四日目・夜 クロエ・フォン・アルムホルト
この話はすべて、クロエ視点です。
地獄の釜の蓋を開いたかのように、アンデッドモンスターが溢れる新宿駅の西に広がる超高層ビル地帯。
煉獄から這い出た亡者がひしめくその街を、クロエ・フォン・アルムホルトは駆け抜けていた。
「いったい、何が起きてる……」
クロエはそう呟き、信じられない思いで目の前の光景を見つめた。
その目の先には、街をひしめくモンスターをなぎ倒しながら進む男の姿があった。
「なんじゃ、いったい何が起きておる……」
彼ら――いや彼は、確かに強かった。
だが、自分ほどじゃない。いくら強くても、彼は自分よりもレベルもステータスも低く、強力なスキルも持っていない――――それが、数時間前までのクロエからユウマへの評価だった。
「うぉおおおおおおおおおお!!」
ひしめくアンデッドモンスターの中心で、ユウマは吼えた。
小太刀を両手で構えたユウマが、足の軸を入れ替えながら腰を中心に身体を回して、遠心力を乗せて腕を振る。
すると、銀閃が煌めくと同時に、その軌跡上にいたモンスターの首が飛んだ。
小太刀を振った体勢からすぐさま腰を落とすと、ユウマは地面を駆ける。
するとその姿は――――クロエの視界から一瞬にして消えた。
「なっ」
と、驚きの声をクロエが漏らした時にはすでに、ユウマは行く手を塞ぐように立っていたゾンビへと接近していた。
ゾンビへと肉迫したユウマは、左の拳を構えて目にも止まらぬ速度でゾンビを数回殴ると、勢いよく蹴り飛ばした。
ゾンビは他のモンスターを巻き込みながら地面を転がり、空気へと消えた。
ユウマは、それを確認することなく上半身を地面擦れ擦れにまで倒して、その隣にいたマミーへとハイキックを繰り出す。
ユウマのハイキックはマミーの首筋へと吸い込まれ、マミーは首をありえない方向に曲げながら後ろにいた食屍鬼と一緒に吹き飛んだ。
それからも、ユウマは殴り、蹴り、斬り、攻撃を躱して小太刀で突いて、さらに蹴り飛ばす。
まるで荒々しい舞踊のように、流れるように繰り返されるその圧倒的な攻撃は、群れるモンスターを次々と纏めて吹き飛ばしていく。
「あ奴に、いったい何が起きておる……。何なんじゃ、この光景は!」
「気になりますか? ユウマさんのことが」
ふいに、そんな言葉が聞こえた。
それは、クロエの前を走る少女――柊ミコトが、呟いた声だった。
「気になるも何も、あれではまるで別人……。別次元の動きじゃ。あやつに一体、何が起きておる!?」
「……特に何も。いつも通りです」
「いつも通りって、ありえぬじゃろ! あ奴はいったい、何者じゃ!」
「ただの『人間』、ですよ」
ミコトはそうクロエに言うと、口元に笑みを浮かべた。
「『人間』じゃと? あれが、『人間』じゃと!?」
ミコトの言葉に、クロエは声を大きくする。
クロエの知っている限り、この世界での『人間』はいわゆる〝外れ〟種族だった。
初期のステータスも低く、ただモンスターから逃げ惑うことしかできない。
唯一、スキル獲得に関わるLUKがレベルアップで伸びやすいという特徴はあるらしいが、そもそもレベルを上げるためにモンスターと戦えば死ぬような種族だった。
LUKが伸びれば多くのスキルを獲得出来る可能性がある。
けれど、そのLUKを上げるためにモンスターと戦いレベルを上げる過程で死ぬ。
大器晩成で期待は大きい。けれど、その期待に応えられない種族。
だから期待〝外れ〟の種族。
この世界において、最弱の種族こそが『人間』だった。
――それが、これまでクロエの知る限りの人間という種族だった。
「うぅううぅああああああ!」
突然聞こえた、恐怖を押しつぶすかのようなその叫びに、クロエの思考は引き戻される。
見れば、ユウマが新たに壁を作るように迫ってくるモンスター相手に、躊躇することなく足を踏み出したところだった。
「ッ!」
ユウマは短く息を吐くと地面を蹴って宙に跳ぶ。
跳んだユウマはすぐさま空中で身体を捻り、鞭のように右足をしならせた。
「あれは」
ユウマの動きを見て、ミコトが呟いた。
クロエは知らない。ユウマのその動きは、あるモンスターが行った攻撃と酷似していることに。
「食らえッ!!」
ユウマが声を上げて、足を振り抜く。
空中回し蹴り。それは、かつてユウマと戦ったグラスホッパーラビットが繰り出していた攻撃だった。
ユウマの放った回し蹴りにぶつかった数匹のゾンビが命を刈り取られた。
地面に降り立ったユウマは、すかさず目の前のモンスターに接近して右手に持つ小太刀を突き出す。
突き出された小太刀は真っすぐに食屍鬼の首を貫いたが、ユウマはそこで手を止めず、力任せに小太刀を斬り抜いた。
血を噴き出して倒れる食屍鬼には目もくれず、ユウマはすかさず次の獲物へと襲い掛かる。
そんなユウマへと、周囲のモンスターが攻撃の切れ間を狙って死角から攻撃を加えようとしていたが、その攻撃もミコトの言葉によって止められていた。
「――【遅延】一秒」
たった一秒。
