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2-15 鬼哭しぐれ

雨が哭く、京の夜。鬼の哭き声のように鋭い雨音の中、如月燈矢の小屋を訪れたのは、かつての因縁を宿す武士だった。刃が閃く一瞬、懐かしい名が喉から零れ落ちる。静寂に溶けるその声は、再会の痛みを孕んでいた。

やがて場面は晴れ渡る山間の昼へと移り変わる。畑を耕す燈矢と、無邪気に跳ね回る狐の少女・りん。のどかな光景の下で交わされる笑い声の端々に、夜ごと背負う「勤め」の影が滲む。穏やかな日常と血なまぐさい噂、そして夜の暗がりで交わされる刃――それらはやがて一つの運命に収束していく。

雨と刃の音を背景に描かれるのは、鬼と人とが交差する物語の始まり。『鬼哭しぐれ』、ここに開幕。


 鬼の哭く音は地を穿ち、水たまりに数多の波紋を刻む。冷たく、温度を殺す音階。湿気を孕んだ雨音が耳底を打つのに、不思議と蒸し暑さは感じない。体温を奪う温度に薄い布団を引き寄せ、中で両脚を折り身体を縮こまらせた。

 瞼を下していても訪れることのない眠気。――雨の日だけは、と。夜の勤めを免除したことへの罰のように、眠りは遠ざかっていく。

 観念して薄く目を開けば、行燈の炎がユラと揺れ、まるで魂を宿しているかのように橙色の光を吐き出していた。薄い布団を避け上半身を起こす。背中を丸めてフゥと短く吐き出す息。山間の村外れに建つ小屋を取り囲む雨音があらゆる方向から染みてきて、閉じ込められたように息苦しかった。

――サァサァ、サァサァ。家の周りの土を満たして、泥に変え、いくつも生まれた水たまりの表面を叩いては、波紋を広げていく光景が脳裡に浮かぶ。生まれたての水面を打つ冷たい雫。その音を聞きながら、再び瞼を伏せた。

 ふと、布団の上に落ちる影。隙間風に煽られた炎が揺らぎ、過ぎった影も一瞬でフッと掻き消える。

 次の瞬間、戸を叩く音が聞こえた。寝巻の前を掻き合わせ、枕元に置いた鞘に手を伸ばす。

 チリッ、と。こめかみ辺りを掠める研ぎ澄まされた気配――殺気。己が勤めを怠ったでいで、わざわざ向こうからこちらを訪ねてくるなんてことはあるだろうか――いや、それはあり得ない。ならばこれは、狩るために来た気配だ。

 己の立場を思い知れ、と。地獄の底から警告するような声が、心の底で渦巻いている。

 確信を胸に寝床から立ち上がり、フッと蠟燭の火を吹き消した。

 明かりなどなくとも、闇はもとより自分の居場所。夜目の効く視界で、暗がりに沈む訪問者を探る。

 小屋の中の空気が変わる。大きく聞こえだす雨音が、訪問者が戸を開けたことを知らせた。

 裸の足で畳の目を踏みながら、顎を上げ、突き出した鼻腔をスンと鳴らして匂いを嗅ぐ。

「……どちらさまで?」

 暗闇の中に立つ影に向けて、潜めた声を投げた。菅笠で顔を隠した武士姿の男は、口を噤んで答えない。

 濡れた着物が体に張り付いているせいで細く見える体つき。だが放つ気配は夜の雨のように重く、鋭い。男は菅笠に添えた指をクッと小さく持ち上げて、微かに瞳を覗かせる。

 まともにその視線を食らうわけにはいかない、と、男の視線からわずかに目を逸らして対峙する。

「如月の当主の家というのは、ここか」

「……その名を、どこで」

「当たりだな」

 男は菅笠を脱がぬまま、刀を抜き放って躍りかかってきた。泥で汚れた草履が畳の目を踏んで飛び上がり、暗闇を白い影が裂く。突き出された切っ先は一直線に見えて、眼前で翻り滑らかな円弧を描いた――その頂点で白刃が音もなく跳ね上がり、喉元を狙う。

「あ……」

 その太刀筋には、覚えがあった。漆黒の夜に浮かんだ金色の三日月。その欠け際から円を描くように伸びる刃――

――あの月の先。あんな鋭い切っ先になりてぇんだ。

 目に見える真実を真っすぐ見つめる眼差しが、目の前の男の瞳に重なる。

 雨音が急に遠のく。

 世界から色も音も抜け落ちたような、静かな間。

 滴る水の一粒一粒が、空気を裂く音を立てて地面に落ちる。

 合間に、寝巻の薄い布の内側で、鼓動が大きく脈打つのを聞いた。

――ドクン。

――ドクン。

 声を出そうとしても、喉が詰まったように下手くそな息遣いが漏れるだけ。

 ただ、懐かしい名前が心の奥で熾火を燃やすように燻っていた。

 やっとのことで零れた名前が、震えながら静謐な雨粒に溶けて、落ちる。

「……――」

 見交わす瞳が驚愕で零れそうなほど見開いた後、男の瞳が痛そうに歪んだ。



――終わりかけの梅雨に、最後の雨が降るよりも前。久々に訪れた束の間の晴れ間。

 長い霖雨に繰り返し打たれた若葉は、濃い緑に色を変えて。葉の先に溜まる雫は静かに膨らんで、音もなく地に落ち細い枝を揺らした。鬱蒼とした緑の広がる山間の地に、小さな畑と小屋がひとつ。道端に置かれた古い道祖神の前を通る行商人が、膝を着き両手を合わせ、畑仕事をする若者に軽く頭を下げ通り過ぎていく。

