二日目・昼 食料事情
「ピギィイイイイイイッ!!」
剣のような角を持つ鹿が甲高い鳴き声を上げる。
その瞬間、その鹿は俺の振り下ろした棍棒を、まるで攻撃のタイミングを読んでいたかのように横っ飛びで回避した。
「――は?」
思わず、目を剥く。
初めて相手をするモンスターだが、本能が相手に屈していない。
ということは、コイツは俺よりも格下のモンスターということだ。
それだというのに、俺の攻撃を躱した理由は一つしかない。
「――ルナティックモードか!」
強く、奥歯を噛みしめた。
普段ならばここまで動くことは出来ないモンスターなのだろう。
だが、今のアイツは斜面を苦にすることなく自在に動き回っている。
足元が沈み込む柔らかな腐葉土の地面も、アイツにとっては何の意味もなしていない。
「……面倒だな」
小さく言葉を吐き捨てた。
モンスターが、ではない。
この不安定な足場が、だ。
ステータスは確実に俺が勝っているようだが、この足場のおかげで十分に発揮しきれない。
せめて、地面が固ければ……。
そんなことを思って唇を噛みしめたが、俺はもう一つ気にかかることがあった。
「……今の反撃は、結構ジャストのタイミングだったと思ったが」
それだというのに、躱された。
今の俺の攻撃速度は、AGIの影響もあって超速の一撃と言っても過言ではない。
よほど俺のAGIと差が詰まってなければ、避けることすら敵わない一撃であるはずだ。
いくらルナティックモードの影響を受けていると言っても、アイツと俺のAGIの差が詰まっているとはどうしても思えない。
それは、アイツの動きを見れば一目瞭然のことだった。
――だったら、どうして今の攻撃を躱された?
「違う」
俺は、すぐにその原因に思い当たる。
躱されたのではない。
俺の攻撃が外れたのだ。
不安定な足場と、急な山の斜面。加えて、不十分な体勢。
ステータスの中でも身体操作や姿勢制御を担当する項目――DEXが、この状況に対応しきれていないんだ!
「くっそ!」
STRとAGIに割り振りを大きくしていたことを悔やむ。
いくら身体の筋力を上げたとしても、いくら身体の速度を上げたとしても、それを扱う身体操作が追いつかなければ意味がない。
AGIが上昇したことで攻撃の振りは早くなったが、自分でも気が付かないうちに狙い定めた場所に攻撃が当たらなくなっていた。
(……どうする。ステータスの振り直しは出来ない。今、この現状で出来ることは何だ!?)
現状を打破する術を、高速で回転する思考が次々と提案していく。
(一度下山してやり直すか? ……いや、無理だ。地の利はアイツにある。いくら総合的なステータスは俺が優れていると言っても、それが十分に活かせないこの環境じゃあ、アイツの方が有利だろう。次のレベルアップを期待するにしても、そもそもアイツを倒せなければ意味がない。【雷走】を使用して、AGI任せに乱打するか? それなら一発ぐらいは――。いや、ダメだ。足場が緩い。乱打すれば姿勢に応じて体重移動が発生するし、それによってまた腐葉土が地面から剥がれるかもしれない)
「ィイイイイイイッッ!!」
角鹿が叫び、姿勢を低くした。
再びその鋭い角で俺を切り裂こうと、全力で突進しようとしているのが見て分かる。
「っ!」
考えろ。
考えろ、考えろ、考えろ!
レベルもステータスも勝っている。
いくらルナティックモードが適用された相手といえど、ここまで苦戦することはないモンスターのはずだ。
「もう、いっそ……。棍棒を投げるか?」
であれば、この足場の影響を受けることはない。
下半身を固定し、跳弾の要領で狙いを定めれば――。
「――――っ!」
ハッとした閃きが脳裏に浮かぶ。
だが、それでこの状況を打破できるかどうかは分からない。
それでも、やってみる他ないだろう。
「ギギィイイイイイイイッ!」
剣の角鹿が真っすぐに俺へ向けて突っ込んでくる。
俺はその角鹿を見据えながら、脳裏に浮かんだそのスキルを呟いた。
「【空間識強化】」
瞬間、視界に入る全ての物体の位置、角度、距離、その全てを正確に把握した。
俺に向けて突っ込んでくる角鹿の額に向けて、俺はもう一度右手の棍棒を振り下ろす。
すると、強化された空間識がすぐさま俺の姿勢が崩れたことを伝えてきた。
「ッ!!」
そのズレを、俺はAGIに任せて瞬時に調整する。
本来、空間識というのはその空間に対する自分の位置や姿勢、方向や傾斜を認識する人間の力のことだ。
このクソゲーにおいて、DEXの役割が身体操作や姿勢制御を上手く行う力のことだとするならば。
その姿勢に対する自己認識を強化して、その認識に応じて瞬時に身体を動かしてしまえば、疑似的なDEX強化になりうるはず!
