三日目・昼 放浪する小鬼
例の声が聞こえるんじゃないかとポケットから取り出したスマホに視線を向けたその時だった。
「ぐぎゃるごぎゃぎゃ」
どこからともなく駅のロータリー中に響く重低音。
それがモンスターの声だと理解するまでにそう時間はかからなかった。
「えっ、何ですか、この声……」
怯えるように、ミコトが自分の身体を抱きしめた。
「ごぎゃるるる、ぐぎゃげ?」
再度、その声は俺たちの耳を叩く。
聞いているだけでも不快になるひどく汚らしいその声に、俺は止せばいいのに周囲を見渡し――――見つけてしまった。
ロータリーの先、駅ビルの中へと続く階段にソイツはいた。
緑の肌、濁った黄色い瞳。口から覗く紫の舌。
ゴブリンだ。しかし、その身体はほかのゴブリンに比べるとはるかに大きい。
他のゴブリンが小柄なのに比べると、そのゴブリンの体格は成人男性ほどもあった。
加えて、どこから見つけてきたのか、はたまた自分で作ったのか。そのゴブリンの身体は皮で作られた軽鎧で覆われ、その手には樹木を削り出して作った棍棒が握られていた。
見た目はゴブリンなのに、明らかにソイツは他のゴブリンとは逸脱していた。
「げぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
固まる俺たちに向けて、ソイツは嗤った。
その嗤い声が、俺の頭の中でこの世界で初めてゴブリンを見た感覚を思い出させた。
「――――ッ!」
この世界に来てから何度も味わった、自分よりもはるかに強大な存在からのプレッシャー。
頭が、心が、本能が、目の前にいるモンスターはこれまで出会ったどのモンスターとも違うと言っていた。
ホブゴブリン。
俺たちを見て嗤うその存在に、そんな単語が自然と頭に浮かんだ。
無意識に一歩、俺の足が下がる。
これ以上前に出てはいけないと、本能が悟る。
これから先はアイツの縄張りだ。
たとえ一歩でもその縄張りに足を踏み入れれば、俺たちはアイツと敵対してしまう。
今の俺たちではアイツに勝てない。
レベルも、ステータスも圧倒的に足りていない。
仮にもし戦えたとしても、怪我をすることなく勝つことなんて無理だ。
今はまだ、戦うべき相手じゃない!
「――ミコト」
俺はそばにいる少女に向けて小さな声で呼びかけた。
「逃げるぞ」
俺がそう言ったその瞬間だった。
≫≫ストーリークエストの開始条件を確認しました。
それは、俺とミコトのスマホから同時に聞こえた声だった。
嫌な予感がした。
それは、このタイミングで聞こえてほしくない声だった。
≫≫ストーリークエスト:放浪する小鬼 を開始します。
言葉を失い、動きを止めた俺に言い聞かせるように、その声は言葉を続ける。
≫≫ストーリークエスト完了の条件は、ホブゴブリンの討伐です。
「――――」
予感が的中し、絶望で目の前が真っ暗になる。
こいつを討伐することがクエスト完了の条件だと?
