96話 矜持
千夏は依然としてゴルビンを睨みつけていた。その目には大粒の涙が溜まり、小さな拳は震えている。
デミットはその様子を穏やかな表情で観察していた。まるで軍師が、戦いの行く末を見守るが如く。
「いくら用意すればいい?」
涼介の声が、静かに響いた。図らずも遥斗のことを言い当てられ、冷静さを取り戻したようだった。
しかし、その瞳の奥には消えない炎が燻っていた。強くなりたいという意思は、曲がらない。いや、曲げられない。
「金って何かわかるか?」
突如として投げかけられたゴルビンの質問に、部屋の空気が変わる。
美咲は必死に質問の意図を理解しようと思考を巡らせた。
(命?人生?価値観?社会理念?それとも...)
しかし、答えは見つからない。
「じゃあ、言い換えよう」
ゴルビンの声が、暖かみのあるランプの光の中で広がる。
「商人にとって最も大事なものは分かるか?」
その問いは、美咲をさらなる混乱に陥れた。商人にとって大切なもの。それは利益?野心?
「それが何なんだよ!」
千夏の怒号が響き渡る。
「結局金なんだろ!いくらだよ!」
彼女の声は、怒りと焦りで震えていた。
「デミット」
ゴルビンは、静かに息子に目を向けた。
「分かるか?」
「はい」
デミットは穏やかに微笑む。
「それは『信用』です」
その言葉は、まるで雷撃のように美咲の心を貫いた。
(そうか...!)
お金とは、突き詰めれば国家が保証した通貨に過ぎない。人々がそれに価値があると信じることで初めて成立する、共通の価値。つまりその本質は、信用なのだ。
そして商取引において、信用は絶対的な存在。安全保障に関わる物を渡すということは、それだけの「信用」を示せということなのだ。
「お前ら」
ゴルビンの声が低く響く。
「王国にスタンピードが訪れた時ドコにいた?王国が今だ危機に瀕しているというのに、何故ココにいる?」
その言葉は、まるで刃物のように鋭く突き刺さった。美咲はもはや杖を握りしめ、唇を噛むことしかできない。あれほど威勢のよかった千夏も、涙を溜めながら睨むことしかできなかった。
しかしー
涼介だけは違った。
「それで?いくら用意すればいい?」
その態度は、相変わらず不遜なままだった。
「ぶわっはっはっ!」
突如として、ゴルビンが大きな声で笑い出す。
「お前その年でその態度、なんなんだ」
その横では、デミットもクスクスと笑いを漏らしている。
あまりの展開に、美咲は目を丸くした。
「いいな、お前」
ゴルビンの声には、明らかな好意が滲んでいた。
「そうだ、商人は自分の信念を殺されても曲げない。戦いに命を懸けるのが戦士なら、商談に命を懸けるのが商人だ」
「いや、お見事です」デミットも嬉しそうに続ける。
「勇者にしておくには惜しいですね」
美咲は涼介の横顔を、羨望の眼差しで見つめていた。自分は言い負かされることしかできなかったのに、涼介は最後まで互角に戦っていたのだ。
「じゃあ、具体的な話をしよう」
ゴルビンの声が真剣味を帯びる。
「俺らは優秀な武器が必要だ。モンスターの脅威、闇の侵略、他国からの脅威、これらを敵に回して自治権を獲得するためにはな」
至極まっとうな論理だった。美咲は真剣に聞き入る。
「つまりその軍事力を落とさない代替案が必要だ。例えばそれ以上の戦力を手に入れるか、後ろ盾となる何か、とかなだな」
「つまり」涼介が静かに言葉を紡ぐ。
「もし俺たちがお前らの武器を手に入れたなら、お前たちのために働け、と」
「そうだ」
ゴルビンは力強く頷く。
「ずっと居ろ、という訳じゃねぇ。この国の危機には必ず力を貸すということだ。だから信用が必要だ」
彼は立ち上がり、涼介を真っすぐに見据えた。
「そしてそれが可能である、という力の証明をして見せろ!」
涼介は、その眼差しをまっすぐに受け止める。
「わかった。数日待て。必ず納得のいく答えを用意してやる」
そう言い残すと、彼は颯爽と部屋を後にした。
「ちょ、ちょっと待ってよー」
千夏が慌てて後を追う。
「貴重なお話、ありがとうございました」
美咲は深々と頭を下げる。
「いや」ゴルビンは満足げに微笑んだ。「久しぶりに面白いものを見た」
そう言いながら、彼はエドガー王の紹介状を美咲に返す。
「デミット、手伝ってやれ」
「は、お任せを」
「一緒に参りましょう」
ゴルビンの部屋を出た直後、デミットが自然な流れで寄り添うように歩き出した。
「あ、よろしくお願いします」
美咲は丁寧に返事をする。重厚な廊下を歩きながら、彼女はデミットの立ち振る舞いの優雅さに目を奪われていた。まるで宮廷で育った貴族のような洗練された佇まいだ。
石造りの階段を降りていくと、1階の玄関ホールで涼介と千夏が待っていた。大理石の床に、二人の影が長く伸びている。
「遅いぞ美咲」
涼介の声には、いつもの調子が戻っていた。
「ごめんなさい」
「あれ?さっきの人じゃん。付いてきたの?」
千夏は好奇心旺盛な子猫のように、デミットの周りをクルクルと回りながら話しかける。その仕草は、先ほどまでの緊張感がカケラも無かった。
「はい、皆様をお手伝いするようにと、父から仰せつかっておりますので」
デミットは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「超いらねー」
千夏の言葉があまりにも無遠慮で、美咲は思わず額に手を当てた。
「千夏!失礼じゃない」
夜の街の喧騒が、ガラス窓越しに漏れ聞こえてくる。
「それでどうするの涼介?」
美咲が尋ねる。今のところ、彼らには具体的な方針が見えていない。
「その男が何か知っているんだろう」
涼介は、まっすぐにデミットを見据えながら言った。
デミットは終始笑みを絶やさないものの、その表情からは真意を読み取ることができない。まるで能面のような、完璧な笑顔。
「ええ、少々私に考えがございます」
その言葉には、何か含みがありそうだった。
「では仲間と先に合流させていただいてもよろしいでしょうか?」
美咲が提案する。時刻はかなり遅くなっていた。約束の時間をとうに過ぎている。大輔とさくらは、待ち合わせ場所で心配しているに違いない。
「勿論ですとも」
デミットは優雅に頷く。
「こちらもその方が都合がよろしいので」
軽くお辞儀をする姿は、無駄のない動きで洗練されている。
「では行くぞ」
涼介の声を合図に、一行は玄関を出た。
アルマグラードの夜は、まるでお祭りのような活気に満ちていた。
通りには無数のランプが灯され、まるで星空のように輝いている。商人たちは昼と変わらぬ熱気で商談を続け、行き交う人々の喧噪が街を埋め尽くしている。
美咲たちは、その中を足早に歩き去るのだった。




