2-12 星の海行く古都は今日も偽りの夢を見る
貞観六年(西暦864年)平安京。
都の治安を守る検非違使は容姿、才能、家柄、血筋、経済力などが必要となる狭き門。
この都での彼らの主な仕事は、出没する物の怪退治であった。
兄を鬼に連れ去られた少女スガルは、検非違使にとりたてられる日を夢見るが、この都には大きな秘密が隠されていた。
とてもそうには思えないでしょうが、一応SFです。
貞観六年はわずか15歳の清和天皇の治世。同年富士山噴火が始まり、そして貞観十一年には地震。貞観八年には応天門の変が控えています。
――貞観六年(西暦864年) 皐月 平安京―
雨上がりの無風の夜。
曇天の空には星も月もなく、ねっちりとまとわりつくような闇が都を覆っている。
ここは右京の南の外れ。低湿地が広がり住む人の少ない右京は、賑やかな左京と比べてまばらに建ち並ぶ家と畑ばかりで、昼間でも寂しいところだ。
そして、こんな晩はさらに不気味さが増す。
何かの気配がしてスガルは息を止めた。歩くだけでじっとりと汗ばむのに、むき出しの細い腕にはチリチリとした寒気が走る。
違和感の正体を見極めようと、スガルは大きな目玉を左右に動かした。
しかし残念ながら漆黒で塗りつぶされた視界は目を閉じているのと変らない。
こんな夜は奴らが大勢やってくる。
ふと天花様の声を思い出してスガルはごくりと唾を飲み込んだ。
こんな時、頼りになるのは耳と鼻とかすかな気の動きだけ――静かに、注意深く。
心の中で繰り返しながら一歩を踏み出したスガルだが、自分が踏み潰した砂利の音に驚いて身体がびくりと跳ねる。
どうせ、夜目の利くあの二人はこの姿を見て笑っているのだろう。
些細なことに大げさな反応してしまった自分に対する怒りと緊張で、顔が熱くなる。
スガルは自分を鼓舞するために、自らが掲げた目的を心の中で叫んだ。
今日こそは化け物を討ち取って自分を軽く見ているあいつらに、ひと泡吹かせてやる。そして検非違使になることを認めさせるんだ。
鬼に連れ去られたお兄ちゃんを助けるために。
気を取り直そうとして大きく頭を振った拍子に頭頂部でひとまとめにした長い髪が勢いよく揺れた。
ばしっ。
いきなり髪が何かにぶち当る――と、同時だった。
ぎゃああっ。
羽ばたきと、烏と猿の鳴き声を足したような叫びが肩の上に響き渡る。
「きゃあああああっ」
ずん、という重みとともに左右の肩の上に尖った爪で掴まれたような鋭い痛みが走る。
身体を折り曲げて手で払った瞬間、ふっと身体が軽くなった。
慌てて刀を抜くと、スガルは辺り構わず振りまわす。一度だけ何かに当たったように思えたが、腰の引けた体勢から繰り出される刀の力などたかが知れている。
「やだっ、やだっ」
半泣きで叫びながら右手で刀を振り、左手を亀のように縮めた首に回す。
「スガル落ち着け、口を閉じろ」
闇の中から声が響いた。
「え、えっ」
唇をくわえ込むようにして必死に黙ると、羽ばたきの音が闇をよぎるのが耳に入る。
右、斜め前。
ぶんっ、と振られた刀は無常にも空を切った。だが刀が風を切る音の一瞬、前に何かが飛び立つ音がした。
羽ばたきが消えたのは――真後ろっ。
身体を回すのが間に合わない。ダメだ。噛みつかれるっ。
断末魔の声が響き渡った。
小さい火花の後にぱっと松明に灯が灯される。煙と伴に頭を刺激する松ヤニのツンとした香りが辺りに広がった。
我に返ったスガルの鼻先に何かがいきなり突き出される。
「こ、蟲鬼」
わかってはいたが、やはり実物を見ると怖い。スガルはぺたりと尻餅をついた。
風早が掴んでいるのはしわくちゃの顔にぎょろりとした目玉と牙の覗く口を持った全長一尺ぐらいの異形の鬼だった。頭頂部には長くはないが尖った角がある。蝙蝠のような羽と、骨の浮いた肢体、そしてぽこりと出た腹。全身は茶色で手足の鋭い爪は軽く湾曲している。
先ほどスガルの肩に刺さったのはこの爪だろう。幸い爪には毒が無いが、鋭い牙からは毒が出る。それにやられれば、鬼をやっつけても数日は苦しまねばならない、間が悪ければ死ぬことだってあり得た。
ああ良かった、とスガルはほっと息を吐く。
大きな刀傷が入った目の前の鬼はしばらくすると光の粒に姿を変えて消えていった。
「おいおい、都に入り込んだ鬼をおびき出す囮なんだから、先触れの一匹ぐらいで腰を抜かさないでくれよ」
おかしそうに言うと烏帽子から茶色の髪を横になびかせた青年がスガルに手を差し出す。長い指にはタコができ、手にちりばめられた怪我や火傷のあとが今までの彼の辛苦を物語っていた。
「ありがとう、風早――ぎゃ、ぎゃああああっ」
手を握って立ち上がったスガルが見たのは、風早の背後から灯を目指して押し寄せる蟲鬼の大群だった。
「牙には気をつけろよっ」
