四日目・早朝 紳士協定
それから俺たちの間で一つの取り決めを行った。
それは、お互いに一定の距離を取ること。もっと詳しく言うなら、風呂に入っていない現状では一メートル以内には近づかないこと。
いわゆる思春期の少女の気持ちを守る紳士協定というやつだ。
俺たちはきっちり距離を取って――少しでもその距離に近づけばミコトから厳しい目を向けられるからだ――朝食を食べていた。
「ストーリークエストも大事ですけど、まず私たちは身体を清潔にするべきです。不衛生はそのまま病気にも繋がります。病気になれば、それを治す施設もありません。私も……それを癒すスキルを持っていない。汗や垢ならいいですけど、モンスターの血を浴びてそのままなのはダメだと思います」
とミコトは乾パンを一つ齧りながら言った。
「それは、まあ確かに」
と俺は朝食のコーンビーフ缶を開けながら言った。
「とは言っても、さっきも言ったがまず風呂は無理だぞ。出来てせいぜい川の水で水浴びするぐらいだ」
「だったら、早く水を浴びに行きましょう」
「どこにそんな川があるんだよ……」
世界が変わったとはいえ、ここは東京のど真ん中だ。吉祥寺に川はない。あるとすれば――俺たちが飯を食っている井の頭公園にある池ぐらいだ。
その事実にミコトも気が付いたのだろう。
「あるじゃないですか」
とミコトは言った。
「井の頭公園には、池が」
ミコトは森の中を指差した。
その指の先には、かつて井の頭公園でも有名なデートスポットだった池がある。そこはボートの貸し出しをしていて、休日になれば多くの観光客やカップルで溢れかえっていた場所だ。この崩壊した世界で、ボートが未だそこにあるとは思えないが、水辺があるのは間違いない。
「そうだけど……。本当に、大丈夫か?」
コーンビーフを口に入れて俺は言った。
「この崩壊した世界の池だぞ。そこは、本当に綺麗なのか?」
「それは……」
ミコトは顔を曇らせた。
街は崩壊し、植物に覆われた世界だ。そんな世界にある池だから、そこにはヘドロが溜まっている可能性が高い。そんな場所で、果たして水を浴びても大丈夫なのだろうか。
……しかしだからと言って、ミコトの言う通り衛生観念を無視するわけにはいかない。常には無理でも、ある程度は身体を綺麗にしておくべきだ。
「試しに、行くだけ行ってみるか」
コーンビーフを食べ終えて、俺は結論を出した。
「もし、そこがダメなら水の入ったペットボトルを使って身体の汚れを落としましょう」
とミコトが水を飲みながら言う。
その口元にはうっすらとした笑みが浮かんでいる。冗談ではなく、本気の目を彼女はしていた。
「マジかよ」
……それだけは何としてでも阻止しなければ。
朝食を食べ終えて、俺たちは井の頭公園の池に向かう。
鬱蒼と覆った樹木や草木を掻き分けて進むと、すぐにその場所は見えてきた。
陽光を反射する水面。
緑の中に現れたそこは、想像していた結果よりもずっと綺麗だった。
透き通るほどに澄んだ池の底には、ヘドロが溜まっている様子はない。だが、ヘドロの代わりに水底には多くの水草が生息しているのが見えた。
「水! 綺麗な水ですよ、ユウマさん!」
とミコトがはしゃいだ声を出す。
対して俺は、冷静にその池全体を観察していた。
モンスターの姿はない。池の水が綺麗なのは、かつて存在していた生き物がすべて絶滅したからだろうか。もとは地下水が湧いていたという池だ。水質を悪化させる要因がなくなったことで、かつての綺麗な輝きを取り戻したということだろう。
「うん。水浴びぐらいだったら出来そうだ」
俺はミコトに向けて頷いた。
ミコトは喜々として池に近づくと、ローブとスニーカーを脱いで、ロングスカートを膝上までたくし上げると水の中へと足を入れた。
「冷たい……。冷たい! あは、あははははは!」
声を上げてミコトは笑う。
水を蹴り上げて、その水の冷たさを楽しむ。
跳ねた水がほのかに光る翼に反射してきらきらと光る。
絹のような黒髪と、白い翼のコントラストはただひたすらに美しい。
天使の少女が水辺で楽しむその姿は、まるで絵画の中から出てきたようだった。