けれど、極限状態を発揮しているユウマにとっては十分な時間。
その時間を、ユウマが攻撃を食らいそうになる度に、ミコトは的確なタイミングで【遅延】を発動して稼いでいた。
それだけじゃない。ミコトは、ユウマが切り開くモンスターの群れの中へと足を踏み入れると、ユウマが討ち漏らしたモンスターを直槍で片付けていた。
ユウマも、後ろに付くミコトが後処理をしてくれると信じているのか、一撃で仕留めそこなったモンスター相手に追撃を掛けるような様子はない。
この世界に来てからたった四日なのに。それにも関わらずお互いを信用したその動きと光景に、クロエは目を奪われる。
「お主らは……。我が手に入れることが出来なかったものを、持っとるのじゃな」
とクロエは誰に聞こえるとも思えない小さな声を漏らす。
それは、クロエが思わず吐き出した無意識の言葉だった。
クロエは、この世界に来てからずっと一人だった。
正しく言えば、何度か同じプレイヤーと行動を共にしたことはあったが、信頼関係というものを結ぶことが出来なかった。
それは当たり前のことだ。
この世界では、事前登録をしていたか否か、種族は何かによって生きていく難易度がまるで違う。
初日はまだ協力をしようという雰囲気のあったプレイヤー同士も飢えと渇き、そして身近に迫る恐怖でその考えがあっという間に変わる。
初日で行動を共にした女に、クロエは騙された。チュートリアルをクリアし、報酬として貰ったローブとバックパックを除く、すべての食料と水、物品を奪われた。
二日目で出会い行動を共にした男は、水も食料も必要なく血液さえあれば生きていけるクロエの種族を嫉妬し、激しく非難した。
三日目に出会い、『極夜の街』をクリアするために行動を共にした男は、クロエの身体に欲情し襲おうとした。
幸いにもモンスターの介入によってクロエを襲った男は死に、未遂でその事件は終わった。
だが数日の間に人間が持つ悪意に晒され続けたクロエの心は、ついに限界を迎えてその心に闇を落とす。
この世界では何もかもが壊れている。
街も、道路も、机や椅子といった物も、プレイヤー同士の人間関係も。――そして、人間が持っていたはずの倫理観も。
すべてが崩壊し、死と隣り合わせの世界にやってきたプレイヤーの多くは、他人を蹴落とし自分だけが生き残ろうとする。
――悪意が溢れるこの世界で、損得の勘定もなく他人を助ける人間はいない。
もしこの世界で、無条件に他人を助ける人がいるなら、その人間はよほどの馬鹿か、お人好しか。……もしくは、人として何かがズレている狂った者か。
結局のところ、自分の身を守れるのは自分だけ。
だから、クロエは誰にも襲われることがないよう幼い姿となって街を彷徨った。
自分は一人で大丈夫だと。
自分は一人で生きていけると。
自分は誰の助けもいらないと。
自ら孤独を選んで、強がって、心に嘘を吐くようにキャラを作って笑った。
悪意が溢れ、すべてが壊れたこの世界で過ごす孤独が怖かったけど。出来ることなら、誰かと一緒に行動を共にしたかったけど。
それは、願っても叶わないものだったから。
――そう、思っていたはずなのに。
クロエは前を走る二人の姿を見る。
この壊れた世界で、初めて男女の二人組を目にした時はプレイヤーだと思えなかった。
だが、彼らがプレイヤーだと分かった時。クロエの心には、ほんの少しだけだが光が差したような気がしたのだ。
人間倫理が崩壊し、心に悪意の芽が容易に芽吹くこの世界でも。
それでもなお、二人で行動を共にする彼らならば、共にもう一度だけ、この夜を超えるために手を組むことが出来るのではないだろうか、と。
見据える先で彼らは――何度も繰り返してきたのだろう、その二人の動きは噛み合っていて――その動きを見ただけでクロエは、二人が互いに信頼していることが分かってしまう。
「ああ……本当に。お主らが、羨ましいの」
とクロエは誰にも聞こえることのない声で、ぽつりと言った。
ユウマが何かしらのスキルを隠していることは明らかだ。
おそらくは、そのスキルはユウマが持つ人間の種族スキルなのだろうとクロエは考える。
そしてそのスキルのことを、きっとミコトは知っている。
――今ならば、ミコトにユウマのことを聞けば教えてくれるじゃろうか。
クロエはそんなことを考えて、首を横に振った。
最初に比べれば、ユウマ達と打ち解けたのは間違いない。
だが、それでもまだ彼らの核心は教えてもらえていない。
それは自分がまだ核心を教えてもらえるほど信用と信頼に足ると、ユウマに思われていないから。
この同盟は、〝探りを入れない〟という条件のもと組まれた同盟だ。
だから、クロエは自分からは何も聞くことが出来ない。
「いつか、お主らの口から聞きたいものじゃな」
誰にも聞こえることのない言葉を、クロエは漏らす。
――そしてその時は、我にもこの世界で初めて、信頼で結ばれた仲間が出来るじゃろうか。
そう思って、クロエは改めて前を走る彼らの姿に憧れて目を細めた。