「ォオオオオオオオッ!」
叫びをあげた一撃は、真っすぐに剣の角鹿の額へと吸い込まれた。
「ピギィイイイイイイイイイイイッッ!!」
額の骨が割れる音と、棍棒が砕け散る音、そして角鹿が発する痛みの鳴き声が同時に重なった。
「――まだ!」
だが、それだけではその角鹿の命を刈り取れない。
俺はすぐさま左手に持つ鞭を振り払う。
痛みで動きを止めた角鹿の身体へとその鋼索は激しく打ち付けられて、角鹿の身体がビクリと震えた。
「ィィィ…………」
小さな鳴き声を発して、角鹿が地面に倒れる。
ほどなくして、その命が尽きたことを示すように、その茶色の毛皮が色を失い、崩れ始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩で呼吸を繰り返し、俺はその鹿が消えていくのを無言で見つめ続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……。あー……。どうにか、なったな」
呟き、安堵の息を吐き出す。
「これからは、【空間識強化】も常時発動させておくか……。今にして思えば、空間を把握する力を伸ばすこのスキルは、この山を登るのにも使えるスキルだし」
今回の戦闘で苦戦した要因は、【空間識強化】をただの跳弾用のスキルだと割り切っていたからだろう。
そのスキル本来の使い方を見誤れば、いざというときに手痛い目に合う。
そんなことを、教えてくれるような戦闘だった。
「さて、と。登山の続きだ。棍棒が一個砕けたし、どこかで手ごろな石か枝さえあれば良いけど」
呟きながら、俺はゆっくりと足を踏み出した。
……それから。
どのくらいの間、俺は山を登っただろうか。
登り始める前は東にあった太陽が、空高く昇り木漏れ日を斜面に落としている。
スマホで時間を確認すると、登り始めてもうすでに三時間が経過していた。
滝のように流れる汗を拭って、周囲を見渡す。
木々の間から見える景色が、かなりの距離を登ってきたことを教えてくれていた。
「ふー……」
ゆっくりと息を吐く。
足を踏み出そうと持ち上げたところで、足が縺れて俺は体勢を崩した。
「――ッ」
慌てて、傍にある枝を掴む。
再び息を吐いて、俺は生唾を飲んだ。
流した汗が多いからだろうか。
異常なほど、喉が渇く。
足を踏み出せば踏み出すほど、空腹感が増していく。
身体に溜まった疲労で全身が重たい。
心なしか指先も震えてきたように思えた。
「ふー……」
もう一度、息を吐いて俺は前を見据える。
崩壊し登山道が消えたこの山を登るには、自分の力で鬱蒼とした藪を切り拓かねばならない。
登り始めは苦戦しながらも確実に前へ進めてはいたが、時間が経つほどに俺の登山速度は目に見えて落ちて、今では亀のような歩みになっていた。
「……まずい、な」
思わず呟く。
おそらくだが、今の俺は脱水の状態にある。
加えて、空腹と倦怠感、指先の震え……。
これが示すのは、体内血糖が低くなっているからだ。
――ハンガーノック。
それが、今の俺に当てはまる状態だろう。
この世界で目が覚めてから俺は、戦闘による激しい運動を続けてきた。
乏しい食料を工面しようと、まともな食事を摂ることを止めて、水分摂取すらも必要最低限とした。
そんな状態で、モンスターとの戦闘が行われる登山を強行している。
その結果、俺の身体のエネルギーは枯渇した。
いわゆる極度の低血糖だ。
加えて脱水症も追い打ちをかけてきている。
(……一度、休むか)
いち早くクエストをクリアしなければならない。
そんな思いが湧いてくるが、それをするだけの体力がない。
俺は傍にある大木に背中を預けるように座り込むと、思わず俯いてしまう。
いくらステータスが伸びてスキルという力があるからといって、俺の身体は人間だ。
飯も、水も飲まなければ身体は動かず、そのステータスもスキルも満足に発揮することは出来ない。
「……とりあえず、飯食わねぇと」
言って、俺は残された乾パンを取り出すとその全てを口に入れて、咀嚼し無理やりに嚥下する。
次いで、ナップサックから水を取り出してその中身を呷った。
喉を動かす度に身体に入り込む水分が、活力となって身体に沁みる。