俺は思わず言葉を失い、その光景に見惚れてしまった。
そんな俺の様子に気が付いたのだろう。
ミコトは俺に向けて小首を傾げると手を振ってきた。
「ユウマさん! 気持ちいいですよ!」
「――ああ、今行くよ」
見惚れていた光景から現実に戻り、俺はミコトの言葉に頷きを返すと、靴を脱いでミコトと同じように素足を池の水に晒した。
「ふぅ……」
思わず俺は息をついた。
春先のひんやりとした水が心地いい。
そんな俺の様子を見て、ミコトがまた笑い声をあげた。
「気持ちいいですよね!」
「ああ、そうだな」
久方ぶりに浸るその感触に、口元が緩くなる。
しばらくの間、俺たちは水をぱしゃぱしゃと蹴りながら水の感触を楽しんだ。
「ユウマさん」
ふいに、水を蹴って遊んでいたミコトが声を上げた。
目を向けると、恥ずかしそうに頬を赤らめながらミコトは言う。
「私、先に水を浴びてもいいですか?」
「ああ、いいぞ」
俺は頷いた。
何より、水浴びを希望していたのはミコトの方だ。
俺の言葉にミコトは嬉しそうに表情を緩めた。
だが、それも束の間。ミコトは次いで困った顔で俺を見つめる。
「でも、さすがにこの水は冷たいような……」
「まあ、この世界は春先だからな」
スマホの画面は四月を知らせている。
日中はともかく、夜になれば肌寒さが残る季節だ。
足先で水を浴びるぐらいならちょうどいいかもしれないが、さすがに全身で浴びるには厳しいかもしれない。
「……ですよね。この冷たい水で、水浴びをすれば身体が冷えますし、前もって火を起こしておいた方がいいですよね」
「まあ、そうだろうな」
今の季節に水浴びなんて、普通に考えて風邪をひく。
だから、水を浴びるなら火を起こしておいたほうがいいだろう。
ミコトはにっこりと笑った。
「でしたら」
一言呟き、指をさす。
その指の先を追っていくと、鬱蒼と生い茂る草木がそこにあった。
視線を戻し、ミコトの顔を見る。
ミコトはまだ、ニコニコとした笑みを浮かべていた。
「でしたら?」
俺はミコトの言葉を繰り返した。
「あの、ミコト?」
ミコトの意図が分からない。
思わず首を傾げると、ミコトもまた首を傾げた。
「ユウマさんは私と一緒に水浴びしたいんですか?」
「…………」
ああ、なるほど。そういうこと。
早い話が、水を浴びている間に火を起こしてほしい、という話だ。
なおも笑いながら見つめてくるミコトに、俺は小さく口元に笑みを浮かべると池の水から足を引いて靴を履いた。
「火おこしは任せろ」
思春期の少女の気持ちを守る、紳士協定は締結されたままだ。
爽やかな笑みを浮かべて、俺はすぐさまその場から立ち去った。
池が見えない位置にまで戻り、枝を拾い集めて火を起こす。
さすがに回数をこなせば火おこしも早くなるもので、何度か火打石を打ち合わせるうちに飛んだ火花が枯草に燃え広がった。
火が途切れないように、適度に拾った枝を投げ入れながらミコトの水浴びが終わるのを待つ。
もうもうと立ち昇る煙を眺めて、俺は息をつく。
「……はぁ」
なんというか、ミコトに主導権を握られっぱなしだ。
水浴びにそこまで情熱を掛ける気持ちは俺には分からない。
身体が汗くさかろうが、別に死にはしないのだ。
だったら我慢するべきだ――とも思うのだが、やはりそこは女子として絶対に譲れない守るべきラインがあるのだろう。
(池の水が綺麗で良かった……)
俺は心から安堵した。
「……にしても、遅いな」
ミコトと別れてから十数分が経とうとしている。
水を浴びるだけならこんなに時間が経つはずがない。
もしかして、何かあったのだろうか。
「……どうしよう」
様子を見ようにもここからでは見ることが出来ない。
かといって覗くわけにもいかない。
心配だった、なんて言い訳は通用しないだろう。
ミコトのことだ。覗きは覗きとして厳しく非難するはず。
「どうしよう」
もし仮にモンスターに襲われていたら。
ミコトも強いが、それでも俺よりかはステータスが低い。
グラスホッパーラビットほどのモンスターが出てくれば、ミコトでも勝てるかどうか分からない。
このまま、ここで待っていてもいいのか?