言葉とともに風早が長い刀を抜き放つ、と同時にその姿が消えた。闇の中を彼の持つ松明の光だけが線のようにたなびいて、光から逃げるように激しい羽ばたきの塊が位置を変える。
「あ、あたしだって」
抜き身を持って立ち上がるスガルだったが、気配を感じた数羽の蟲鬼の突進を受けて叫びを上げてうずくまる。
「スガル、お前は腰を抜かしとけ」
橙色の光がスガルの横に止まって、瞬く間に三匹の鬼を切り伏せた。
風早の動きが止まったのを見て、一気に蟲鬼が彼らの周りを取り囲む。余裕をかましていた風早も、流石にこの大軍の前では表情が固くなった。
だが、蟲鬼たちの羽ばたきが急に弱くなる。
「今だ。これならお前でも狩れるだろっ」
まるで闇に貼り付けられているように動きを止めた蟲鬼たちを、風早とスガルは草を刈るように切り伏せていく。鬼達は一刀両断されて地面に落ちると数回ピクピクとした後で光りの粒になって消えていった。
「お待たせ」
鬼が消え、路上に座り込んで肩で息をする二人におっとりした声が降ってきた。
声の主は長い睫毛にぱっちりとした垂れ目という柔和な見た目で、口元には龍笛が当てられている。烏帽子からこぼれ出る光沢のある長い巻き毛が松明でキラキラと輝いていた。
「助かったよ、玉響。奴ら一瞬で動けなくなった」
玉響は鬼を動けなくする『音斬』の使い手である。玉響にしかできない独特の奏法で人には聞こえない笛の音で鬼たちの動きを止める術だ。
「そうか、それではここで勝利の一曲を」
「止めろ、頭が割れる」「笛酔いする」
二人は同時に叫ぶ。普段の玉響の演奏は下手くそすぎて聞けるものではなかった。
「ところで、スガル。もうあきらめなよ。いくら兄貴を探すからって言っても、その力量じゃ無理だよ」
「覚えも悪いし、動きも鈍い。どう考えても検非違使には向いてないな」
小舎人童を務めるスガルを送るため、松明を掲げて平安宮の近くに建てられた検非違使庁に向かいながら、風早と玉響はこんこんと説き伏せる。
しかし、がんとして受け付けないスガルに二人は大きくため息をついた。
「まったく、天花様も何を考えておられるやら。こんな小娘を検非違使に育ててくれなんて」
「仕方ないさ。理由はありませんが、勘です。が口癖だからな」
玉響が首をかしげる。
検非違使庁の長官は「天花様」で通っている。
家柄も良く、うら若い天女のように美しい顔立ち。なのに、ひとたび刀をとらせれば自分の倍もある物の怪を一刀両断にし、ほとばしる才気で難題を即座に解決する、まさに鬼神のごときお人であった。
しかし、困ったことに変人なのである。度を超えて、変人なのである。
自分の事を「天花」と呼ばせている時点でその片鱗はうかがい知れようものだが、ものすごい速さで読んだ巻物や書物で自分が埋もれても、心地よいからと片付けさせようとはせず、約束には必ずといっていいほど遅れ、のめり込むと寝食を忘れて餓死しかけるなど枚挙に暇が無いほど自分中心で奇異な行動が多いのである。
その家柄、外見、才気があれば天皇の側近になって政治の中枢に居てもおかしくないところであったが、残念な性格がわざわいして物の怪や盗賊が出没する都の警備を行う検非違使庁の長官に追いやられている。というもっぱらの噂であった。
「全く、天花様にはいつも振り回されるよ。今日こそはガツン、と言わねばならん」
今度こそはこの小舎人童の育成を断ろうと、風早が決意を述べた時。
「やあ」
背後からの声に三人の足が止まる。
松明を掲げていると言っても、少し離れれば漆黒の闇。一人はともかく、二人は歴戦の兵。ここまで気配を消して近づけるのは相当な手練れ――。
「何を言うつもりだったのかな」
「わああああっ」
振り返った玉響の松明に映し出されたのは、紅の単衣の上に白い狩衣を着たこの世の者とは思えないほど美しい青年だった。
しかし、彼との邂逅はろくなことに結びつかないと三人は知っていた。
「天花様っ、供も連れずにこんなところまで」
「三人が狩りをしていると聞いて、居ても立ってもいられなくなってね。夜の外出は皆が止めるに決まっているからこっそりとでかけて来たんだよ」
目を白黒させている配下に、検非違使の長官はにっこりと笑いかけた。
「我が家に伝わる物の怪香が見つかったんだ。これを撒くと、いつものような雑魚じゃなくてとんでもない奴が現われるらしい」
長官はいそいそと香合を開け、三人が止める間もなく手につまんだ粉をとがらした唇でふっと吹いた。
粉は闇の中を横に広がり、七色に点滅しながら文字のような模様を描き続ける。
「出でよ、腕に覚えの物の怪ども。百戦錬磨の検非違使がお相手いたそう」
「わざわざ追い払っているのに、呼ぶ必要はないじゃないですかっ」
風早の抗議に、目を輝かしながら振り向いた天花様は声高らかに叫んだ。
「奴らはきっと知っているに違いない。星の海を行くこの都の秘密を!」





