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2-21 ねことわたしの一週間

アメリカンショートヘアとマンチカンのミックスのオスの茶トラ猫「ねこ」は、溺れていた。溺れる中で飼い主の青年「翼」の微かな声を聞き、意識を手放す。


「ねこ」は「翼」と出会った時のことを思い出す。ペットショップで売れ残っていた「ねこ」を選び、結果として引き取り業者に渡されそうになっていた「ねこ」を助けた形になるのだが、「翼」はそれを知らないままだ。

「ねこ」は彼の家に迎えられたその日に、「ねこ」と名付けられた理由を知る。


お迎えされて数年後、「翼」の休日の趣味であるキャンプに一人と一匹で出かけた。

その時にトラブルがあり、川に流されてしまったのだ。


流されながらもがいている「ねこ」を大学一年生の女子「朝霧 小春」が見つけて助けようとする。その先は――

プロローグ


 嗚呼、何故こんなことになったのだろう。

 激しく流れる川に揉まれ、呼吸をしようとする度に水が口に入ってくる。もがいたところでどうにもならないと悟っていても、もがかずにはいられない。何とか助からないかと、少しでも流れに抗えないかと、もがき続ける。

 ごぼごぼ。ごぼごぼ。

 嗚呼、誰か助けて。苦しい。怖い。我は水が大嫌いなんだ。我はまだ死ねない。我にはやることがある。だから、助け――

 否、違う。我は死んでもいい。我は死んでもいいから、我を助けている時間があったら――

 もがく。もがく。助けてくれる誰かなんて何処にもいないかもしれない。

 だから、もがく。最期まで――

 めちゃくちゃに動かしていた両前肢が、何か柔らかいものを掴まえた。跳ねる水を防ぐ為に両目を強く瞑っているから見えないが、棒みたいだった。濡れた布が纏わりついた、柔らかい棒だ。

 必死になって棒に掴まる。後趾をバタバタさせていたら、柔らかい何かが背中を包み込んだ。

 嗚呼、これは人間の手だ。我が捕まっているのは人間の腕だ。そうか、助かったのか。助かったのかご主人。

 良かった。本当に良かった。

 苦しくて、目が見えない。視界が真っ暗だ。鼻に外気が当たる。呼吸ができそうだ。

 なのに、何故こんなに苦しいのか。吸った空気が体内に入っていかない。

 苦しい、苦しい、苦し……

「ね、こ」

 ご主人の声が聞こえた。

 死というものは解っているつもりだった。いつかその日が来ることも。

 薄らとした恐怖も抱いていたつもりだ。

 けれど、この時に我の中にあったのは感謝だけだった。

 ご主人、我を選んでくれてありがとう。遊んでくれて、ご飯をくれてありがとう。

 ご主人は、きっと長生きしてね。

 死の淵など、醜いものだと思っていた。混乱して、苦しんで、それは恐怖の絶頂で。

 留守番中にテレビドラマでよく観る、眠るような最期なんて現実にはないのだと。

 そんなことはなかった。

 我は安らかに、静かに息を諦めた。



第0章


                 1


 我は猫である。名前は「ねこ」だ。何か言いたくなるのは解らなくもない。


                ΦγΦ


 多くの場合、ペットショップに入荷される猫は生後二か月で、人気があれば一か月以内には買われていく。しかし、生後七か月を過ぎても我はショーケースの中にいた。

 最初は、他の同時期入荷の猫より小さかった。そのうちにあどけなさも薄まり大きくなり、新米の猫たちの脇で店を訪れる人間たちを眺めて過ごす存在になった。自分たちは商品で、買われた先で生活するのだということも、その頃には把握していた。

 彼等彼女等の殆どは、数秒から数十秒だけ我を観て去っていった。

「小さすぎないか?」

「長生きしなさそうだしもっと元気な子にしようよ」

 といった言葉から始まり、生後四か月頃には種類や見た目の選別が増えてきた。

「ミックスって雑種って意味だよね」

「雑種より純血種がいいな」

「よく見る柄でつまんないな」

 ほんの短い時間の会話では、前に立つ人間たちの性質は判断できない。だが、皆、玩具やぬいぐるみを選んでいるのと変わらないように思えて、買われた先で幸せになれる気がしなくて、臆病になった我は自己アピールをしなくなっていった。

 過ぎゆく毎日で、翼だけが印象に残っていた。初めて会った時、彼ははたと我の前で立ち止まった。見下ろしてきた視線が、流れ歩く人間たちを無感情に眺めていた我の視界に入り込む。

 どきりとした。

 一度大きく心臓が跳ね、丸い目を見開いて翼を見詰めた。無機物に近い、記号のような人間たちの中で、彼だけが解像度高く、生きて見えた。

 その日は何の反応もなく立ち去っていったが、それからというもの五日に一度程の頻度で彼は現れた。相変わらず一瞬だけ目を合わせて無表情に帰っていく。特に奇抜な格好をしているわけでもない凡庸な青年なのに、確実に彼を見分けられた。

「この猫、値下げしても全然売れないわね。そろそろ引き取ってもらいましょう」

「はい。今週中に来てもらえるように連絡しますね」

 時間は進み続け、我は一向に誰からも買われず、彼にも買う気はないのだろう。目が合うことに意味はないのだろうと思い出した頃だった。

 店員たちの話を聞いて、怖気が走った。ケースの前で、人間がよく噂しているのだ。そういう専門の業者があり、引き取られたが最後、動物は二度とショップには戻れないと。最悪の場合は死に至ると。

