??周目 白銀の彼女
彼女は、言葉通り井の頭公園の中にある池の畔に居た。
きらきらと太陽の光を反射する水辺の傍に腰かけて、焚火を熾して俺を待っていた。
「……やっと来た」
俺の姿をすぐさま見つけて、退屈そうに水面を眺めていた彼女が声を上げる。
それから、小さな手をちょいちょいと動かして俺を呼び寄せた。
「どうして、俺よりも先に着いてるんだよ……」
小さな声で、俺は呟く。
あの場所から、井の頭公園までは片道二十五キロほどだ。単純に進めば数時間で到着できる距離だが、この世界は舗装路が機能していない。あちこちがひび割れ、瓦礫で埋まり、草木が生い茂るこの世界の道を進もうとなれば、通常の数倍は時間が掛かる。
そんな道のりでも、俺は十分も掛からずに踏破したわけだが、それはこれまでに培った化け物とも呼ぶべきステータスがあるからだ。
だというのに、この女は――。俺以上の速度でここにやって来て焚火を熾し、さらには暇をしていた。
(姿を消す力、周回の中で二日目の未来を知っている未来視のような力、そして俺を知っている口ぶりと、何もかもが確定したこの世界でコイツが取っているイレギュラーな行動……。加えて、俺を凌ぐステータスの持ち主、か)
彼女が何者なのかは分からない。
けれど、普通のプレイヤーではないことは確かだ。
下手をすれば、アイオーンの仲間であることも考えられるが、それはないだろう。もし、アイオーンの仲間だったとするならば、心を折られて絶望に屈していた俺を手助けする理由が見つからない。
「……とにかく、アイツが何者なのかは、これから分かることだ」
この場所に来れば、何者なのかを教えてくれるとアイツは言っていた。
俺は、彼女の誘いに乗って彼女の傍へと近づいて、それから少しだけ悩んで彼女の前にドカリと腰を下ろした。
「…………」
彼女は、腰を下ろす俺に琥珀色の瞳を向けた。
じっと俺の瞳を見つけたかと思うと、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……多少、マシな顔になった」
「……そうか」
「うん。でも、まだダメ。マシにはなったけど、まだ酷い顔。胸の傷はどう?」
「胸……。ああ、これか」
言われて、俺は目を向ける。
匕首を引き抜いた胸の傷は、【天恵】の効果で塞がり始めていた。ここに来るまでの間に血は止まっている。これならば、放っておけばそのうち跡形もなく消えるだろう。
「問題ない」
と俺は言った。
その言葉に、彼女は小さな頷きを返してくる。
俺はその頷きを見てから、また口を開く。
「…………それで。ここに来れば、お前が何者なのか、教えてくれるって言ったよな?」
「……うん。でもその前に、あなたは一度、顔を洗うべき。もっと言えば、身体を水で洗い流すべき」
「どうして?」
「……酷い顔だって、言ったはず」
「必要か? それは」
「必要」
彼女は強い口調でそう言った。
「血と泥と垢に塗れて、あんな暗いところにずっと居た。これから話すことを、そんな人に聞いてほしくない」
「いや、でも――」
と、俺はその言葉に渋る。
血と泥と垢に塗れているのは事実だ。けれど、顔を洗ったところで俺の何が変わると言うのか。
そんな気持ちが出ていたのだろう。
彼女は、一度小さなため息を吐き出すとゆっくりと腕を持ち上げた。
「どうしても洗いたくないのなら、強制させるしかない」
そう言って、彼女は腕を動かした。
瞬間、俺のシャツの胸倉が不可視の力に掴まれる。
「なッ!?」
驚き、声を出してその力から逃れようとするがもう遅い。
彼女が振るう腕の動きに合わせて、俺は不可視の力に振り回されるように宙を飛んで、池の水の中へと投げ込まれた。
「――――っ!!」
視界が青に染まる。
口や鼻から流れていく泡沫が青い視界を埋め尽くした。
「――ッ、ぷはっ、げほっ、ゲホッ!!」
慌てて水面へと浮上して、激しく咽込んだ。
唐突に水の中へと投げ込んだ彼女に対して、カッとした怒りが湧き起こるがそれもすぐに無くなった。
「――――――」
水面に映る俺の顔。
それを、目にしたからだ。
痩せこけた頬と、乾燥によって激しくひび割れた唇。落ちくぼんだ瞳は生気が薄く、その瞳の下には、べったりと濃い隈が張り付いている。気が付けば目にかかるほど伸びていた長い髪の毛と、元々は薄いながらも長らく剃らなかったがために伸びた無精ひげは、到底自分の顔とは思えないものだった。
――酷い顔だ。
本当に、酷い顔だった。
【不眠】を獲得してから、最後に眠ったのはいつだったか思い出せない。【不食】や【不渇】の効果で食事や飲水を必要としなくても身体は確かに動いていた。
