五日目・深夜 化け物
クロエ視点です。
「はぁ、はぁ、はぁ……くっ!」
眼前に迫るマミーの拳を躱して、クロエは息を乱しながらマミーへと蹴りを放った。
身体が崩れて沈むが、色が消えていない。
すぐさまそれを理解すると、マミーの脳漿を潰すように踵を落とす。
骨と肉が潰れて、マミーの身体が大きく痙攣した。
次第に色が抜けて、空気へと溶けていくその身体からクロエは視線を外す。
出現するモンスターの一匹一匹を相手にするのは問題がないが、この夜の間に繰り返された連戦で疲労が大きく身体に溜まっている。
溜まった疲労は動きを鈍らせ、判断力を低下させる。
いつもなら気が付くはずの気配にも、気が付かなくなる。
「――――ッ」
ハッと気が付いた時には、もう遅かった。
背後から迫っていたゾンビに気が付かず、その腐食した身体を押し付けるように、クロエはゾンビに背後から抱きつかれる。
電流のように全身へと走る嫌悪の悪寒。
ローブ越しからでも分かる、ドロドロに溶けて爛れた皮膚の感触。
鼻をつく強烈な腐臭に思わず胃液がせり上がる。
「くっ!」
全力で鉄肘を打ち込んで、その拘束からクロエは逃れた。
振り向きざまにその顔へと拳を打ち込んで、その身体を空気へと変えるとすぐさま地面を蹴って距離を取る。
周囲を見渡して、クロエはモンスターの中で光る翼を見つけた。
ミコトの翼だ。
小さなその姿が隠れるほど、モンスターに覆われたその姿を見て、クロエはすぐさまミコトの元へと駆けつける。
「ええい、邪魔じゃ!」
ミコトへと群がるモンスターを纏めて蹴り飛ばし、クロエはミコトの傍へと辿り着く。
「っ、クロエ、さん!」
言葉を切らしながら、ミコトがクロエの名前を呼んだ。
見れば、ミコトの腕はモンスターに殴られて怪我でもしたのか、だらりと垂れ下がっていた。どうやら、それが原因でモンスターに囲まれていたらしい。
クロエは周囲へと素早く目を向けて、襲い掛かるモンスターがいないことを確認するとミコトへと声を掛ける。
「その腕はどうしたのじゃ」
クロエの言葉に、ミコトは噛みしめていた唇を開く。
「……先ほど、食屍鬼に肩を外されました。腕も折られたようで、力が上手く入りません」
「なぜ【回復】を使わん」
「【遅延】を度々使ってて、私の残りのMPは7です。私が今使っちゃうと【回復】はもう使えません。このMPは残しておかないと……」
「だからと言って、自分を犠牲にする馬鹿がどこにおるのじゃ! いいから使うのじゃ。我はDEFもHPも高い。こ奴ら相手に傷つくことなどないわ」
ミコトはクロエの言葉に僅かな逡巡を見せた。
だが、やがて納得するように頷くと、自分の腕へと手を翳してスキルを発動させる。
「【回復】」
光が溢れて、ミコトの身体を包んだ。
クロエは一度周囲へと目を向けると、自分のスマホへと視線を落とした。
ユウマが飛び出してから、約束の十分が迫っていた。
先程から広間の奥では断続的に戦闘音が響いている。
ユウマがリッチと戦う音だろうと想像はしていたが、その様子を伺えるほどクロエにも余裕がなかった。
だが、いったいどういうわけか。絶え間なく夜の闇から出現していたモンスターの数が減ってきている。
今もこうして、【回復】を使うミコトが襲われないよう守っているが、モンスターは出現していない。
可能性があるとすれば、リッチが召喚魔法を発動し続けるほど余裕がないということだが……。
――まさか、ユウマがリッチを圧倒しているとでもいうのだろうか。
それこそありえない。
あのモンスターは、ただの人間が一人で勝てるようなモンスターではない。
そもそも、ボスモンスターの討伐は、言ってしまえばレイド戦のようなものなのだ。
複数の同じクエストを持つプレイヤーが集まり、一斉に攻撃を仕掛ける。
クエスト中に出現するどのモンスターよりも、はるかに強敵であるボスモンスターに、プレイヤーが安全マージンを取って戦う方法はそれしか存在していない。
――いや、それが妥当であると、クロエはこの世界に来てから出会ったプレイヤーにそう聞かされていた。
「終わりました」
ミコトの声で、クロエの思考は中断された。
見れば、だらりと垂れ下がっていたミコトの腕も無事動くようになっている。
「……時間、ですか?」
とミコトがクロエの手に持つスマホを見てそう言った。
クロエはミコトに頷く。
「……そうじゃ。もう約束の時間じゃ。言っておった通り、我はここで撤退する」