 過去に買われていった動物たちが捨てられ、この業者に辿り着いて同じ末路を辿ることもあるといい、店で買わずに業者に行こうと結論を出して帰っていく人間も多い。

 信憑性は不明であったが、動物たちの間でそれは怪談のように流布され、業者という存在は恐ろしい悪魔として認識されていた。

 我は怯えた。食事も喉を通らず、ショーケースの中でも寝て過ごした。自己アピールしないとと思っても、動く気がしなかった。時折、たまに来る彼の顔を思い出した。

「ああよかった。まだ売れてなかった」

 店内の雑音を音楽代わりに瞼を閉じていた時だった。言い回しに引っ掛かりを感じて目を開けると、我の前に彼が――翼が立っていた。人懐っこさのある笑顔を浮かべ、近くにいた店員に声をかける。

「すみません、あの、あの猫ください。茶トラの」

「えっ」

 店員が驚きの声を上げる。業者に連絡すると答えていた女性だ。

「えっ、この、アメリカンショートヘアとマンチカンのミックスの生後七か月のオスの茶トラ猫ですか?」

 やけに丁寧に我の属性を並べ立てる。本当にこの猫なのかと、間違いじゃないかと確認しているように聞こえた。他の若い猫では、ここまではしない。

 翼は、我の顔をケース越しに覗き込んでから、そこに貼られたプレートを見た。

「はい。えっと、このアメリカンショートヘアとマンチカンのミックスの……生後、七か月、のオスの茶トラ猫です」

「にゃあぁー」

 我は鳴いた。我の心が光で満たされた瞬間だった。悪魔のもとへ行かなくてもいいという喜びと、彼に見捨てられていなかったという喜びだった。

「あらっ、この子……承知しました。では購入の手続きと諸々の説明をいたしますので、こちらへどうぞ」

 店員が、ケースの左上に売約済のシールを貼っていく。手続きの終わった二人が戻り、翼が買ったばかりのキャリーに入れる為に我を抱っこして。

「良かったね。本当に良かった」

 と、彼女は泣きながら、言ってくれた。


 翼に救われたから、あの怪談がどこまで本当なのかは判らない。だが彼女の涙について考えると、そこそこ本当なのではという気もしている。

「誰かに飼われる前に間に合って良かったよ。ショップに行く度にひやひやしてたんだ」

 バスや電車を乗り継いで家に向かう道中で、キャリーケースを持った翼がこう話してくれた。

「バイトしてお金を貯めてたんだ。ねこを迎える為のお金と、迎えてからのご飯や遊び道具や……ねこを守る為のお金だよ」

 にゃあ、と我は鳴いた。そういうことだったのか。翼は我を見にきていたのだ。観に、ではなく、見に、だ。

 翼の家は一軒家で、広かった。キャットタワーやトイレ、サークル等が既に準備されている。

「ちょっと古い家だから、ペット可のマンションよりも安くてね、こっちにしたんだ。どう? ねこ」

 ケージから出た我はまた、にゃあぁ、と鳴いた。不満があるわけもなかった。

 我の隣にしゃがみ込み、翼は背中を撫でてくれた。

「君の名前はねこだよ。俺は君の猫らしく猫であるそこに惹かれたんだ。だから、君はねこだ」

 全ての猫は猫らしく猫なのではないかと思ったが、それを伝える術もないし必要もなかった。

「にゃ!」

 と我は、元気よく了解した。


 あれから二年。

 我と翼は、趣味のキャンプに向かっていた。


                 2


 わたしの名前は朝霧 小春。大学に入学したばかりだ。進学の為に東北から関東に引っ越してきた。大学までは少し距離があるけれど、この辺りは自然が多くて実家周りと環境が近く、ゆったりと過ごせる。何より、家賃が安い。

 今日は土曜日で予定もなく、町を巡ってみようと思って散歩をしている。途中で気に入った物を見つけたら購入したかったから鞄はナップザックを選び、長く歩いても大丈夫なようにスニーカーにスキニーパンツ、長袖Tシャツという格好だ。

(あー、空気が気持ちいい)

 まずは町内にある運動公園で開催されているフリーマーケットに行こうと、アパートの郵便受けに入っていたチラシを片手に川沿いを歩く。川といってもこの辺りは緩やかな坂になっていて、流れは速い。川の色は澄んでいて、濁りは見えなかった。意外と深さがありそうだ。

 川の向こうから何かが流れてくる。何かの周りだけ水飛沫が激しくて、怪訝に思ったわたしはその正体を知ろうと、目を凝らす。

「……あっ!」

 それは、猫だった。

 茶トラの猫が、川の流れに抗おうと必死にもがいている。

「大変!」

 近くに人がいたら、危ないから猫の無事を祈るしかないとか止められたかもしれない。

 でも、今ここには誰もいなかった。

 そして、わたしは止められたとしても止まる気はなかった。

 ナップザックを急いで降ろし、土手を走って下りる。川の真ん中を流れている猫を受け止めるには、そこまで移動しなければいけない。

 川に足を入れると、かなり冷たかった。しかも、ちょっと油断したら流されそうだ。わたしは全身の力を使って猫を受け止めようと移動を始める。

 腕を伸ばすと、猫の両前肢がしがみついてきた。

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