空きっ腹に水と食べ物が落ちて、胃が驚いたのかキリキリとした痛みを発した。
けれど、水と食べ物を身体に入れたおかげで多少楽になった。
後頭部を大木の幹に押し当てながら、俺は頭上を見上げる。
「……これで、残りの水は2Lペットボトルが三分の一と、缶詰が二つ」
低血糖による身体への支障が出た以上、食事をおざなりにすることは出来ない。
俺がもし『人間』でなければ、食事を最小限にし細々と活動することも出来ただろうが……。
俺の命題が――〈幻想の否定〉がある限り、この世界で細々と活動することは出来ないだろう。
モンスターを見かければそれを殺すべく意識が傾くし、クエストが始まればそれを終わらそうとする。
俺がこのクソゲーのプレイヤーである以上、俺はモンスターを相手に激しく身体を動かす。
――いや、動かし続けてしまう。
戦闘を繰り返し、激しく身体を動かす以上、食事をおざなりにすることは出来ないということだ。
……改めて直面する、食料事情。
この世界の廃墟に食べ物が残っていれば探索を続けて見つけたが、生憎とそんなものはない。
唯一見つけた食べられそうな物といえば、岩のように固いジャガイモのようなものだけ。
山に入ったにも関わらず、出会う動物は剣の角鹿というモンスターを除けば何一ついない。
まるで、俺たちプレイヤーが自分たちの手で食料を調達することを禁じられているかのようだった。
「……いや、実際そうなんだろうな」
これまで、この世界で過ごしてきた日々を思い出す。
野生の獣を見かけない街に、魚を見かけない水辺。
野生化したかつての食べ物は、以前とは比べ物にならないほど変異し、今の俺が食べられるかどうかも分からない。
山に入ったにも関わらず、樹木に生る木の実は見当たらず、湧き水一つ見つけることが出来なかった。
――この世界が地球の数千年後だとして。
気の遠くなる年月が経過したとしても、そこに本来あるはずのものが存在していないのは不自然だ。
どんな環境でも、そこに水と緑と空気と光があれば、何かしらの生物や種子が存在している。
……だが、この世界にはそれが極端に見当たらない。
であれば、考えられることは一つ。
本来ならば存在しているものを、あのクソ野郎がこのクソゲーを創り出す過程で消し去ったということだ。
「……どこまでも、この世界はお前の箱庭ってことか」
俺は呟き、目を閉じる。
こんなことになるなら、公園で見つけた汚泥の水でも汲んでおくべきだった。
そう考えて、ふと思い出す。
「……そう言えば、井の頭公園に綺麗な水場があったんだっけ」
あの場所の水なら、飲み水に使えるだろう。
何せ、あの場所は水浴びにも使えた場所だ。
クエストが終わればあの場所へ、水を汲みに行ってもいい。
「――――ぐっ」
唐突に、頭が痛む。
瞼を下ろした暗闇の中で、テレビのノイズ画面のような光景が浮かぶ。
水面に反射する光。
水底に漂う水草と、どこまでも透き通る水面。
ほのかに光る白い翼と、黒い髪の少女――。
「――――」
……知らない。
俺は、こんな光景を知らないッ!!
これは、いつの記憶だ!?
誰の記憶なんだ!?
「ぐ、ぅ……」
――ズキリ、ズキリ、ズキリ……。
その光景を拒否するかのように、頭が痛む。
鉄のバッドで殴られたかのような激しい痛みに、俺は頭を抱える。
ジッと、その場に蹲る。
瞼の裏の光景を消し去ろうと、ぎゅっと強く瞳を閉じ続ける。
……やがて。
その光景は次第に薄れて、それと同時に頭を襲う痛みは消えていった。
俺は瞼を開いて、深く呼吸を繰り返す。
「……なん、だったんだ、今のは」
俺の知る、一周目の記憶とはまた違う。
俺の知る一周目は、今と同じ様にソロで活動していたはずだ。
今の記憶にある彼女を、俺は知らない。
「――いや、あれは。あの姿は、立川の街で見た少女、か?」
だとすれば、どうして。
あの少女が、今の光景に出てきたのだろうか。
あの少女とは、あの街で初めて出会ったはずなのに。
どうして、身に覚えのない光景がフラッシュバックするのか。
「…………まだ、何かあるってのか。この世界は」
全てを知ったつもりでいた。
けれど、何か。
重要な何かが隠されている。
それはきっと。
俺の、この心に空いた空洞と関係があるに違いない。