「ですが! モンスターの出現頻度は減っています!! これならまた、ユウマさんと一緒にリッチと戦えばあるいは――」
「無理じゃ。召喚魔法を使われた今、我らに分が悪すぎる」
ミコトの言葉を遮り、クロエは言った。
ミコトは一、二度口を開いたが、やがてクロエの言葉が正論だと認めたのだろう。悔しそうな顔となると、唇を噛みしめた。
「ですが、ユウマは今も一人で戦っています」
そう言って、ミコトはユウマが戦う方向へと目を向けた。
――その瞬間、ミコトの目が大きく開かれる。
「……ユウマ、さん?」
呆然とミコトは呟いた。
その言葉に、クロエは眉を顰めるとミコトの見つめる先へと目を向けて、
「――――――」
ありえないその光景に息を忘れた。
そこに広がるのは、化け物同士が繰り広げる刹那の攻防だった。
リッチが錫杖を振い、ユウマが紙一重で避ける。避けた体勢ですかさずユウマは小太刀を振って、リッチに浅い傷をつける。リッチは身体が傷つくのも厭わず、ユウマの元へと近づくと腕を振り上げて叩きつける。ユウマはそれを避けて、小太刀を突き出すがリッチはそれを読んでいたかのように身体を捻って躱す。
目にも追えない攻防。攻撃と回避。数瞬の間に数合をお互いに打ち合い、距離を取るとすぐさま激突する。
「クっ、【影槍】」
ユウマの一撃を避けたリッチが、その名前を呟く。
瞬間、リッチの足元から伸びた影が蠢き、ユウマへと向けて直槍のように飛び出した。
ユウマは影で作られた槍を、横に跳ぶようにステップを踏んで躱すと、地面を蹴って再びリッチへと肉薄する。
迫るユウマに、リッチは錫杖を掲げて地面を打ち鳴らした。
「【黒炎】」
その言葉と同時に、錫杖を中心としてリッチの周囲に夜闇の中から黒い炎が巻き上がる。
闇から生まれた炎は、ユウマの左腕へと直撃した。
だが、それでもユウマは止まらず、皮膚が焼ける臭いを周囲に漂わせながら、右手に構えた小太刀をリッチの首に目掛けて斬り払う。
「邪魔ダ」
その刃はリッチがすかさず掲げた錫杖に塞がれた。
ユウマは小太刀の刃が塞がれたことを確認すると、すかさず身体を回転させて、炎で焼けた皮膚を厭わず、左手の裏拳をリッチの顔に目掛けて放つ。
「ッ、【影牢】!」
慌てたように、リッチがその言葉を呟いた。
瞬間、リッチの影が蠢いてせり上がり、リッチの顔面へと迫るユウマの拳の前へと滑り込んだ。
――ガンッ、と固い音が広場に響く。
ユウマは自ら放った拳が防がれたことを確認すると、すぐさま後ろへと下がった。
仕切り直すように、ユウマは腰だめに小太刀を構える。
そして再び、ユウマとリッチが激しくぶつかり合う。
リッチの動きや攻撃は、先ほど見たものより激しさを増している。さらに言えば、リッチは今まで口にしなかった魔法を、次々と使用しながらユウマと相対していた。
それは――その事実は、さきほど見せたリッチの動きが本気を出していなかった、ということを二人に知らせていた。
今、この動きこそがリッチの本気なのだと、クロエもミコトも、本能で理解する。
だというのに。そのモンスターと、対等に張り合っているあの人間はいったい誰なのか。
再び、ユウマとリッチは互いを払い除けるように攻撃をぶつけると、どちらともなく距離を取った。
「許サヌ。許サヌ許サぬ許さヌ許さぬ!!」
身体の至るところに、細かな切り傷を作ったリッチが怒りの声を上げた。
対するユウマは、その怒りの声を聞き流すように、静かに小太刀を正眼で構えて腰を落とす。
「ぁ――」
と声を上げたのはミコトのものだった。
「血が……」
呆然と漏れたその呟きに、クロエはミコトが何に気が付いたのか分かった。
ユウマの両目は、血で真っ赤に染まっていた。
モンスターをジッと見据えるユウマの目は、瞳孔が開かれ、充血し真っ赤に染まっている。
それだけじゃない。ユウマの鼻からは絶えず鼻血が流れており、シャツと地面に赤い染みを作っていた。
一目見て、ユウマのその状態が異常であることがすぐに分かった。
だが、当の本人であるユウマはその事実に気が付いていないのか。
ユウマは流れ出る鼻血を拭うこともせず、まるで何かに没入しているかのように、ただ目の前に相対するリッチだけを見つめ続けていた。
その表情に、クロエは背筋を震わせる。
――あれは、なんじゃ? あ奴は、いったい何をしておる。
そう心の中で呟き、クロエはハッと、ユウマのその様子に、ユウマが限界突破スキルを持っていたことを思い出す。
――あれは。限界突破スキルの反動なのか?
