二日目・昼 死の実感
ふと目の前の樹木の木陰に目がとまる。
青々とした葉で作られたその木陰は、他の木陰に比べれば明らかに黒い。べったりと地面にインクを落としたかのように広がるその黒色は、明らかに他の草葉の影とは違う色をしていた。
「どうされました?」
じっと、その木陰を睨み付ける俺を不思議に思ったのか、ミコトがそう言って首を傾げた。
「ミコト」
「なんですか?」
「俺の後ろに下がれ。何かいる」
ミコトはハッとした顔で頷くと、すぐさま真剣な表情となって静かに俺の後ろへと下がった。
「援護します」
「……無理はするな。無理だと思ったら援護もしなくていい。とにかく、怪我しないことだけに注意してくれ」
「分かりました。ユウマさんも気を付けて」
俺はミコトに頷きを返すと、足元の石を拾い上げた。
それを振りかぶり、投げる。
DEXによって器用となった手先は、狙い違わずにその木陰へと吸い込まれた。
その瞬間に、木陰に広がった染みのような黒い影はすぐさま大きな黒い塊へと形どると一気に動き出す。
――早いッ!
想像以上の相手の素早さに、俺は全身の毛が逆立った。
黒い塊は真っすぐに俺へと迫る。
すぐさま俺は手に持つ包丁を構えた。
「ガウッ!」
獣の声とともに、黒い塊が飛び上がった。
口を開き、その中に生えた鋭い牙が目に飛び込んでくる。
「くっ」
咄嗟に俺は顔を包丁で守った。
ガチン、という固い音とともに、包丁が牙とぶつかる。
衝撃で腕が痺れるが、呆けてはいられない。
俺は黒い塊を跳ねのけると、すぐさま蹴りを放った。
「キャイン」
悲鳴とともに、黒い塊が地面を転がる。
そいつとの距離ができて、ようやく精神的にも余裕ができ、起き上がるその塊を観察する余裕が生まれた。
俺へと飛び掛かってきたのは、目が赤く染まった全身が真っ黒な犬だった。
自転車ぐらいはある、大きな身体。大型犬よりも一回り二回りほど大きい。
口から覗く牙は俺の腕を簡単に貫けそうなほど鋭く、四足から伸びた爪は皮膚を容易に引き裂けそうなほど長い。
明らかに元の世界の生き物じゃない。この世界で生きる化け物――モンスターだ。
「ミコト、こいつを見たことは?」
ちらり、と俺は後ろにいるミコトへと視線を投げかけた。
「ないです! 初めて見ました!!」
ミコトが震える声で返事をする。
ステータスか、レベルの差か。
ミコトは俺以上に身体を竦ませて、目の前のモンスター相手に震えていた。
慎重に、俺は黒い犬――ブラックドッグと呼ぶことにした――との距離を測る。
心臓がバクバクと大きく脈打つのを感じる。
こいつは危険だ、と本能が警鐘を鳴らす。
対峙して、俺でも恐怖を感じるのだ。ミコトが感じる恐怖は俺以上なのだろう。
「ふぅー……」
息を吐いて、無理やりに恐怖を押し殺す。
錆びた包丁を握り締める手に力を込めて、冷静にブラックドッグの動きから俺と奴との戦力差を分析する。
ブラックドッグの動きは素早いが、俺の方がまだ動きが速い。AGIのおかげだろう。奴の攻撃から顔を守れたのがその証拠だ。ということは、攻撃を見極めれば怪我をする恐れはない、ということ。
あとはその素早い動きに、俺の攻撃が当たるかどうか。
相手の動きをとらえられることができても、頭で考えた通りに身体が動かなくては意味がない。
(身体操作の技量、か。身体を動かす器用さ――いや、しなやかさということだよな。こんなことなら、もう少しDEXを上げておくべきだったか)
後悔したところでどうしようもない。出会ってしまった以上、やるしかないのだ。
大丈夫だ。俺ならやれる。
俺は無理やりに自分を鼓舞した。
「グルルゥ」
唸り声を上げながらブラックドッグが起き上がった。
歯を剥き出して、蹴り飛ばした俺へと怒りに燃える赤い目を向けてくる。
俺は包丁を右手に構えて、左手を前に突き出して拳を握ると腰を落とした。
ゆっくりと呼吸を整えて、集中する。深く、深く集中していく。
「グルガァ!」
最初に動いたのは、やはりと言うべきかブラックドッグだった。
四つ足に力を込めたブラックドッグが、一気にその力を解放する。
黒い影が地面を舐めるように走り、瞬く間に俺の前にやってくる。
ブラックドッグはすぐさま俺の喉笛めがけて口を開いた。
「ッらぁ!」
気合とともに、俺は迫りくる黒い影めがけて左手の拳を振った。
狙いなんか決めていない、ただ速度に身を任せた一撃。
裏拳の要領で放ったそれは、ブラックドッグの横っ面に突き刺さった。
「ギャインッ」
拳が骨を砕く感触。
