林の中には、まだ新しい切り株がいくつもあり、濃い木の匂いを放っている。どうやら建設工事の足場などに利用するために、人の手が入ったらしい。
今、そこにひとつの人影があった。
汗ばむような気温だというのに、その人影は、全身をくすんだ鼠色のローブで覆い、頭にはフードを被っている。
フードの下からわずかに見える肌は、灰か雪のように白い。唇にさしたわずかな赤がなければ、死人と見紛うほどだ。
人影は木陰の中で、地面にかがみ込み、何かを拾い集めている。脇の地面に置かれている木の杖は、その人影の持ち物だろうか。
「あなたは、そこで何をしているのですか?」
声をかけられるなど、思ってもいなかったのだろう。鼠色のローブの下にある肩が、びくりふるえた。
「――!」
「……お久しぶりです」
恐る恐る後ろを振り向いた人影と、銀髪の少女が眼を合わせた。
信じられないものを見た、会うはずのない者に会ったという表情。フードを被った人影――メルヴィナという女の顔には、偽りの無い驚きがある。
「…………ぁ」
彼女は驚きのあまり、声もまともに出せないようだ。
女の大きな黒い瞳が、瞬きもせずアルフェを見ている。
「メルヴィナさん、でよろしいですね」
「……う」
メルヴィナが後ずさると、劇場で見たときと変わらない、炭を夜に溶かし込んだような黒い髪が揺れた。この国には、ほとんど居ないはずの、不吉とされる髪色。それは、この黒い瞳も同じだ。
「――……ア、アルフィミア、様」
その名前を耳にして、アルフェの目が鋭くなった。やはり、この女はアルフェのことを知っている。
「……どう、して」
「――どうして?」
後ずさるメルヴィナを追い詰めるように、アルフェは一歩、前に進んだ。
「……どうして、このような、所に。……その、お姿は?」
「あなたには、聞かせていただきたいことがあります」
相手の疑問に答えずに、アルフェが尋ねる。そうだ、この女には、聞きたいことが無限にある。さらに一歩、アルフェは脚を前に出した。
「クラウスは、どこにいるのです? あなたは、彼の知人なのでしょう?」
無限にあると思っていたが、いざその姿を目の前にすると、言葉が出てこない。だから、アルフェは最初に思いついたことを聞いた。
クラウス。アルフェを燃える城から連れ出した、ラトリアに仕えていた男。今、大公領の外にいる人間で、あの時のことを最も知っていると思われる者。
「……妹姫様は、ベルダンから、どうやって――」
「答えなさい」
お互いに相手の問いを無視して、自分の聞きたいことを聞いている。なんともかみ合わない会話だ。
しかし、この女は確かにアルフェのことを本名で呼んだ。アルフェをそう呼ぶ者が、ラトリアに縁のある人間以外で、存在するだろうか。
――……いえ。
いや、もしかしたらとアルフェは考えた。この女はもしかしたら、コンラッドを殺したあの男と繋がっているのかもしれない。あの男も、アルフェのことを本名で呼んだ。
「――……わ、私は……」
「答えなさい」
強い調子で、アルフェは迫った。目の前の女は震えている。視点も定まっていない。まるで、アルフェに怯えているかのように。
「……あの人は、……あの人は、ここには、いません」
「“ここには”? では、どこにいるのです」
「……」
メルヴィナが口を閉ざした。彼女は杖を胸に抱きかかえるようにしながら、辛そうにうつむいた。
――……杖。……魔術士?
