2-09 沈黙の軍靴
西暦2020年。
世界が急速に開かれていく中で、ただひとつ閉ざされた島国があった。
徹底した鎖国と軍事統制により、国民の生活はすべて軍の規律の下に縛られている。
国軍少将ユミエル・ウラノミードは、その中でただひとり、国に対してとある違和感を覚えていた。彼の胸に芽生えているものは——忠誠か、それとも疑念か。
——西暦2020年。
グローバル化とデジタル化が加速度的に進み、誰もが他国の文化や情報にリアルタイムでアクセスできるようになったこの時代。
だが、そんな現代において——まるで取り残されたように、旧時代の亡霊のような国家が、ひとつだけ存在していた。
その国の名は、アステモル軍事国という。
海に囲まれた島国であり、外国人の入国を一切禁じ、通信すらも制限している。いわば〝見えない鉄の壁〟で外界を遮断している国である。
自国民の出国すら制限されており、外交関係は超最低限のみ。形だけ加入している国連の国際会議への参加も拒否し続け、国際社会からは『実質的な鎖国国家』として扱われている。
今やそんな国に外部から干渉しようとする者は、ほとんどいない。
その徹底ぶりを思い知らせる象徴的な出来事が、数年前にあったからだ。
ある隣国が沿岸からドローンを飛ばし、アステモルの沿岸部を撮影しようと試みた。
だがドローンは高度十メートルを超えた瞬間、対空砲によって撃墜された。
記録された時間は、わずか3.7秒。
情報を得る前に、通信が遮断されたのだった。
よそ者は入れず、入れても簡単には出られない国。
そこには、冷たく、重く、狂気にも似た沈黙が広がっていた。
アステモル軍事国——その名の通り、軍を中心に政治・社会・文化すべてが築かれた、筋金入りの軍国主義国家である。
政治の実権はすべて国軍に集中し、国民は幼少期から徹底した〝教育〟を受ける。
そこに〝自由〟という概念は存在しない。
ただ、〝忠誠〟と〝規律〟と〝献身〟だけが、美徳とされる。
都市部はもちろん、最果ての村落にすら軍人が常駐し、軍事司令部が網の目のように点在している。
街頭モニターには軍の演説や国軍長の顔が日々映し出され、国民はそれを立ち止まって拝聴する。
家庭では、軍歌が子守唄代わりに流れ、保育園児くらいになると、それらを完璧に斉唱することができる。
自我が芽生えたばかりの子どもでさえ、軍旗の前では立ち止まり、頭を垂れる。
外の人間から見ればそれは洗脳と呼ばれるだろう。
だがアステモルの中では、それがごく当たり前の日常だった。
——ただ、ひとりを除いて。
◇
アステモルの南端にあるダズン地区。
そこに位置する南部司令部に、ひとりの軍人がいた。
国軍少将、ユミエル・ウラノミード。
彼は、他の軍人とはすこし違った目をしていた。
資料の束を抱え、廊下をゆっくりと歩くその姿は、静かで威厳に満ちている。
すれ違う下士官たちは、彼の背に思わず姿勢を正した。
年齢は30代前半と若いが、その実力と統率力から、司令部内でも一目置かれる存在だ。
「ウラノミード少将、おはようございます」
「……ああ。おはよう」
声をかけたのは、国軍大尉のレオン・サリモア。
淡い茶色のくせ毛に童顔を備えた彼は、見た目に反して剣術の達人であり、部下からも信頼される若き将校であった。 少将と大尉。
上官と部下として、ふたりは南部司令部における象徴的な存在だった。
「少将、下世話な話で恐縮ですが……最近、お眠りになれていますか?」
「……睡眠?」
ウラノミードは足を止め、サリモアの方へと振り返る。
目元にかかる茶髪が揺れ、肩まで伸びたその髪は、廊下の風に静かに流れた。
「お顔に浮かぶ隈が、少々気になりまして。無礼を承知で申し上げました」
サリモアは、クリッとした目でまっすぐ見つめる。
彼の淡茶色のくせ毛もまた、足取りに合わせて揺れていた。
窓から差し込む朝の光が、ふたりの深緑色の軍服を照らす。淡い光が、すこしだけ緊張を和らげた。
「……サリモア。君は人をよく見ているな」
「少将だから、見ているのです」
「……そうか。しかし、職務外の気遣いなど不要。だが——礼だけは言っておく」
ウラノミードは無表情のまま、再び背を向けて歩き出す。
その背中を見つめながら、サリモアは音を殺して、小さくスキップをした。
彼に気づかれぬように。
その一歩が、今朝もどこか軽やかだった。
◇
生粋の軍国主義国家。
アステモルにおける〝国軍長〟と呼ばれる存在は、神格化されていた。
重要行事以外では姿すら見せぬその人間は、不可侵の象徴として強く崇められている。
南部司令部の将官執務室。
その一角で、ウラノミードは大量の決裁書類に目を通していた。
執務机の前に並ぶ部下の机は空席だ。