けれど、身体は動いたとしても。いや、動くからといってそれらの行為を必要としない身体になったわけではなかったのだ。
俺の身体は食事をしない影響でゆっくりと痩せこけていき、水を飲まないことで体内の水分が奪われた身体はまるでミイラのように皮膚が乾燥し始めている。睡眠に関しても同じだ。身体は動かせても、身体への影響が無くなったわけではない。
俺がこれまで生きていたのは、おそらくきっと。【天恵】というスキルが必要最低限に身体を癒し続けていたから。
【天恵】というスキルが、俺を死なないようにこの命を静かに繋ぎとめていた。
俺は、水面に映る自分の姿を目にして、
「…………そうか」
と息を吐く。
ここに映っているのは、寝る間も惜しんで食べ物や飲み水すら口にせずに、ただひたすらにこの世界を抜け出そうとして、藻掻き苦しんで失敗した男の姿だ。
何もかもを一度は諦め、投げ捨てた男の顔だ。
「そうか」
と、俺はまた呟く。
それから、両手で水を掬って顔を洗う。
「………………」
何度も、何度も、顔を洗って。
そして俺は、彼女に言われた通り身体にこびり付いた血や泥、垢を洗い流す。
最後に、腰に蔦で括りつけていた抜き身の匕首を取り出すと、水面を見つめながらその刃で髪を斬り落として、髭を剃り落とした。
「…………戻ったぞ」
俺は、匕首を片手に彼女の元へと戻る。
彼女は、俺の全身をくまなくチェックするように目を向けると、納得するように一つ頷いた。
「……うん、マシになった」
「そうか」
「うん」
こくり、と彼女は頷いた。
それから、いつの間に調達していたのだろうか。
傍に置いてあった服と靴を手に取ると、その一式を俺に差し出してくる。
「…………これ、着替えてきて」
「これは?」
「私が出したもの。その服はもうボロボロ。着替えて」
「まあ、確かにボロボロだけど」
「着替えて」
有無を言わさない口調で彼女は言った。
「着替えないなら――」
そして、そう言ってまた腕を持ち上げる。
――まさか、強制的に着替えさせるつもりか?
先程、池の中にまで飛ばされた、不可視の力にそんな考えが浮かぶ。
「分かった、分かったから」
俺は彼女の手から着替えを受け取ると、小さく息を吐き出した。
彼女から離れて、藪の中で手早く着替えを済ませる。
着替え終わり、再び彼女の元へと戻ると、彼女はまた一度頷いてきた。
「…………うん。これで、ようやく話ができる」
「ようやくか」
と、俺はため息を吐き出した。
その言葉に彼女は、感情の薄い瞳を向けると口を開いた。
「あんな状態の人に、話すつもりはない」
「そうかよ」
「これから話すことは、大事なこと。あなたにとっても。…………私にとっても」
そう言って、彼女はじっと俺を見つめた。
「…………まず、確認。あなたは、この世界に閉じ込められてる。間違いない?」
「……ああ、そうだ」
俺は、彼女の言葉に深く頷いた。
彼女は、俺の言葉に、
「…………そう」
と呟くと、ゆるやかなため息を吐き出した。
「……それじゃあ、二つ目。これまでの記憶の保持はどう?」
「…………周回を、繰り返す度に奪われ続けてる。このクソみたいな世界に来る前、来た直後、周回二周目の記憶は全部消えた。それ以降も……。もう、あやふやなところが多い」
「その記憶の中で、私と出会ったことは覚えてる?」
「……ああ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「四周目と、七周目だな? その時は、お前のことをプレイヤーだと思ってたが……。どうやら、違うみたいだな?」
俺は、そう言って彼女の瞳をじっと見つめた。
彼女は俺の言葉に肯定も否定も示すでもなく、ただ俺の目を見つめ返してくる。
それから、少しだけ時間が空いて。
彼女は、小さな息を吐き出した。
「…………その通り」
その言葉を皮切りにして、彼女はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「私は、あなたのようにこの世界のプレイヤーじゃない。どちらかというと、プレイヤーではなく管理者…………。このゲームを、元々作り出した側」
「――――このゲームを、元々作った?」
その言葉に、俺は思わず聞き返した。
信じられないその言葉に、この世界から音が消える。
彼女の言葉だけが俺の聴覚を支配したかのように、どこまでも透き通るその声が、俺の心に直接語り掛けられてくるように頭に入ってくる。
「……そう。私は、あなた達の言葉で言うところの、神様。そう呼ばれている存在」
彼女は、そう言って俺を見た。
「この世界は、元々私が作り出した場所。あなた達は、本来は私が作ったこの世界でゲームを楽しむプレイヤーだった」