アルフェの頭の中にある冷静な部分が、メルヴィナの姿を分析していく。
非力そうに見える女だが、彼女が手にしている不格好な木の棒は、魔術士が魔術の媒介として好んで用いる杖に似ている。ローブといい、彼女が魔術の使い手ならば、それはこの女が、戦えるということを意味する。警戒心を呼び起こされ、アルフェの筋肉が若干緊張した。
「本当にあなたは、アルフィミア様、なのですか?」
メルヴィナの後ずさる足が止まった。
心なしか、さっきよりも声がはっきりとしている。加えて、上目遣いにアルフェを見る目からは、いつの間にか怯えの色が消えている。
「そんな事を聞かれても、私は、私以外にはいません。……人の名前を疑う前に、質問に答えてください」
「“あの”アルフィミア様が、あなたのような物言いをするとは……」
メルヴィナを中心にして、林の中のマナが動いている。やはり彼女は魔術士だ。しかも、この魔力のざわめき様は、この女が相当の力量を持っていることを示している。
自分と敵対するつもりか。だとしたら、どんな魔術を使ってくるのか。警戒を強めながらも、アルフェは次の問いを投げかけた。
「では、お姉様はどこにいるのですか」
「――!」
二人の間で、戦いは避け得ないかと思われた。しかしアルフェがその単語を口にした途端、メルヴィナに集まり始めていた魔力が霧散した。
「……あなたも」
再び弱々しい雰囲気になったメルヴィナは、杖にすがりつき、言った。
唇をかみしめたメルヴィナの声が、震えている。
「あなたも、あの方を……、お嬢様を、追っているのですか」
その弱々しさは、アルフェが何もしなくても、消え入ってしまいそうな程だ。
戦意をむき出しにされるのとは逆の仕草に、アルフェは気勢をそがれてしまった。
「……? お姉様の居場所を、知っているのですか?」
アルフェは思い直した。少女の身体からもまた、充満していた闘気が抜けていく。自分は彼女と、戦うことを目的にここに来たのではない。対話で解決するのなら、それに及ぶことはないのだと。
「知っているのなら、教えて下さい」
メルヴィナは首を横に振った。教えるつもりはない、ということだろうか。
「……私は、知りません」
「本当に?」
「……はい。……知らないのです」
違うらしい。どうやら、彼女は本当に知らないようだ。そこでアルフェは、またさっきの問いに戻った。
「では――、では、クラウスはどこに? 彼に、会わせていただけませんか」
クラウスの居場所も知らないとは、メルヴィナは言わなかった。その代わり彼女は、アルフェの真意を測るように、うつむいた顔から上目遣いで、アルフェの様子をうかがっている。
「そうして、あの人のいる所を知って……。……それからアルフィミア様は、どうなされるおつもりですか」
「するべきことがあります」
「するべきこと……? ……もしや、故郷を奪った王国に対する、復讐を、なさりたいと?」
「……」
「そうなのですか……?」
それは違う。そんな執着を、アルフェはあの場所に対して持っていない。しかし、敢えてメルヴィナの言葉を否定することはせず、アルフェは毅然とした表情でメルヴィナを見据えた。
「……何がアルフィミア様を、そこまで変えたのでしょう」
「……変わった?」
ということは、やはりこの女は昔のアルフェを知っている。
昔の――、城にいた頃のアルフェを。
「……そこまで私は、変わりましたか?」
では、城にいたときの自分は、どんな人間だったのだろう。よく思い出せないアルフェは、首を傾げた。
「……」
「メルヴィナさん。知っていることを、話していただけませんか?」
アルフェは優しく語りかけた。
杖にすがるメルヴィナの視線は、アルフェの足下に注がれている。そういえばここは、さっきアルフェが彼女に声をかけたとき、メルヴィナがしゃがみ込んでいた所だ。
「……?」
アルフェはつられて、自分の足下に目を落とす。
「――な!?」
そこには何匹、何十匹もの羽虫や甲虫の死骸が、きれいに並べられている。それを認識した瞬間、アルフェの背中に例えようのない怖気が走った。
「これは……!?」
「……アルフィミア様、どうか、ここからお離れください」
「え?」
「でなければ……。でなければ、私は――」
――! まずい!
油断していた。再び周囲の魔力が集まる。その奔流は急激に形を成し、メルヴィナの足下の地面に吸い込まれた。
「ッ! 止めなさい!」
地面に杖を突き立てたメルヴィナに、アルフェが怒声を浴びせかけた。
それは、悪手だったのかもしれない。アルフェの瞬発力なら、魔術が本格的に発動する前に、術者であるメルヴィナの息を止めることができたはずだ。しかし、この女から、まだ何も有益な情報を引き出せていない。その思いが、アルフェの動きを遅らせた。
「【群れを成す屍よ】」
透き通った声が、呪文を紡ぐ。
メルヴィナによって集められた林のマナは、彼女の髪のように黒く変質し、大地を浸した。
その一瞬の後――。
「――スケルトン!?」
アルフェは驚愕した。皮も肉も無い、骨だけの身体。それが、メルヴィナとアルフェの間を埋め尽くすように、一斉に這い出してくる。
「これは――、死霊術!? やはりあなたが――!」
ユリアン・エアハルトが尋問の時に語っていた、使い手の限られた、忌まわしい魔術。ウルムの劇場で遭遇した、二体のレイス。それらがアルフェの中で、急速に目の前の女とつながる。
「【制圧しなさい】」
杖先をアルフェに差し向け、メルヴィナは自身が召喚した死人たちに命令を与えた。そのとき、アルフェは女の黒い瞳に宿る、奈落のような闇を見た。
「――ッ!」
この女は、敵だ。
緩んでいた少女の肉体と魔力が、瞬時に戦闘用に切り替わる。瞬きの後、三体のスケルトンの頭蓋が粉砕された。
――この程度のアンデッドが、何体いたところで――!