サリモアらは市中巡視に出ており、室内に人影はない。
「……はぁ」
1枚の書類を手に取ると、ウラノミードは小さく息を漏らす。
その手にあるのは、隣国との会談を拒否したことを伝える発令文書。
衝動的に紙を丸めてしまいそうになるのを、彼は抑え込んだ。
そして、静かに判を押す。
——この国は、世界から確実に取り残されている。
ウラノミードはそう感じていた。
少将の地位にある彼は、唯一『他国の調査』という名目で、インターネットの使用が許されている。
最初は義務として他国の動向を調べ、逐一報告をしていた。
だが、近年はその情報の〝異様さ〟に、違和感と疑念が膨らみ始めていた。
画面に映る他国の景色は、現実とは思えないほど輝いている。
空を突く高層ビル。
鉄の塊が屋根の下を走る都市鉄道。
清潔な町並み、自由に歩く人々。
それらは、アステモルでは決して見られない光景だった。
「……」
この国が拒んだ隣国は、交流を望んでいたという。
海で隔てられてはいるが、声は届いていた。
その声を無視する国。
耳を塞ぎ、目を閉じ、現実に背を向けるこの国を、ウラノミードは——静かに疑っていた。
◇
静かな昼下がり。風はゆっくりと吹き抜けていく。
南部司令部の廊下で、軍靴の音だけが乾いた音を立てて響いていた。
「……はぁ」
溜息も止まらない。
執務室の扉を閉じると、ウラノミードは深く息をついた。
机の上には、積み重なる書類の山。
ほとんどが日常的な決裁文書だ。市中巡視の報告、備品の申請、訓練計画の改定。
だがその中に、妙な違和感を覚える書類があった。
「……?」
件名は〝南部教練校の生徒記録・再点検について〟と書かれていた。
封を開けると、教練校の報告書が綴られている。
訓練生の思想調査・行動評価・忠誠度の推移だった。
——これは……思想検査の対象者か?
目を滑らせていくと、2枚のページに目が止まった。
生徒の個人名とともに、〝要観察〟と赤く書かれている。
そして、その備考欄にはこう記されていた。
『父親がかつて〝再教育〟対象として登録されていたため、本人も高リスクと判断』
父親が再教育——つまり、反体制的思想を持っていた可能性がある、ということだ。
ふと、手が止まった。
何かが引っかかる。
言い知れぬ既視感。遠い記憶の底で揺らぐような感覚。
「……エルネ」
ウラノミードは呟いた。
その名は報告書には書かれていない。だが、心に浮かんだ名前。
それは、父の名だった。
エルネ・ウラノミード。
彼が〝事故死〟したとされてから、すでに20年近くが経つ。
当然、忘れてはいない。
けれど、頭の片隅からは追いやった記憶のはずであった。
……なぜ、こんな報告書に違和感を覚えた?
過去に一度も照らされることのなかった父の死。
今、その輪郭がぼんやりと浮かび上がりはじめている気がした。
「……ふん」
ウラノミードは書類を閉じ、無言のまま立ち上がる。
窓の外には、いつも通り整列する訓練兵たちの姿。
無駄のない動き、無表情の顔。
〝理想の軍事国〟と呼ばれる国の日常。
だが、その完璧さこそが、どこか作り物のように思えてならなかった。
その時——背後からノックの音がする。
「ウラノミード少将、サリモアです。巡視報告に参りました」
「……入れ」
静かに扉が開き、そこにはサリモアの姿が現れる。
彼は軽く敬礼をしてから、報告書を差し出した。
その手には、軽く土埃がついていた。市街地に出ていた証拠だ。
「ドスセイ地区の南部教練分校を確認してまいりました。当分校、目立つ異常はありませんでした。ただ、ひとつ気になる点が……」
「なんだ?」
「……教官のひとりが交代になっていたのですが、交代理由が不明でした。記録上は〝転属〟とありましたが、実際の転属先が空欄であります」
ウラノミードは、報告書を受け取りながら視線を上げた。
「その教官の名前は?」
「ハイト・バルゲス中尉です」
一瞬だけ、記憶の奥から名前が引っかかった。
どこで見たか——思い出せない。だが、引っかかる。
「……わかった。確認しておこう」
「はい」
サリモアは軽く一礼をして、ゆっくりと顔を上げる。
すると、ふとサリモアの視線が、ウラノミードの机上の書類に流れた。
「……それ、本教練校の報告書ですか?」
「ああ。思想検査の記録が含まれていたが……なかなか〝徹底〟しているようだ」
その言葉に、サリモアはすこしだけ眉をひそめた。
だが何も言わず、ただ静かに頷く。
「……お気をつけください。少将は、よく見られています」
それだけを言い残し、サリモアは部屋を出ていった。
ウラノミードは再び窓の外を見る。
何も変わらないはずの風景に、微かな〝軋み〟の音が聞こえた気がした。