「…………ちょっとだけ」
そうだ。ちょっとだけだ。
ちょっとだけ、様子をみて見よう。
これは仕方のないことだ。ミコトが心配だから様子を見るんだ。
だから覗きではない。決してだ!
「よし」
言葉を吐いて、俺は立ち上がり――。
「今、何に気合を入れました?」
その瞬間、背中に冷たい声が掛かった。
「ひっ!」
心臓が飛び跳ねて、俺は立ち上がりかけた身体の動きを止める。
ゆっくりと振り返ると、そこには髪を濡らしたミコトが立っていた。
しっとりと湿ったその服を見るに、たった今しがた水浴びから戻ったばかりなのだろう。
タオルもないから、濡れたその身体のまま服を身に着けたに違いない。
その証拠に、ミコトの背中から生える翼からは水が滴っていた。
「み、ミコト?」
「はい」
「い、今……。出たのか?」
「そうですね。流石に長い間水に浸かりすぎました。身体が冷えすぎました」
そう言って、ミコトは滴る水もそのままに焚火の前へと座り込んだ。
火に手を翳しながら、ミコトは「ほぅ」と息を吐く。
「あったか~い……」
その言い方だと自販機と一緒だ。
……なんて軽口を言うことは出来なかった。
ミコトがこちらへと目を向けてきたからだ。
「それで、何に気合を入れていたんですか?」
にっこりと、ミコトは笑みを浮かべる。
その笑顔に、背中に冷たい汗が伝った。
……あれ? おかしいな。この感覚、モンスターと出会った時と一緒だぞ?
「み、ミコト。聞いてくれ」
「はい」
「別に、覗こうとしたわけじゃない」
「はい」
「ただあまりにもミコトが遅くてだな」
「まあ、ゆっくりと身体の汚れを落としてましたからね」
「そ、そうだったのか」
「ええ、翼もありますからね。いつも以上に時間がかかるんです」
その翼は、本来人間にはないものだ。
その部分まで綺麗にしようと思ったら、確かにミコトの言う通りいつも以上に時間がかかるのだろう。
「そうか。そうだよな」
はっはっは、と俺は笑う。
「ええ、そうです」
うふふふふ、とミコトも笑った。
何がおかしいのか、俺たちは笑い続ける。
「は、ははっ!」
「ふふふふっ、ユウマさん」
笑いを引っ込めて、ミコトが俺の名前を呼んだ。
「は、はぃ!」
俺も同じ様に笑いをやめて背筋を正す。
「覗きはダメですよ?」
小首を傾げてミコトは言った。
顔には笑顔を浮かべていて、美人のミコトがするその仕草も可愛らしいはずなのに、まったく心が惹かれない。むしろ、謎の凄みがミコトにはあった。心なしかその背後には般若が見えるような気がする。おかしい、ミコトはそんなスキルを持っていないはずなのに。
「ね?」
とミコトが念を押すように言った。
俺は首がもげるんじゃないかと思うぐらい激しく何度も頷く。いや、頷くことしかできなかった。
「そ、それじゃあ、俺も水を浴びてこようかな」
ミコトの笑顔から逃げるように、俺はそう言った。
「ええ、行ってらっしゃい」
とミコトはニコリと笑って俺を見送ってくれる。
俺はミコトに何度も頷いて、その場から逃げるように井の頭公園内の池へと向かったのだった。