死霊術がいかに珍しい魔術だとしても、喚び出されたのはただのスケルトンである。それよりも困難な敵を何度も打ち倒してきた、今のアルフェの相手にはならない。
一撃ずつ確実に、アルフェはアンデッドを行動不能にしていく。そうする間にも、次から次へと新しいスケルトンが生まれてくる。だが、アルフェがそれを潰す速度の方が勝っていた。
「……その力は? その力は一体……!? アルフィミア様、あなたは――」
メルヴィナが、この女がそんな声を出せたのかというほど大きな声で驚いている。彼女の中のアルフェのイメージがどんなものなのかは知らない。だが少なくとも、非力だった少女が、こんな風になっているとは想像もしていなかっただろう。
――いける!
今また新たなスケルトンを砕いたアルフェの目が、後退するメルヴィナを捉えた。しかし――。
「【――、―――、――――――、―――――――――】」
メルヴィナが長い詠唱を始めている。妨害しなければと思う。しかし、前に出ようとした少女の身体が、ガクンと止まった。
「チッ!」
アルフェの足首を、その直下から生えた数本の白い腕がつかんでいる。次の瞬間には、それらの腕は粉々にはじけ飛んでいたが、相手の魔術士にとって、それは充分な隙だった。
――魔法陣!?
メルヴィナを中心に、黒い光のサークルが現れる。
滅多にお目にかかることは無い、可視化するほど高密度化したマナが描く、魔の術式。――高位魔術の発動である。
「【我が、昏き祈りに応えよ】」
魔力のこもったメルヴィナの声にあわせて、ずん、と地面が鳴動した。アルフェによって砕かれ、地面に散らばっていた骨が、浮遊し、寄り集まっていく。それ以外にも、大地が盛り上がるほどに、地下から次々と白骨が――。
――骨の巨人……!
瘴気に満ちた不死者の巣窟で、ごく稀に発生することがあると言われるスケルトンの集合体。名だたる冒険者でも挑むことに二の足を踏む、高位のアンデッド。
「はあああああああ!」
手強い。そう判断した刹那、アルフェは集気法の体勢をとっていた。
木々の高さほどに膨れ上がった巨人は、その腕を少女に向かって振り下ろす。
「ふッ!」
アルフェがすくい上げた掌底と、白骨の巨腕がぶつかり合った。――はじけたのはアンデッドの方だ。手のひらにあたる部分が粉砕され、無数の骨片が中空に舞い上がる。
――ッ! 再生する!?
しかし吹き飛ばした先から、巨人は周囲の骨を集め、再生しようとしている。驚異的なまでの復元力だ。
――“核”はどこ!?
このアンデッドの構造は、エレメンタルや、リーフが作っていたゴーレムに似ている。無生物の集合体であるそれらには、全体をつなぎ止め、動きを制御するための、魔力の核があるはずだ。
アルフェは巨人の残った方の腕を駆け上がり、跳び蹴りでその頭を砕いた。しかし、目的のものは見当たらない。ならば胴体か、それとも、術者自身が核となっているのか。
「すぅ――――」
迷う時間は不利を呼ぶ。アルフェは息を吸い、止めた。核をみつけて破壊するよりも、手っ取り早い解決法を思いついたからだ。
魔力による身体強化が可能にする爆発的な瞬発力を活かし、少女は巨人の股下に入った。
「――!」
かっと目を見開いた彼女は、拳で手当たり次第に巨人の体を殴り始めた。息を止めたまま、その連撃はどこまでも続く。
「――ん! んんんんんんん!」
砕き、再生し、また砕く。アルフェの顔は息苦しさに赤く染まっていく。
「――がッ!」
五分後、アルフェの呼吸が止まる前に、巨人の再生の方が止まった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
白い骨片が、雪のように林の地面を埋め尽くしている。
「はぁっ、はぁ、は――、くそっ!」
息を落ち着かせたアルフェの口から飛び出たのは、冒険者生活で覚えた罵り言葉だ。
メルヴィナの姿は、既に消えていた。