ふざけんな。そんなの無理に決まっている。
コイツは、少なくとも今の俺たちが出会っちゃいけないモンスターだ。
それを討伐しろだなんて、命を捨てろと言っているようなものだ。
「ユウマ、さん」
ホブゴブリンを目にしたミコトが、震える声で俺の名前を呼んだ。
「あれは、ダメです。戦っちゃダメです! 私たちに敵う相手じゃありません!」
叫ぶようにミコトは言った。
雪のように白かった顔はさらに血の気を失っている。
震える小さなその身体は、幼子が怯えているかのようだった。
「げぎゃぎゃぎゃ」
ホブゴブリンは、取り乱す俺たちを見て口元を歪めた。
その歪んだ笑みに、俺の背筋に寒気が走った。
「ミコトッ!」
叫び声に近い大声を出しながら、俺はすぐさまミコトに近づくと、お姫様抱っこの要領でその小さな身体を担ぎ上げた。
「なっ!?」
突然の俺のその行動に目を見開いたミコトは、すぐさま自分の状況を把握すると顔を赤らめた。
「ちょ、ちょっと!」
「いいから黙ってろ!」
ミコトの声を遮って、俺はホブゴブリンに背中を向けてその場から逃げ出した。
逃げる先はどこでもいい。
とにかく、一秒でも早くその場から逃げ出さないといけない。
そんな気がしたのだ。
幸いにも、ゴブリンは足が遅い。
今の俺はAGI数値は10だ。普通のゴブリンならば追いつけるはずがない。
ホブゴブリンと言えど、所詮はゴブリンだ。
全力で逃げれば大丈夫。
俺は必死にそう自分に言い聞かせた。
「ぁ――――」
腕の中のミコトの口から、絶望に近い声が漏れた。
「ぎゃぎい?」
それから、ありえないはずの声が後ろから俺に掛けられる。
「なッ!」
聞こえるはずがないその声に、俺は目を見開いた。
すぐさま後ろを振り返ると、俺の真後ろにぴったりと付いたソイツと目が合う。
「ぎひひひひひい!」
ホブゴブリンは嗤った。
必死で逃げる俺たちを見て、馬鹿にしているかのように嗤った。
ホブゴブリンが、片手に握られた棍棒を持ち上げた。
「くッ」
避けようにも、もう間に合わない。
一秒もせずに振り抜かれたそれは、間違いなく俺の身体に当たるだろう。
それならばせめて、彼女だけでも守るしかない。
俺は腕の中のミコトを抱き寄せると襲い来る衝撃から守るよう身体でその小さな身体を覆う。
ブォンという重たいものが空気を切り裂いた風切り音がした。
次の瞬間、俺の横腹に車が突っ込んできたかのような衝撃が襲った。
「ッ!」
あまりの衝撃に息が止まる。
ゴキッと何かが折れた音が耳に届いた。
痛みで声を上げる間もなく、俺は衝撃で吹き飛ばされる。
「きゃあああああ!」
腕の中でミコトの甲高い悲鳴が聞こえた。
地面を跳ねながら転がり、俺は必死でその小さな身体を抱き寄せる。
吹き飛ばされた俺の身体は数秒ほど地面を転がり、やがて廃墟の建物に身体を叩きつけると、ようやくその勢いを止めた。
「がッ! げほッ!!」
肺の中の空気をすべて吐き出し、痛みで顔を歪める。
腕の中へと目を向けると、ミコトは気を失っていた。
分厚い防寒用ローブを身に着けていたからか、俺と一緒に地面を転がったにも関わらず怪我はなさそうだった。
ひとまずはその命を守れたことに胸を撫でおろす。
「ぐっ」
身じろぐと身体中が痛みの悲鳴をあげた。
息をするだけで背中が痛む。
棍棒で直接殴られた横腹に至っては、骨が折れたのか触れるだけで痛み、涙が出そうだった。
「く、っそ!」
毒づきながら、俺は視線を前に向ける。
そこには、棍棒を片手に嗤うホブゴブリンの姿があった。
「ごぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!!」
ホブゴブリンは笑う。嗤う。哂う。
弱った獲物である俺たちを前に、確信した勝利を目前に、ボロボロの俺たちを馬鹿にするように嗤い声をあげる。
逃げられない、と本能的に悟った。
「は、ははっ」
思わず、笑いがこぼれる。
もう、どうしようもない。チェックメイトだ。
レベル差が、ステータス差がありすぎる。
頼みの綱だった逃走も出来ず、奴に一撃を食らってしまった。
殴られたときに聞こえたあの音と、この痛みから察するに、俺の肋骨は何本かが折れている。
身動き一つで悲鳴が出そうになるほど身体が痛いのだ。
「くっ」
ポケットからスマホを取り出し、自分のステータスを見る。
古賀 ユウマ Lv:4 SP:3
HP:26/26→15/26
MP:6/6
STR:9
DEF:8
DEX:8
AGI:10
INT:6
VIT:9
LUK:21
所持スキル:未知の開拓者 曙光
HPが半分近く減っていた。
たった一撃でこれだ。
DEFとVITが明らかに足りていない。
SP3を割り振ったところで、この力の差は埋まらないだろう。
これ以上攻撃を食らえば、俺はすぐさま命を落としてしまう。
ステータスが高い俺がこの状況なのだから、ミコトがこの一撃を食らえば一発で瀕死の状態となってもおかしくはないだろう。
このままだと、俺は――いや俺たちは死ぬ。
確実に殺される。