 畑仕事をする若者は、鍬を振るう手を止め行商人を視線で見送った。挨拶を返そうにも、足の速い彼はもうとっくに小屋の前を通り過ぎてしまっている。如月燈矢は茜色の瞳を細めて、うなじの辺りで括った橙の長い髪の先を小さく引いた。

「とーや! またボーっとしてはんの?」

 足元辺りで響く明るい声に、燈矢は鍬を胸に引き寄せ体を反る。ちょうど燈矢が耕し終えた畝の上にしゃがみ込んでいる山吹色の着物を着た少女は、片手に食べかけの握り飯を持って、既に通りの向こうへ姿を消した行商人の姿を追うように額に手を翳して首を伸ばしていた。

「りん、尻尾と耳。あとそのおにぎりどこから盗ってきたの」

「へぁ? とーやしか見てへんし別にええやろ。あとおにぎりは盗ったんとちゃうで。もろたんや」

 少女――りんは指先についた米粒を小さな舌を出して舐めとりながら、着物からはみ出している金色の尻尾をゆさゆさと振る。肩までの長さの黒髪の上にも、尻尾と同じ毛並みの三角の耳がピンと立ってヒョコヒョコと揺れていた。

「もらったって、誰から」

「いなり先輩」

 りんは最後の一口を口内に収めてから、道祖神の隣に立つ稲荷を指さした。普段は閉じているはずの格子状の扉は大胆に開いていて、供え物を置く皿の上が空になっている。

「……盗っただろ」

「盗ってへんて。いなり先輩とはずーっと昔から仲良しやあ言うてるやろ」

 小さな舌を「べっ」と出して、しゃがんだ姿勢から伸びあがったりんは、ぴょんぴょんと軽く跳ねながら畑の中を飛び回った。我ながら上手く作った畝が無残に踏み荒らされていく様に青ざめた燈矢だったが、りんの無邪気な様子を見てフッと眉尻を下げて笑う。

「とーや! なんの野菜植えんの? うちとうもろこしがいい!」

「りんって肉食じゃないの?」

「肉しか食わん狐なんて古い古い。時代は雑食やあて」

「……ふーん」

 本人が言うのだから、まあそうなのだろう。

(人間に化けたりしてるから、体質も普通とは違うのかもしれないし)

 燈矢は自身の思考に向けてウンとひとつ頷き、鍬を持ち直して再び畝を作り始める。

 ザクッ、ザクッ。柔らかな土を鉄の刃が突き刺すたびに、豊かな香りが鼻腔を擽る。冬の間眠っていた生命が呼吸を始め、積もった枯葉は栄養となり、大地の一部になる。フワッと吹き抜ける風が優しく頬を撫で、燈矢の長い髪を緩やかに揺らした。

「相変わらずここはのんびりしてんなあ。下は偉い物騒やで」

「りん、また下に降りたの?」

「せや、うちの日課やもんね。顔のこわあいお侍さんがえらい増えてきよったで。毎日のように殺しが起きてる言うて、みーんなピリピリしよってな」

「……殺しって、人が人を?」

「せやで。町での話やし、まさか獣に食われたなんて話やないわ」

「だよね」

 ハハッと軽く笑って、燈矢は顔を伏せた。ちょうちょを追いかけて跳び回っていたりんはふと足を止め、黙々と鍬を振る燈夜をジッと見つめて首を傾げる。顔の輪郭を隠すように垂れ下がる長い前髪が燈矢の顔を隠していた。りんは傾けた首の角度を深めていきつつ、遂にはその場にしゃがみ込む。

「とーや」

「ん?」

 ザクッ、ザク。単調に繰り返される鍬の音。りんは尻尾でパタパタと土を叩きながら、金色の大きな目を瞬いた。

「また夜に出かけはんの?」

 単調な鍬の音が止まる。燈矢は鍬の刃が盛り上げた土をジィと見つめ、短く息を吐いてから空を仰いだ。長く降り続いた雨に洗われた澄んだ青に目を細めて、深く吸い込んだ息を鼻を通して体から抜く――今夜はきっと、雨は降らない。

 空を仰いだことで流れた髪が露にする燈矢の横顔。村の人間の中では類を見ない、日焼けをしない白い肌。長い睫毛も、憂いを含んだ上品な顔立ちも、何ひとつこの場所の雰囲気に馴染んでいない。

 りんは自身の中に湧いた感覚を認めるのが悔しくして、キュッと小さな唇を噛んだ。

「どこで盗み見してるの。夜はちゃんと寝床に帰りなって言ってるのに」

 空から目を離した燈矢は、眉尻を下げてまるで困ったような顔で笑う――りんのよく知る燈矢の笑顔。りんは噛んでいた唇を解いて立ち上がり、腰に手を当てて薄い胸を張った。

「うちはもう立派な大人狐やからな。妙齢の女子に化けて町歩いてるとなあ、男の人に声けかられるんやで。お姉さん偉い美人さんやなあ言うて」

「へぇ」

「絶対信じてへんやろ!? なんやねんその気ぃのない返事は!」

 ムッと顔を顰めたりんは土を蹴って駆け出し、燈矢の傍で跳び上がって彼の背中に張り付いた。不意打ちを食らった燈矢はグンッと背中を反って「ふぐぉっ」と潰れた悲鳴を上げた後、両足を踏ん張ってなんとか体勢を立て直す。

 背中ではしゃぐりんを苦笑しながら眺めた燈矢は、片手で鍬を拾い上げて畑から小道へと引き上げた。

 足跡だらけの畑に、澄んだ陽光が注ぐ。開けられたままの祠の扉は風に揺れて、キィキィと高い音を立てた。

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