頬骨を砕かれたブラックドッグが、地面に叩きつけられた。
俺は振った拳の勢いそのままに、錆び付いた包丁を振り上げると地面に倒れたソイツめがけて振り下ろした。
――ガギッ。という固い音と何かが折れる音。
振り下ろした包丁は真っすぐにブラックドッグの額に突き刺さる。
けれど、それまでだった。
これまでに何度もモンスターへと振るわれてきたその包丁は、骨を貫通することが出来ず、ついにその刀身の半ばから真っ二つに折れた。
「――――ッ!!」
一瞬、それに気を取られて動きが止まる。俺は動きを止めてしまう。
その隙を、ブラックドッグが見逃すはずがなかった。
「グルァッ!」
声を上げながら身体をバネのように飛び上がり、俺の態勢を崩すとその大きな身体で圧し掛かってきた。
「しまっ――」
そう口に出した時にはもう遅い。
目の前に迫った大きな口。ぬらりと涎で光る牙と、赤い舌。鼻につく獣の匂い。
――あ、これはダメだ。死んだ。
そう、俺は覚悟した。
「ぁあああああ!」
俺のものとは違う、少女の叫びが耳に届いた。
その瞬間、俺の顔の横を何かが通り過ぎる。
それは、まっすぐにブラックドッグの口の中へと吸い込まれ、喉奥へと突き刺さった。
「ガッ!」
突然、喉奥に突き刺さったそれに、ブラックドッグが目を大きくして後ずさる。
見れば、ブラックドッグの口の中に突っ込まれたのは鉄パイプだった。
ブラックドッグにしてみれば、ダメージにすらならない攻撃。
けれど、口の中へと飛び込んできた思いがけない異物にブラックドッグは俺の上から身体をどかしてしまう。
「ゆ、ユウマさん!」
その鉄パイプを突き出した少女――ミコトが震える声でミコトが俺の名前を呼んだ。
「――助かった!」
短くお礼を言って、俺は拳を握りしめる。
千載一遇のチャンスだ。この機を逃すつもりはない。
「ォオッラァッ!」
俺は全力で目の間のソイツへと拳を振った。
真っすぐに拳はブラックドッグの額へと吸い込まれていく。
そこは、包丁で傷をつけたが骨を貫通させるまでには至らなかった場所。
けれど、確実にブラックドッグの弱点ともなったその場所に、俺の全力の拳が命中した。
――骨を砕く音と、確かな感触。
「ま、だッ!」
続けて、反対の拳でもう一発同じ場所を殴りつける。
「ギャイン!」
たまらず、ブラックドッグが悲鳴を上げた。
「まだまだァ!」
けれど、俺は止まることなく反対の拳を振り抜く。
その瞬間に、肉を潰す感触が伝わった。
「――――」
ブラックドッグの目がぐるりと回り、倒れる。
だが、これで終わりじゃない。まだ、気を抜いてはいけない!
俺はあたりを見渡して、手ごろな瓦礫を見つける。
元は中央線が走っていた高架橋の瓦礫の残骸のようだった。
「――ふっ」
両手で持ち上げて、地面に倒れたブラックドッグめがけて思いっきり振り下ろす。
――ブチュ。
潰れる音とともに、瓦礫の下から飛び散る赤い血。
瓦礫の下から飛び出したブラックドッグの脚が、一度だけ大きく跳ねて、動きを止めた。
「――――ッはぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出し、俺は荒く呼吸を繰り返す。
汗が一気に噴き出して、心臓が早鐘のように暴れる。
瓦礫の下から飛び出したブラックドッグの脚の色が無くなっていくのを見届けて、俺はその場に崩れ落ちた。
「ユウマさん!」
ミコトの慌てる声が聞こえた。
「大丈夫。気が抜けただけだ」
言って、俺はゆっくりと身体を起こす。
目を向ければ、ブラックドッグの死体はちょうど空気に溶けて消えていくところだった。
その光景に、俺は心の内から安堵の息を吐き出す。
危なかった。
本当に死んだと思った。
それを救ってくれたのは間違いなくミコトだ。
俺はミコトへと顔を向けると、頭を下げた。
「本当に、ありがとう。ミコトのおかげで、俺は今生きてる。本当に助かった」
「や、やめてください! 私だって、ユウマさんがあの犬を倒さなければ死んでいたんですから!」
ミコトはそう口にすると、地面に座りこんだ俺へと手を差し出した。
「それに、ユウマさんが危ないなら助けるのも当然ですよ。だって私たち、たった二人の仲間じゃないですか」
「……そうだな」
俺は笑った。
「そうですよ」
とミコトも笑う。
俺はミコトの手を握り、立ち上がった。
声が聞こえたのはその瞬間のことだった。
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