限界突破スキルには必ず反動が付き纏う。
ユウマの限界突破スキルの反動は頭痛だったはずだ。
だとすれば、どうしてユウマは血を流している?
クロエはそう考えて、すぐに気が付く。
「あ奴――。まさか、人の限界……それ以上の限界にまで身体を酷使しておるのか……?」
馬鹿な。ありえない。
だとすればそれは――反動という軽い言葉で済まされるような状況ではないはずだ。
文字通り命を燃やして。
ユウマは、限界のさらにその先の力を、命を代償に無理やりに引き出していることになる。
「どういうことなんですか!? 何か知ってるんですか!?」
クロエの言葉に反応して、ミコトが声を荒げる。
クロエは、ミコトへと目を向けると唸るように言った。
「言ったじゃろ……。限界突破スキルは、薬物使用と同じじゃと。限界を超えればその分、身体に反動が来る。あ奴の反動は頭痛じゃろ? ……つまり、それだけ脳に負荷が掛かっておるということじゃ。人の命を司るその場所に、直接作用する反動となれば、無理に使えば脳が壊れてもおかしくはない。それなのに、あ奴は今、その反動を無視してさらに限界突破をかけとる」
クロエは、ユウマへと目を向けるとその姿に小さく呟いた。
「…………明らかに異常じゃ。さきほどのボスモンスターを討伐することに拘る姿といい、見ず知らずの他人を助けるなどという言動も……。いったい何が、あ奴をそこまで追いこんどるんじゃ……」
クロエがそう呟いたその時。
ユウマが深く、唇の間から息を吐き出す音が、二人の耳へと届いた。
「ふぅぅうぅぅうう………………」
まるで、肺の中のすべての空気を出し切るかのような高い音。
さらに深く集中力を高めていくユウマに応じるように、ユウマの身に纏う空気がさらに変わる。
鋭く、冷たく、どこまでも深く、ただ冷酷に。ユウマは、自分の目の前に立つモンスターを見つめた。
鼻血だけではなく、充血した目から溢れた血を流しながら、ユウマはさらに自分の中へと没入していく。
「お前を殺す。お前を殺せば、すべてが終わる。誰もが助かる。俺は助けるんだ」
ぶつぶつとユウマが呟く声がクロエの耳に届いた。
その声は、無意識的に発せられた言葉のように思えた。
「なんじゃ、あ奴は……。イカレておる……」
呆然と、クロエは言った。
同時に、背筋にぞくりとした寒気がクロエを襲う。
あれが、本当にただの『人間』だと?
そんなはずがない。
――あれは。あれは、一種の化け物だ。
ただの人間が、限界突破による反動で自己が傷つくことも厭わず、目の前に存在するモンスターを討伐することだけに、意識を割けるはずがない。
この壊れた世界では、人間は誰しもが自分の身を一番に考える。
それなのにあの『人間』は、自己の存在が消えているかのように、モンスターを討伐することだけに命を捧げている。
それは、元からその『人間』が狂っていたのか。それとも、この世界があの『人間』を狂わせているのか。
どちらにせよ、あの姿は異常の一言だった。
「…………もしや」
ユウマのその姿を見て、ふとクロエは思い出した。
この世界で生きていく中で、これまで様々なプレイヤーと出会った。出会ったプレイヤーの中には、自分たちよりも先にこのゲームを開始して、この世界に詳しい者も居た。
そのプレイヤーが言った、このゲームに関するとある一つの話。
それは――この世界のプレイヤーは、いずれ例外なく、最初に選択した種族の思考や思想、理念に引き寄せられ自己という在り方が変わる――というもの。
この世界に適応しようとすればするほど、この世界における種族の影響を強く受けるというそれは、『種族同化現象』だとそのプレイヤーは言っていた。
初めて、その話を耳にした時は笑い飛ばした。
この世界のゲームが――いや、ゲームシステムが。いくら自分たちの現実に、その身体に影響を及ぼすものだとしても、精神や思考にまで影響を及ぼすはずがない、と。
…………だが、もしその噂話が本当だとしたら。
もしも本当に、このゲームをプレイしている人間が、このゲームにおける種族の影響を受けるのだとしたら。
ユウマのあの――クエストのクリアに拘る思考や、他者を救うという極端な思考、自分を犠牲にしてモンスターを討伐することに全力を捧げるあの姿は――そのプレイヤーが言うところの『種族同化現象』が出ているからではないのか。
「本当に、あれが……。種族同化現象、なのか?」
ぽつりと呟いたその言葉は、誰の耳に拾われることなく消えていく。
ドンッ、という激しい音と共にユウマが地面を蹴って飛び出した。
その姿が消えて、気が付いた時にはリッチの錫杖とユウマの小太刀が激しくぶつかる。
甲高く響くその音は、再び始まる戦いの音を告げていた。




